平日昼間の公園で
「行くよ、ハル」
午前中の遅い時間、リビングで寝ている彼に声をかけると、元気良く飛び跳ねるように起き上がった。トトト、と軽快に足元まで歩いてくると、本当に嬉しそうに僕の顔を見上げてくる。つられて、僕も微笑みを返した。毎日のように繰り返していることだけど、この穏やかな瞬間が好きだった。
ハルは、僕が小学生の頃に拾ってきた捨て犬だ。中型犬でたぶん雑種の男の子。薄茶色の長毛種で、ふわふわとした触り心地は抜群だ。ちなみに、ハルという名前は、春に拾ってきたことが由来になっている。
お散歩の準備をしている間も、ハルは足元をついて回って期待に膨らんだ大きな黒目を向けてくる。必要な荷物をまとめ、首輪とリードを付ければ準備は完了だ。
僕の家はペット可の小さなマンションの一階にある。通路を抜けてエントランスから外へ出ると、西池袋の住宅街のど真ん中だ。
駅前までは徒歩で十分程度の距離で、東京芸術劇場やキリスト教系の私立大学のキャンパスまでもほど近い。それでも、繁華街からは離れているおかげで、家の周辺には静かな時間が流れている。
外は今日も快晴だ。午前中の澄んだ空気の中、ハルと一緒に散歩をするこの時間が好きだった。
「今日は暖かいね。ちょっとずつ、ハルの季節かな」
言葉での返事はないけど、ハルは見上げて返してくれる。言葉を使った会話ができなくたって、もっと深く、感情でつながっていると感じられる。
余計な気を遣ったり、変に空気を読んだり、そういう煩雑なやり取りが必要ないから、動物と過ごす時間は心地が良かった。
十分ほど住宅街をぐるぐると回ったあと、遊具も充実した広い公園へ入った。時間によっては近所の幼稚園の子供たちが遊びに来ているけど、今は先客もいなくて静かだった。公園の広場をハルと走って、一緒になってストレスを発散させる。健康のためには、やっぱり身体を動かすのが一番いい。
ハルと走っていると、ふと広場のベンチに座っている女の人が目に入った。若い女の人が一人で公園にいること自体珍しいけど、なによりも目を引いたのは、
あの人、午前中からお酒飲んでるよ……。
遠目だったけど、女の人の隣にはいくつもの缶の飲み物が置かれていて、そのどれもがお酒に見えた。
なんとなく近寄りたくないなぁ。そう思って、ハルのリードを引いて離れようとした時、その女性がこっちの方を振り向いた。その顔に驚いた。
「ふ、藤乃さん……?」
見間違えるはずがない。向こうは僕に気づいているのかいないのか、こっちを見たままじっと固まっている。いや、気づいていないはずはないけど、お互いに次の行動に移せないでいた。
やっぱり、僕の方から行くべきだよなぁ。
ハルは不思議そうな表情で見上げながら、小さく首を傾げている。いつまでも固まっているわけにもいかなくて、ベンチの藤乃さんに向かって歩く。近くに寄ると、ベンチの置かれていた缶はやっぱりどれもがお酒で、全部が違うデザインだった。
「なにしてるんですか、こんなところで」
しかも、こんな平日の午前中から。
「なんだろ」
藤乃さんは真剣に考えるそぶりを見せてから、
「お酒を飲んでる、かな?」
「それは見れば分かりますが……」
ハルは藤乃さんに頭をなでてもらって、ご機嫌に目を細めている。うちに来てすぐの頃は警戒心が強かったけど、今ではすっかり人懐こくなっている。
「家、ここから近いんですか?」
「んー、遠くもなければ近くもない、かな。他の公園って、どこも賑やかっていうか、落ち着ける空気じゃないから」
「確かに、ちょっと分かる気がします」
池袋の街の空気は、再開発が進んだことで様変わりをした。変わる前の街は、もうほとんど思い出せないけど、もっとどんよりとした空気があったと思う。サンシャインのある東口とは違って、特に西口の方はなんとなく陰気臭かったり治安が悪いイメージがあった。それがなくなったのはここ数年のことで、特に公園はファミリー層やビジネスマンの憩いの場所として変貌を遂げていた。
それにしても、今日の藤乃さんは雰囲気がいつもと違う。
見てみると、ベンチの上の置かれた四つの缶のうち、半分のフタが開けられていた。ちなみに、藤乃さんの手には今ももうひと缶が握られている。普段の藤乃さんからは感じない、何か危うさのようなものを感じていた。
藤乃さんは、たぶん一人になりたかったんだ。だから、人が少ないこの公園までわざわざ歩いてきたんだ。
話したいことはいくつもあったけど、一人の時間を邪魔したくはない。ハルのリードを引いて、この場をあとにしようとした。
「少しは、感傷に浸れるかもって考えたの」
「え――?」
突然の言葉に足は止まる。
藤乃さんは、手に持った缶の飲み口をじっと見つめていた。
「お酒だって、別にそれほど好きなわけじゃない。けど、酔ってみたらなにかが変わるかなって。……それでも、ちょっと頭がのぼせただけで、私は私だった」
その藤乃さんの表情があまりにも儚く見えて、僕は目が離せなくなってしまった。
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