2つめの七不思議
「ありがとうございました」
シアターの中から出てくるお客さんへ、小さく頭を下げながらお見送りをする。すれ違うお客さんの中に、いつも彼女の姿を探していた。
この映画館で働くようになってから、ずっと葵を探しているけど、まだその後ろ姿さえ見つけられていない。いつかはきっと会えるはずだと信じたいけど、その瞬間がいつ来るのかはまったく予測もつかない。今日この後かもしれないし、ひょっとしたらこのバイトを辞める時が来るまで会えないことだって――。
そんな弱気が頭をよぎった時、「いくぞ」と声がした。箒を片手に持った五反田さんが、シアターの中へと入っていく。僕は慌ててそれを追いかけた。
「そういえば、例の4番シアターだな」
それは、いま清掃に入ろうとしているシアターの番号だった。
「覚えててくれたんですか?」
七不思議の二つ目。
『4番シアターから聞こえてくる女性のうめき声』
五反田さんは、これのことを言っているのだと思った。
「もし鑑賞の妨げになるようなものだったら問題だからな。俺も少し気にしていたんだ」
「確かに。映画の最中にうめき声が聞こえてきたら最悪ですもんね」
「運よくホラー映画の最中なら演出で済むかもしれないがな」
シアターの上段の方へ移動しながら、ふと想像してみる。
満員のお客さんで埋まったシアアターで、いかにもなホラー映画が流れている。
スクリーンの中では、夜の真っ暗な校舎の中を、主人公の女の子が懐中電灯で辺りを照らしながら恐る恐る歩いている。きっと学校に忘れ物でもしてしまったのだろう。自分の教室を目指して、人気のない廊下を恐怖と戦いながら進んでいくのだ。
そして、やっとたどり着いた自分の教室のドアに手をかけた瞬間――。
『ヴ、ヴヴヴアァァァ……』
「え……?」
途端に、想像の世界から引き上げられていた。かすかに聞こえたその声(?)は、僕の想像なんかじゃない。間違いなく、このシアターの中で聞こえたものだった。
「今、聞きましたか?」
「うめき声かは分からない。けど、風の音ではなかった、と思う」
意識しなければ聞き逃してしまうほど、かすかな音だった。だけど、それは確かにこのシアターの中で響いていた。
冷や汗が頬を伝う。おかしな想像をしていたせいで、余計に意識をしてしまっていた。
「どこから聞こえたか分かりますか?」
「さあな。音は反響しやすいし、そもそも聞こえた声が小さすぎる」
「そ、そうですよね……」
どうせ七不思議なんてどれもガセで、なにかタネがあるに決まってる。そう思いつつも、こんなうす暗い場所で不気味な声が聞こえて、それでも落ち着いていられるほど肝が据わっているわけじゃない。そもそも、僕の肝なんてちゃんと機能しているかも分からないけど。
「やっぱり、今聞こえたのって……」
幽霊の声なんですかね。それを口にすると、本当のことになってしまう気がして、問いは途中で消えてしまった。
「さあな。ただ、俺はそういうのはあまり信じない性質だから」
五反田さんは、何事もなかったようにパタパタと椅子を開いて、座席の確認を続けている。それに倣って、僕も真面目に本来の業務に集中することにした。ひょっとしたら、なにかの物音が女性の声のように聞こえてしまっただけかもしれない。いや、きっとそうに決まってる。
三列ほど確認を終えて小さく息を吐いた時、再びそれは聞こえてきた。
『ヴアァァァ、ヴヴヴゥゥ……』
今度こそ、確かに聞こえた。とっさに辺りを見回して、声の聞こえた位置を探る。と、天井を見上げた時、そこで目に入るものがあった。
「通気口……」
確証はない。けど、さっきの声は天井から降ってくるように聞こえていた。
「なるほどな、確かに可能性はあるかもしれない」
五反田さんは、僕の視線に気づいたようだった。
あのくぐもった声は、裏口の通路の通気口から聞こえる不気味な風の音と、どこか似ている気がした。声の正体は分からない。けど、この通気口のつながる先に、なにか手がかりがあるはずだと思った。
急いでシアターの清掃を終わらせて外に出ると、劇場の制服を着た男の人と鉢合わせた。
「あ、水上さん」
「おー、五反田さんと――、鳴瀬っち」
水上さんは、四月から大学三年生になる先輩で、いつも人懐こい笑顔を浮かべた気さくな人だ。距離感の近さは気になるけど、決して不快になる馴れ馴れしさはなかった。
「4番の清掃、入ってくれてたんすね」
「ああ。3番が終わるまで五分ほど空きだな」
「ラッキー。サボれんじゃん」
水上さんは入り口わきの壁にもたれて、いかにも疲れた様子だった。
「お前、今出勤したばかりだろ。どうしてもうそんなに疲れ切ってるんだ」
「だって、事務所に入った途端、千葉ちゃんに捕まっちゃったんすよ。突然おいおい泣き出すは、変に絡まれるはで、もうくたくたっすよ」
「千葉ちゃん?」
「社員の女の人。たぶん、また彼氏とケンカしたんじゃない? 千葉ちゃんはすごいよー。なにせ二回に一回は彼氏とケンカして泣いてるし、二回に一回は仲直りしてご機嫌だから」
「は、はぁ」
社員さんの顔はまだうろ覚えだけど、なんとなく思い出せる顔がある。二十代後半くらいの女の人で、少し化粧の濃い顔でニコニコ笑顔を浮かべていた。その時は、仲直りをした後だったのか。
こういう時、真っ先に「変なことを言うな」と咎めるのが五反田さんなのに、今回はただ苦い顔をして口を結んでいる。その態度が、水上さんの話に誇張がないことの何よりの証明だった。
「なかなか、すごい人なんですね……」
「ある意味、うちの名物といっても過言ではないかもね」
「その辺にしておけ。これ以上は余計な先入観を与えるだけだ」
ついに五反田さんからのストップが入って、水上さんは小さく肩をすくめた。
「水上さんは、この劇場で長いんですか?」
「いや? まだ始めて三ヶ月くらいかな。バイト二ヶ所目なんだよね」
意外だった。社員さんとも親しげにしているみたいだから、てっきりもうベテランなのかと思ったのに。
驚いていると、その表情の意味を察したのか、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「すごいでしょ? ここの人とはもうみんな友達だから。ってわけで、鳴瀬っちも」
大げさに両手でガッチリと握手をされる。僕はただ、されるがままだった。
「本当に、こいつの馴れ馴れしさには呆れを通り越して感心するよ」
五反田さんは、呆れと感心が半分半分の声だった。
大学の大きなグループの中で、水上さんがみんなの中心に立っている姿が容易に想像できた。きっと高校の時も同じだったはずだ。クラスの人気者で、女子との間に壁なんてなくて、先生のこともあだ名で呼んでしまったりするんだ。
僕の今までの学生生活でまったくの無縁だったタイプの人。
アルバイトを始めてから、知り合う人の幅みたいなものが本当に増えたと思う。それは単に年齢が広がったわけじゃなくて、ここで働いている人はいろんな属性みたいなものを持っている。
学校にもいろんな人間はいるけれど、受験というフィルターを通したことで、やっぱりどこか似た者同士が集まるようにできている。話をしてみれば、実際はもっと一人ひとり違っているのかもしれない。だけど、みんなクラスの中でも考えの近い者で集まって、さらにお互いに共通する部分しかさらけ出そうとしない。
もちろん、そういう付き合いも楽しかったし気が楽だったけど、年齢も考え方もバラバラなこの劇場のスタッフの人たちは面白かった。
「そういえばさ、鳴瀬っち面白いことしてるんでしょ?」
「面白いこと?」
「なんだっけ、一岡ちゃんから聞いたんだけど、この映画館の怪談みたいなやつ」
「七不思議、ですか?」
「そうそれ! どう、なにか分かった?」
まさか、水上さんにまで知られていたなんて。ひょっとしたら、バイトの間で話が広がっているのかもしれないと思って、急に気恥ずかしくなる。新入りのくせに何をふざけているんだ、なんて思われてないといいけど……。
「えっと、さっきもここでその調査をしてたんですけど……。女の人のうめき声が聞こえてくるってやつで」
「おお、それっぽい! で? で?」
水上さんは興味津々に、話を急かすように足をパタパタと動かしている。
それに答えたのは、五反田さんだった。
「今から鳴瀬とその正体を探ってくるところだ」
水上さんが、「おっ」と期待する反応をする横で、僕は「えっ?」と驚いた。それは僕としても初耳だった。
「しばらく一人にしても大丈夫か? 今は何人も必要ないだろう」
「まあ、いいですけど……」
しぶしぶ承諾する水上さんに軽くお礼だけ言ってから、五反田さんはきびきびと事務所へと続く扉の方へ歩いていく。僕はその背中に慌ててついていった。
「なにか分かったら、ちゃんと教えてくださいよー」
水上さんのその声は、一緒に調査できないことに不満げだった。
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