藤乃さんが抱えるもの

 公園のベンチでお酒を飲む藤乃さんと出会って、僕はその場から離れられなかった。

 手に持ったお酒の缶へ視線を落とす藤乃さんは、なにかを伝えようとしているように見えた。

 それが何なのか、僕には分からない。けど、藤乃さんがなにか抱えていることは察していた。

 いつも平日の昼間から映画を観に来るくらいだし、たぶん今はお仕事をしていないのだと思う。もちろん、それが関係しているかは分からないけど、簡単には口にできないなにかを抱えていることは間違いないはずだった。


「あの、隣座ってもいいですか?」

「お酒ならあげられないけど」


 藤乃さんは、場所を空けるように少し横にずれてくれた。


「飲みませんよ、未成年ですから」


 藤乃さんの隣、木でできた横長のベンチに腰を掛ける。ハルは、足元で静かに伏せの体勢になった。

 風が吹くと、まだ少し肌寒い。

 背中には陽射しの温もりを感じるけど、じっとしているとみるみる身体が冷えていく。隣に座ってはみたけど、相応しい言葉が浮かばず、しばらくの沈黙が流れた。


「おい、ふざけんなよ!」


 不意に、幼い声が響いた。

 公園の奥の方で、小さな男の子たちが数人なにか言い争いをしている。一瞬、喧嘩をしているのかと思った。だけどすぐに、一人が他のみんなから責め立てられているのだと分かった。

 男の子たちの足元にはサッカーボールが転がっている。


「マジでいい加減にしろよ」「使えねー」「何度目だよ」そんな罵詈雑言が、一人の男の子に向かって発せられる。中には、耳をふさぎたくなるような言葉も混じっていた。


 幼い男の子は、平気で攻撃的な言葉を使う。遊びの途中で、ふとした拍子にケンカになってしまっただけのことで、きっと一過性のものだ。だけど、トゲのような感情が飛び交うのを見て、僕の身体はこわばってしまう。

 立ち上がって、今すぐ止めに入りたい。だけど、子供だけの世界に年上がいきなり割って入るわけにもいかない。両手で拳を握って、その衝動を堪えた。


「止めに行きたいの?」

「分かってます、僕の出る幕じゃないのは。だけど、悲しんでいる人や怒っている人を見ると、胸がはち切れるみたいに苦しくなるんです」


 それが僕の弱さだとは分かっている。目をそらせばいいだけのことなのに、それができなくて。勝手に傷ついて、臆病になる。もっと器用に生きられたら、これまでの人生も、もう少しマシなものになったはずなのに。


「やっぱり、鳴瀬くんは優しいね。……それとも、もしかしたらそれが普通なのかな」


 藤乃さんは、淡々とした声で語る。


「私は、あの子供を見てもなにも思わないし感じない。私にとって、他人は他人でしかないから。……たぶん、自分自身のことだって――」


 なんとなく僕には、藤乃さんが世間から切り離された特別な存在に見えていた。

 きっとそれは、藤乃さんが周りの世界に対して無関心だったから。他者から影響を受けることがないから、決して揺れたりしない強さがある。僕は、彼女のそういうところに惹かれていた。


「僕には藤乃さんが羨ましいです」

「全然、羨ましく思われることなんて。こんな性格だから、いつも怒られてた」


 藤乃さんは、遠くを見るように目を細めている。その表情は、どこか寂しげに見えた。

 やっぱり、前の会社で怒られてたのかな。それがきっかけで仕事を辞めちゃった、とか。

 大人の世界のことはよく分らないけど、きっと怒られたり否定されたり、そういうことは少なくないはずだ。


「それより、七不思議の方は順調?」


 藤乃さんは急に話題を切り替えた。


「はい。三つ目までタネが分かりました。どっちも冗談みたいな原因だったんですけど」


 思い出して、つい苦笑混じりになる。原因が判明した時は拍子抜けしてしまったけど、改めて思い返してみるとバカバカしくて笑ってしまう。

 それでも、愛想笑いさえ返ってこないのはいつものことだ。今さらそのことで凹むことはないけど、藤乃さんが僕を見つめる視線は真に迫るものだった。


「他には? なにか分かったことはないの?」


 藤乃さんのその表情に圧倒されて、思わずたじろいでしまう。


「えっと、やっぱりうわさ話ってたいてい、何かの勘違いで広まったのがほとんどなのかなって……」

「ごめん、変なこと訊いた」


 きっと藤乃さんが訊きたかったのはそんなことじゃない。だけど僕には、その訊きたかったことが分からない。


「僕の方こそ、すみません」

「別に、鳴瀬くんが謝ることじゃないの。……ただ、私は」


 藤乃さんはそこで言葉を止めて、しばらくなにか言い淀むような態度を見せた後、手に持っていたお酒の缶を一気に煽った。予想以上に中身が多く残ってたのか、飲み込む藤乃さんは少し苦しそうだ。

 僕は慌てて静止しようとした。


「ちょっと、やめましょうよ。気持ち悪くなっちゃいます」


 藤乃さんは勢いよく首を左右に振った。その動作が幼く見えて、それがすでに酔いが回っている証明だった。


「これくらい、全然平気だから」

「平気そうに見えないから言ってるんです。お酒はこの辺りにしておきましょう」

「……嫌。せっかく、少しは回ってきたのに」


 藤乃さんは頑なだ。

 両親ともそれほどお酒を飲む人じゃないけど、お父さんは時々、古い友人と会ったりすると、半ば酔いつぶれて帰ってくることがある。今の藤乃さんは、その時のお父さんと同じような目をしていた。


「なにか、嫌なことでもあったんですか?」


 しばらくの間、藤乃さんはじっとしてなにも答えなかった。返事を諦めて、もう一度お酒をやめるように説得しようとした時、不意にぽつぽつと語り始めた。


「私じゃない、別の誰かになりたかったの。お酒の力を借りたら、もしかしたら変われるかもしれないと思って……」


 それはとても、力のない声だった。


「でもダメだった。羨ましいの。鳴瀬くんが、あの子が――」


 ――あの子?


 僕はまだ藤乃さんのことをよく知らない。あの子、というのが藤乃さんにとってどんな関係の人物かは分からないけど、とても大事な人なんだということだけは伝わってきた。

 藤乃さんはうつむくように視線を足元に向けて、空になった缶を両手で握りしめている。こんな時でさえ、彼女は感情の読めない表情を浮かべていた。

 ぎゅっ、と胸が締め付けられる。

 たとえ表情が変わらなくても、その言葉や態度から苦しみが伝わってくる。感情を素直に表した方が楽になることも、この世の中にたくさんあるはずなのに。


「なにか、僕が助けになれることはありませんか? できることなんて少ないかもしれませんけど、それでも、藤乃さんの力になりたいんです」


 少しの静寂が漂ってから、ペキペキ、という無機質な音が鳴った。空き缶を握る藤乃さんの指先に、力が込められているのが見て取れた。

 それでも、その指先に込められた想いまでは読み取れない。

 やがて藤乃さんから返ってきたのは冷たい声だった。


「本気で言ってるの?」

「え……?」

「私の心配なんて、鳴瀬くんはしなくていい。そんなことを気にしてる暇があったら、早く残りの七不思議を解いて」

「でも、僕はただ藤乃さんのために……」


 ただ力になりたかっただけなのに。

 返ってきたのは、拒絶にも近い反応だった。


「ねえ、もし鳴瀬くんの中で私に対する情が湧いているなら、そんなものは信じないで。それは全部ニセモノ。ただのまやかしだから」


 僕にはなにも分からなかった。

 ニセモノやまやかしだと断言できてしまう理由も、藤乃さんの悲しみも、どうして七不思議なんてものにこだわるのかも、なにもかも。

 最初から不思議な人だと思っていた。分かっていたはずなのに、理解できないことがとてももどかしかった。


「ごめんなさい」


 藤乃さんは不意に、謝罪の言葉を口にした。

 それはとても悲しい声だった。

 藤乃さんはベンチを立つと、広げていた缶のごみをビニールの中にまとめていく。


「帰るんですか?」問いかけても返事はない。「そんなに酔ってたら危ないです。送っていきます」

「酔ってないから。全然、酔ってなんていないから」


 荷物をまとめ終えると、藤乃さんは足早に公園を出て行ってしまう。すぐに遠ざかっていくその背中を、僕はただ見送ることしかできずに立ち尽くす。

 藤乃さんのこと、少しは分かることも増えてきたと思ったのに。


 僕にはまだ、大事なことは何一つ分かっていなかった。

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