意外な正体
水上さんに現場を託して、僕と五反田さんは事務所の方へと向かった。
スタッフ専用の通路へと続く扉には、暗証番号式の鍵がかかっている。五反田さんは手早くその数字を入力すると、重い扉を開けて中に入っていく。単純かもしれないけど、関係者以外立入禁止の場所に入るのは、いまだに少し浮足立った気分になる。
「事務所に行くんですか?」
「ああ、確か見取り図が置いてあったはずだ。それを見れば、4番の通気口がどこにつながってるか分かるだろう」
「そっか、見取り図」
通気口のつながる先に、きっと何かがある。もちろん、あの声が本当に通気口から聞こえてきた確証はないけど、今はそれだけが手がかりだった。
この劇場は、大きく二つのフロアに分かれている。一階がエントランスやロビー、そして1番から6番までの各シアター。二階には、事務所や更衣室などのスタッフ用の部屋のほか、いくつかの倉庫や映写のための部屋があるらしい(まだ入ったこともない場所がほとんどだけど)。ただ、ロビーやシアターの天井は高く、きれいに一階と二階とが分かれた単純な構造ではないのだと思う。
頭の中で館内を立体的に展開させてみても、4番シアターとつながる場所はイメージできなかった。
鍵付きの扉を開けた先には階段があって、そこを上った先に事務所がある。
事務所中には数人の社員さんが待機していて、それぞれのパソコンと向き合って、いつも忙しそうに仕事に打ち込んでいる。
タイムカードの操作の他にも、なにかと中に入る用事は多いけど、職員室に入る時のような緊張感はいまだに抜けていなかった。
ノックをしてから、「失礼します」の声とともに中に入る。これも職員室と同じだ。
ずんずんと迷いなく中に入ってく五反田さんの陰に隠れるようにして、おずおずと僕も事務所に入っていく。
社員さんは全員で六・七人ほどいるらしいけど、まだ顔と名前が一致しきっていない。みんなスーツ姿だし、歳も三十前後くらいの人が多い。なにより、接点がほとんどなくて、初日の挨拶の時に顔を合わせた程度だ。
そういえば、「千葉ちゃん」さんはいないのかな。
事務所内を見渡してみても、それらしい人はいない。男の社員さんが二人いるだけで、スーツ姿の女の人はいなかった。
「鳴瀬、あったぞ」
「わ、ありがとうございます」
五反田さんは、リングでまとめられた数枚の見取り図を手渡した。
特に社員さんに声もかけないで勝手に取ってきてたけど、五反田さんくらいになるとかなり自由だ。なにをするにも事前に確認しないと不安な僕とは大違いだ。
「ツッコまれても面倒だから、さっさと出るぞ」
耳打ちをされて、うなずきながら慌てて扉の方へ急ぐ。確かに、見取り図なんて何に使うのかと訊かれたら、なかなかごまかすのも難しい。
「失礼しました」と、ちゃんと挨拶も忘れずに部屋を出て、ほっと胸をなでおろした。五反田さんに引っ張られるままに事務所まで入ってしまったけど、今さらになって緊張をしてきた。社員さんにまで、入って早々おかしなことをしていると思われたくはない。
戦利品である見取り図に目を落としてみる。線はいくつも複雑に重なり合っていて、ひと目見ただけで骨が折れそうだと分かった。
「これは、なかなか大変そうですね」
言いながら隣に立つ五反田さんの高い顔を見上げてみる。その顔は、僕とは反対側の足元の方にじっとくぎ付けになっていた。
「五反田さん?」
視線の先にあるのは、床に置かれたいくつかの段ボールだった。その顔が、みるみる輝きを増していく。
「おお、もう届いてたのか!」
五反田さんは段ボールの前にしゃがみ込むと、まるでクリスマスプレゼントをもらった子供みたいに張り切って開封し始める。思わず、呆気に取られてしまっていた。
「あの、それは……」
「新しいチラシだよ! 結構いっぺんに届いたんだな」
段ボールの中から取り出した一枚のチラシを眺め始める。目を皿にして、そこに載っている情報のすべてを読み取ろうとしているように見えた。
これは、なんだか長くなりそうだなぁ……。
五反田さんは、すっかり自分の世界だ。「この監督はたしか、」とか「この配役はないだろ」とか、ぶつぶつと独り言が止まらない。届いたチラシのすべてをチェックするまで終わらない確信がった。
基本的には頼りになる先輩だけど、映画のことになると途端に残念になってしまうのが五反田さんだ。一岡さんが映画キチと評するのも、ちょっと分かる気がした。
「あとは一人で、ってことなんですかね……」
もちろん、そのつぶやきに対する反応もない。
改めて、ラミネートされた見取り図の紙を睨みつけてみる。ひとまず、ぺらぺらとめくっていって、4番シアターについて描かれた個所を探す。それはあっさりと見つかったけど、肝心なのはここからだった。
天井の通気口がどことつながっているのか。それを探るのは至難の業だ。
平面の図形を頭の中で立体に変えながら、通気口のつながる先を追っていく。指先で図面をなぞって、ラミネートの図面をつなぎ合わせていく。
学校では文系コースを選択する程度に、こういう作業は得意ではないけど、ここまできて諦めたくはない。
シアター内で聞いたあのうめき声は、とても小さなものだった。きっと、上映中に聞こえていたとしても、観客の人がそれに気づくことはないと思う。だけど、原因が分からないままで放置するには、あまりにも気味が悪すぎる。
通気口は迷路のように絡まり合っていて、どこにでも空間自体はつながっている。それでも4番シアターから近く、女の人の声が聞こえる可能性のある場所は――。
「女子トイレ……?」
やがて、図面をなぞる指先がたどり着いたのは、この二階に設置されている従業員用の女子トイレだった。
今も夢中になって段ボールを開封し続けている五反田さんを残して、女子トイレの扉の前まで移動する。右の耳を扉の前に近づけて、その向こうから聞こえる音に耳を澄ませた。
ベリベリ、と段ボールのテープをはがす音がうるさい。それでもじっと息を潜めて待っていると、五反田さんが手を止めた瞬間、その声は聞こえてきた。
『う、うううぅ……』
この声だ!
シアターの中で聞こえてきたのはくぐもった声だったけど、同じ人の声だと思った。
間違いない。この女子トイレから聞こえる泣き声こそが――。
「なにしてんの?」
「うわっ!」
背後からの声に慌てて振り向くと、私服姿の一岡さんが立っていた。どうしてか、やけに非難するような冷たい目をしていた。
考えてみれば、僕は今、女子トイレに聞き耳を立てていたような……。視線の意味に気づいた瞬間、頭が一瞬にして沸騰した。
「ち、違うんです、これは!」
「うち、さすがにどうかと思うなー」
「本当に違うんです! 七不思議の調査でちょっと」
「ふーん? 女子トイレの七不思議なんてあったっけ?」
「えっと、間接的にっていうか、つながってるっていうか……」
身振り手振りも交えて必死に弁解しようとしてみても、言葉はちっとも上手くまとまらない。やっぱり順を追って説明した方がいい気もするし、だけど、長々と説明したら言い訳じみてると思われるかもしれない。
突然、「あはははは」と一岡さんが大きな声で笑い出した。
「そんな慌てなくていいよ。そういう目的だなんて、本気で思ってないから」
「え……?」
「どの七不思議? やっぱり、怪談といったら女子トイレはつきものだもんね」
唐突に疑惑がとけて、呆気に取られてしまった。慌てて、「二つ目です」と絞り出す。
「4番シアターから聞こえる女の人のうめき声ってやつで……、シアターの通気口がこの女子トイレにつながってることが分かったんです」
「へえ~。で、うめき声の原因は分かったの?」
「はい、それが実は――」
言いかけた時、ドアの向こうで個室の扉が開けられた音がした。足音が近づいてくる。
「一岡さん」
移動しましょう、と言うよりも先、女子トイレのドアが開いて一人の女性が姿を見せた。
「ぐすっ」と涙目になった彼女は、濃いめの化粧をしたスーツ姿の女性。きっと彼女こそがあのうわさの、
「千葉ちゃんさん……?」
「え……?」
「なにそれ、千葉ちゃんさんって」
千葉ちゃんさんはドアを出たところで困惑して固まっていて、後ろでは一岡さんが笑いをこらえている。「千葉ちゃんさん」なんて、とっさに口を出てしまったけど、冷静に考えるとすごく恥ずかしい呼び名だった。
「それより、なんでまた千葉ちゃんは泣いてるんですか。今度のケンカの原因は?」
一岡さんが半分呆れながら訊いた。
「ねえ、見て!」
千葉ちゃんさんは突然、一岡さんに向かって自分のくちびるを指さして見せた。さっきまでの困惑も涙も引っ込んで、話をしたくてしょうがない顔だ。
「あれ、口紅の色変えました?」
「そうなの! だんだん春も近いから、ちょっと季節の先取りでピンクに変えてみたの。……なのにカレ、どんなにヒントを出しても全然気づいてくれないし、それどころか面倒くさそうな態度まで取り始めて……」
生き生きし始めたと思ったら、またおいおいと泣き始める。
「男の人ってホント鈍いですよねー」
だなんて、一岡さんは慣れた様子で慰めている。
僕はそんなガールズトークを右から左へ聞き流しながら、二つ目の七不思議について考えていた。
4番シアターから聞こえる女性のうめき声って、やっぱり……。
辿り着いたのは、あんなに怖がったのがバカらしくなるほどの情けない答えだった。
不気味なうめき声の正体は、彼氏とケンカした千葉ちゃんさんの嘆きの声だったのか。
水上さんの話によれば、千葉ちゃんさんが勤務中に泣いているのは日常茶飯事らしいし、その泣き声が通気口を通してお客さんにまで聞こえてしまうのはあり得ない話じゃない。
なんだか拍子抜けだ。清掃中に聞こえてゾッとしてしまった、あの時の恐怖を返して欲しい。
千葉ちゃんさんは、ひとしきり吐き出すと満足したのか、「仕事に戻るね」と手を振りながら事務所へと慌ただしく戻っていく。僕はそれを、目の前を嵐が過ぎていくのを見るかのように見送った。
前評判に違わぬ人だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます