第2章~常連のお姉さんは不思議な人~

安く映画が観られるのはスタッフの特権です

 僕がこの映画館で働くのは、いつか葵が客としてここに来るのを待っているからだ。

 だけどそれとは別に、映画館で働くことで期待していることがもう一つあった。

 それはアルバイトの特権。従業員には、安く映画を観られるサービスがある。高校に入ってからすっかり映画から離れてしまった僕が、密かに楽しみにしていたことでもあった。


 平日の昼間から遊び歩けるのは、早々に受験を終わらせた僕の特権だ。シフトが入っていないその日は、客として「Cinema Bell」を訪れていた。

 ロビーは閑散としていて、お客さんの姿はまばらだ。チケットカウンターの方を見ると、そこに立っているのは見知った顔だった。

 近づいて声をかける。


「一岡さん、チケットも担当するんですね」

「あれ、鳴瀬くんだ。うちはオールラウンダーだからね。時にはポップコーンだって弾くし、パンフレットだって売るよ~」


 一岡さんは得意げだ。大学生は長い春休みに入ったみたいで、一岡さんはほとんど毎日シフトに入っていた。


「なんだか、『Cinema Bell』に来ると必ず一岡さんに会うような気がします」

「あはは、そうかも。うち、ここしか居場所ないし」


 冗談めかした口調だったけど、どこか本気っぽく聞こえてドキッとした。返す言葉に困っていると、一岡さんはあっさりと話題を切り変えた。


「それより、今日の鳴瀬くんはお客様?」

「はい。せっかくなので、従業員割で観てみようかな、と」

「いいねいいね。使えるものは使っておかないと。それで、なに観るの?」


 一岡さんはカウンターに置かれたパソコンの画面を少し操作する。

 この古い劇場では当日券を購入する場合、必ずこのチケットカウンターを利用することになっている。最近では無人の券売機が置かれている劇場も多くあるみたいだけど、やっぱりその辺りのところは遅れている。


「すみません、まだ決めていなくって……。当日の気分で考えようかなって」

「あれ、そうなの?」


 と、一岡さんは突然、ニヤっと口角を釣り上げた。


「だったらさ、今からちょうどうちのおススメが始まるんだけど」


 言いながら、一岡さんはパソコンを操作し始める。選ばれたのはマイナーな洋画で、意外に思っていると、一岡さんがそれを選んだ意図はすぐに分かった。

 席の空き状況を示す画面がカウンター上のモニターに表示される。埋まっているのは、シアター後方のたった一席だけだった。


「まだ予告の最中だと思うけど、どう? 観てみる?」


 一岡さんは、いたずらっぽく笑った。



 僕がチケットを持って向かったのは3番シアターだった。

 ストッパーで開けられたままの扉を抜けて、中に入っていく。スクリーンには近日公開される映画の予告が流れていて、うす暗いシアター内を賑やかに彩っている。

 全然、興味を引かれる内容じゃなかったのに……。僕は、一岡さんにそそのかされるまま、あっさりとその作品のチケットを買ってしまっていた。

 スロープを半分ほど登ったところで座席の方を見渡すと、


 ――いた。


 画面で一席だけが埋まっているのを確認したその席に、あの女の人がぽつんと姿勢よく座っていた。

 スクリーンの方を向いていた彼女の目が、僕の方を向く。目が合ってしまって、とっさに小さく会釈をしながら、自分の席に急いだ。

 会釈なんてしないで、もっと自然にすればよかった。きっと、あの時の従業員だってバレたに決まってる。僕が取った席は、彼女が座る場所から三列ほど前の場所だ。距離は離れているけど、後ろから見られているような気がしてしまう。


 思わず後ろを振り向きたくなる衝動を押させて、じっと正面のスクリーンを睨みつけた。流れる予告はどれもありふれたアクションものばかりで、興味を引かれるものは一つもない。

 と、そこで場内の明かりが消えて、さらに深い暗闇が辺りを包んでいく。やっと、本編が始まる時間になったみたいだ。


 冒頭からいきなりアクションシーン。名前も知らない海外の俳優さんが爆発の中を懸命に走り回っているけど、いまいち臨場感は伝わらない。意識はちっとも映画の中に入っていかずに、むしろこのシアターの中に集中してしまっていた。正確に言えば、このシアターの中の三列ほど後ろの座席だ。

 僕の後ろで、あの女の人が同じスクリーンを見つめている。今、どんな表情でこの映画を観て、どんなことを感じているのか、そんなことばかりが気になってしまった。


 あの人が映画を観る時、いつも決まって他にお客さんがいないっていう話だったけど、やっぱりマイナー映画が好きなのかな。

 老舗の劇場でもあるこの「Cinema Bell」では、他で上映していないようなマイナー映画も多く扱っている。一部の愛好家の人が観にくることもあるけど、それでもマイナー作品は閑散とすることが常だった。

 僕の目はスクリーンの登場人物たちを捉えているのに、意識は常に後ろの席に座る彼女を向いていた。映画の中の物語が進んで、主人公は絶体絶命の危機に陥って、それでも敵を倒そうと奮起している。それなのに僕が気にしているのは、同じスクリーンを見つめているあの人のことだ。

 今のシーンはどう思ったのかな、この俳優さんの演技は良かった、どのキャラクターを好きになっただろう。映画を観ながらも、映画が終わった後に語りたいことばかりを考えている。


 ふと懐かしい気持ちになった。

 三年前、葵と二人で映画を観ていた時もこんな調子だった。もちろん面白い映画ならもっと純粋に内容も楽しんでいたけど、常に意識の中には葵がいて、彼女と語り合う話題を探していた。それはきっと、誰かと一緒に映画館で映画を観ることの最大の醍醐味だ。

 思わず、一人苦笑を漏らした。もちろん、笑うようなシーンじゃない。

 一人で映画を観に来た客同士が、たまたま一つのシアターで二人きりになってしまっただけのはずなのに。なんだか恥ずかしいくらいに意識をしてしまっていた。


 いよいよ映画はラストシーンへと突入する。敵のボスと相討ちになったと思われた主人公が実は生きていたことが判明して、そんなハッピーエンド。全部が唐突で、結局最後まで入り込むことはできなかった。

 エンドロールが流れる。壮大な洋楽と共に無数の名前が下から上へ流れていき、やがてそれも終わると、シアター内には薄明かりが戻った。

 僕はすぐには立ち上がらず、じっと椅子の上に座ったままで待っていた。


 映画を観ると、感情移入をし過ぎてしまって、終わった後にぐったりとしてしまうことがよくあった。だけど、今回は入り込めなかったのが幸いしたのか、いつもの脱力感は少しも感じなかった。

 なにも映らなくなった真っ黒なスクリーンを見つめたままでいると、近づいてくる人の気配があった。


「最後、主人公が生きてたのどう思った?」

「――え?」


 僕の隣まで移動していたのは、後ろの席に座っていたはずの女の人で、予期していなかった質問に驚いた。


「少し驚いたっていうか、あの状況で生きてるとは予想できなかったので……」


 もし相手が映画を気に入っていたらと思うと、下手な感想は口にできない。必死にオブラートに包んでの感想だったけど、どうやらいらない気苦労だった。


「あそこでそのまま死んでた方がカッコよかったのにね。生きてた理由もいかにもご都合主義って感じだったし」

「は、はぁ」


 結構、はっきり言うタイプなんだなぁ……。

 唐突の毒舌に、上手い返しもできなかった。


「でも、あなたも同じ意見で安心した。私、人とこういう話をするといつも、血の通った人間とは思えない、みたいなことを言われるから」

「そ、それはなかなか辛辣な……」


 僕も別に主人公は死んでいた方がよかったとまでは言ってないけど、と、思っていても口にはしない。

 うん、良かった。と独り言のようにつぶやく彼女の態度を見て、このまま映画の感想だけで話が流れてしまいそうな雰囲気を感じた。

 この人には、伝えなければいけないや訊きたいことがいくつもある。


「あの。七不思議、一つ解けましたよ」

「そうなんだ」


 あまりにもあっさりとしたその反応に、肩透かしを食らった気分だ。七不思議の話題にも、ちっとも表情を変えない。もう興味をなくしてしまったのかと不安になるくらいだ。


「七不思議のどれ?」

「えっと、一つ目の入れ替わるシアターです」


「そう」と、女の人がつぶやいた時だった。スタッフが二人、箒を片手にシアターに入ってきたのが見えた。二人とも、まだ会ったことのない顔だった。


「ちょっと場所を変えようか」


 女の人はそう言ってシアターをあとにしようとする。その言葉の意味を理解するまで一瞬の時間がかかって、僕は慌ててその背中を追いかけた。

 ホワイエを抜けて、まだ名前も知らないスタッフの人に見送られながらロビーへと出る。一岡さんに見つかるのを心配したけど、休憩中なのか、姿は見かけなかった。

 エントランスの自動ドアを抜けて、表の通りへ出る。

 外のまぶしさに目を細めた。女の人は、大きく伸びをして体をほぐしている。

 映画は午前の上映だったから、今はお昼過ぎだ。だんだんと腹の虫が活動を始めようとしている頃だった。


「お腹、空いたよね? ファミレスでいい?」

「え? あ、はい」


 やっぱり、この人の会話のテンポには慣れない。段階を一つ二つ飛ばしているような、そんな感じだ。そんな僕の戸惑う反応も無視をして(ただ気づいていないだけかも)、彼女はそそくさと歩き始める。きっと無意識なんだろうけど、かなり早足で歩くから、ついていくのも大変だった。

 僕は小走りになって必死に追いかけた。


「あの、ご一緒していいんですか?」

「私から誘ったんだよ?」

「それはそうですけど……」


 そういえば、明るい場所でこの人のことを見るのは初めてだ。

 いつもうす暗いシアターの中で闇に溶けていた真っ黒な髪は太陽の光で艶を放ち、真っ白い肌は透き通るかのようだった。僕は彼女の一歩斜め後ろを歩きながら、その顔を覗き込むように見つめてしまっていた。

 それきり会話は途切れて、通りに沿ってまっすぐ進んでいく。進む方角は池袋の駅からは反対側で、繁華街からはだんだんと遠ざかっていく。


 たしか、こっちの方にファミレスはなかったはずだけど……。頭の中に地図を浮かべてみても、それらしいお店は引っかからない。

 不意に、女の人はピタリと立ち止まった。

 そして、やけに真剣な顔をして僕の方を向いて言った。


「ねえ、近くのファミレス、どこにあるか知ってる?」

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