回想・葵、映画館、池袋

 ◇


「んー、面白かったー! やっぱり、映画はおっきなスクリーンで観るに限るよね」


 葵は、外に出ると大きく伸びをした。

 半袖のシャツから伸びる真っ白な腕は、夏の日差しを浴びてきらきらと反射している。そのまぶしさに、僕はいつも目がくらみそうだった。


「うん。絵もすごくきれいだったし、引き込まれたね」


 話題のアニメ映画を観てきた僕らは、満足のいく内容にご機嫌だった。

 映像もストーリーも綺麗で、エンドロールが終わった後もしばらく座席の上で動けなかった。

 映画館を出た後、僕たちは自然と駅の方に向かって歩いていた。


「ねえ、この後どうする? どこか寄っていくよね」


 弾むような調子の声で訊かれると、断りの言葉も出てこない。いつだって僕は、葵に振り回されて、彼女の後ろをついて歩くしかできなかった。

 葵とはじめて言葉を交わしたのはその年の春のことだけど、知らない景色を見せてくれる彼女はあっという間に、僕にとって欠かせない存在になっていた。もう葵と出会う前の毎日が思い出せなくなるほどに。


「もちろん。映画の感想も話したいし」

「それでよし」


 葵は満足そうにクシャっとした笑みを浮かべる。彼女の表情はいつも、感情がそのまま形になったかのように素直で、心地いいのと同時に羨ましかった。


「さて、今あたしが飲みたいと思ってるのは、スタバのフラペチーノか、新規開拓したお店のあまーいモカか。どっちでしょう!」

「えー、なんなのその二択」


 葵は、時々こうしてなんでもないことをクイズにして出してくる。思いつきのクイズに見えても、実は何気ない会話の中にヒントが隠されていたりするから油断できないのだ。

 スタバか、行ったことのないお店を開拓するか。以前に葵は、まだまだ行ってみたいお店がたくさんあると言っていた気がするけど。新規開拓の方、と答えかけて、不意に思い出した。


「ひょっとして、スタバの方?」

「正解! 新しい期間限定のやつが出たから、試しておきたかったんだよね」


 映画を観る前、新作が出たという話を、ちらとこぼしていたことを思い出した。本当になにげないつぶやきだっただけに、やっぱり油断ならないと痛感する。

 スタバなんて、葵と出会うまでは完全に縁のない場所だった。学校の帰りに寄り道をすることなんてなかったし、土日だって映画館か家族と買い物に行く程度の娯楽しか知らなかった。それを葵に話したら、「えー! なんのために池袋に住んでるの⁉」と驚かれたのは、今でも忘れられない。


「そうと決まれば、早くいこ」


 目的地が決まった葵は、ますます意気揚々となって歩く。

 葵は歩くのが早い。機嫌がいいとその速さがさらに二割り増しくらいになって、油断をするとどんどん先に行かれてしまう。だけど、一歩後ろから彼女の後姿を眺めるのも好きだった。

 肩の先まで伸ばしたまっすぐな黒髪が揺れるたび、光を浴びてきらきらと光る。背中越しでもご機嫌なのが伝わってきそうなほど、跳ねるように歩くその姿が好きだった。


「葵が、同じ学校だったらいいのに」


 ふと、そんなことを漏らしてしまった。


「どうしたの、突然」

「ううん、ちょっと思っただけ」


 それは、もう何度願ったかも分からない想いだった。

 葵と出会ってから、僕の日常は大きく変わった。だけど、それは彼女と一緒にいられる時間だけのことだ。僕自身が変わったわけじゃない。葵のいない学校では、これまでと変わらない淡々とした日常が続いていた。

 誰とも必要以上に交わることはなく、傷つくこともない静かな日々だ。


「私がいなくたって、鳴瀬はもっと学校でも堂々としたらいいんだよ」


 葵は困ったような顔をしてそう言った。

 そんな反応をさせてしまった自分が途端に恥ずかしくなって、聞こえないふりをして話題を戻した。


「期間限定のやつ、たまには僕も飲んでみようかな」


 ◇


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る