入れ替わる二つのシアター
照明が落ちて暗くなったシアターの客席を見渡すと、それはすぐに見つかった。
入り口からすぐ近くの椅子の上に、特徴と合致するバッグがぽつんと置かれている。このシアターでは今も作品が上映中で、僕はできるだけ気配を消すように、小さくなってバッグのところまで歩いた。幸い、バッグの置かれた椅子の周りに他のお客さんはいなくて、誰の邪魔になることもなく確保できた。
腕にバッグを抱えたままシアターをそそくさと出て、ほっと一息を吐いた。
「すごい、本当にあったんだ!」
「驚いたな。まさか本当に場所を当てるなんて」
扉の前で待っていた一岡さんと五反田さんが、感心した顔で出迎えてくれた。その表情に嬉しくなる。
「見つけられて良かったです。あのまま無防備に置かれていたら、本当に盗まれたかも分かりませんから」
「それにしても、よく場所が分かったな。その男が言うには、置いたのは5番シアターだったんだろう?」
たった今、僕がこのバッグを見つけたのはもちろん5番シアターじゃない。そこからは離れた場所にある、2番シアターだった。そこでは三十分ほど前から映画が上映されていて、今も本編が続いている。
「状況的に、たぶんあの人は自分がいた場所を勘違いしていたんだと思ったんです。けど、勘違いした先が分かったのは、ただの偶然です」
「結局、どうして場所を勘違いなんてしたの?」
一岡さんは顔を輝かせて興味津々だ。謎解きか何かみたいだと思っているのかもしれない。
「そうですね。この2番シアターも、そのうち5番シアターと入れ替わりますよ」
言いながら、通路の向かい壁に埋め込まれたモニターを指さした。今の立ち位置なら、角度的にもちょうどいい。
モニターには、映画の鑑賞マナーにいての案内が表示されている。
「あれがどうかしたの? ――あ!」
その画面が暗転した瞬間、2番シアターは5番シアターへと変わった。
「たぶん、あの男の人は画面に映った数字を見たんだと思います。鏡になって、反転した数字を」
直線のみで表された「2」と「5」の数字は、反転すればお互いが入れ替わる。それが今回の入れ替わりのタネだった。
通路の向かいに埋め込まれたモニターと、シアター横に設置された番号を映し出すモニター。その二つが向かい合うように設置されていたことも、今回の勘違いが起きた大きな要因だ。
真っ暗になったモニターに、白色の文字はよく反射する。壁に埋め込まれた案内のモニターが暗転したその瞬間、そこに番号の数字が反射して、二つのシアターが入れ替わるのだ。
五反田さんは、ちょうど扉の前に立ってモニターに映る角度を検証している。
「たしかに、シアターを出た時、ちょうど目に入る位置だ。深く考えなければ、数字が反対だなんて思い至らないだろう」
「けど、普通そんなの気づかないって! よくシアターが入れ替わるなんて考えたよね」
一岡さんの心から感心したような声に、罪悪感を覚えてしまう。そのことに気づけたのは、僕のひらめきでも何でもない。
少し迷ってから、ウエストポーチにしまったままの例のメモ紙を取り出した。
「実は、前にあるお客さんからもらったものなんです。……この劇場の七不思議だそうです」
二人は興味深そうに紙をのぞき込む。
「なるほど。確かに、状況的にはこの一つ目と同じだな」
「へ~、ここって七不思議なんてあったんだ。もしかして、あるお客さんっていうのは、あの女の人から?」
一岡さんの言う「あの女の人」は、僕の思う「あの女の人」とたぶん同じだろう。
「はい。この前清掃に入ったら、またあの人に会って。その時に突然もらったんです」
「あの女の人っていうのは、いつも一人で映画を観ているあの女性か?」
五反田さんが訊いた。
「いつも一人で?」
確かに、あの人に会った時は二回とも一人だった。
だけど、代わりに答えた一岡さんの言葉は、僕の考えたこととは少し違っていた。
「そうだと思う。他にお客さんのいないシアターで、いっつもポツンと観てる人」
一人で映画を観ている。それは、僕が思い浮かべたのよりももっと大きな意味での言葉だった。あの人はいつも一人で映画を観にくるだけじゃなくて、他に誰もいないシアターを選んで観に来ていたんだ。
あの女の人が、いつもの表情のまま顔色一つ変えずに、ポツンとシアター中央の席に座ってスクリーンを眺めている。
そんな光景が頭に浮かんで、少し胸がちくりと痛んだ。
「なるほどな。ただ、その女性が何を思って鳴瀬にそれを渡したのかは分からないが、ひとまずは目の前の仕事だ」
言いながら、五反田さんはどこかへ歩いていってしまおうとしていた。
「どうかしたんですか?」
「少し確認したいことがあるんだ。悪いが、しばらく二人で頼めるか?」
五反田さんは事務所へ続く扉の奥へと消えていく。僕は一岡さんと顔を合わせてお互いに首を傾げてから、腕時計を確認した。そろそろ雑談もしていられない時間だった。
それから二時間ほど通常の業務を続けて、ようやくあのバッグの男性の観ている映画が終了する時間になった。男の人がシアターを出てきたのは、エンドロールが流れはじめてすぐのことだった。
扉の前には、僕たちアルバイト三人と社員の中村さんが立っていた。中村さんは、パリッとしたスーツを着こなす、三十代ほどの男性だ。四角いフレームのメガネをかけていて、いかにもきちっとした雰囲気を出している。
シアターを出てきた男の人は、まず僕を見つけ、手に持ったバッグに気づくと歓喜した。
「おお、それだよそれ! どこにあったの?」
今、この男の人に苛立ちはない。だけど、さっきの恐怖が思い出されて、全身がこわばってしまうのは止められなかった。
小さくつばを飲み込んでから答える。
「2番シアターの中です。その座席の上に置いたままになっていました」
「2番?」少し怪訝にしたが、すぐに興味を失くしたみたいだ。「まあいいや。さっさと返してよ」
僕は視線で中村さんに確認をする。うなずいたのを見て、素直にバッグを返した。
手元にバッグが戻って、男の人が満足げに帰ろうとすると、
「帰っていいとは言っていません」
中村さんが強い口調で呼び止めた。
男の人の肩が跳ねる。ギクッ、という声が聞こえてきそうなほど、あからさまな反応だった。
「なんだよ、まだなにかあるのか?」
足を止めて振り向いた彼の顔には、焦りと怒りが浮かんでいる。
「さっきまで御覧になっていたこちらの作品、そのチケットを見せていただいてもよろしいですか?」
「そ、それは……。邪魔だからもう捨てたよ」
苦し紛れなのは明らかだ。
「あなたがその作品のチケットを買ったこと、うちのチケットスタッフは覚えていませんが?」
「ネットで買ったんだよ!」
「ならば、余計に履歴が残りますね。そもそも、さっきまであなたの座っていた席が、誰にも購入されていない座席であることは確認しています」
中村さんの声は淡々と落ち着いていたけど、それが逆に威圧感を与える響きを持っていた。
と、中村さんからの目配せがあった。あとは任せて欲しいということだろう。
五反田さんもそれに気づいて、「行こう」と言った。ここから先は、僕たちバイトの出る幕じゃない。
言い合いを続ける二人と十分な距離を取ってから、今回の事の全容を確認した。
「あの人、お金払ってなかったんですね」
「おそらく、朝の回で一つ作品を見ていて、その時にはちゃんとチケットを買っているはずだ。ただ、鑑賞が終わった後もロビーに戻らないで、そのまま別のシアターに入っていくズルをするやつがたまにいるんだ」
なるほど、一度チケットを見せてホワイエの方まで入ってしまえば、そこからはもうチケットを確認されることはない。考えたこともなかったけど、そんな悪知恵を働かせる人もいるのか。
「ま、そういう人ってたいてい挙動不審だから、案外すぐにバレるけどね」
「それじゃあ、荷物が上映中の2番シアターに置かれていたのは」
「最初はそっちで無銭鑑賞をしてたんだろ。で、つまらなかったから途中で出てきた。間抜けにも、荷物を忘れてな」
ようやく全部に合点がいった。あの人があんなに苛立っていたのも、ひょっとしたら後ろめたさが裏にあったからなのかもしれない。
「あの人はどうなるんですか?」
「たぶん出禁だろう」
「うちとしては、ガツン!とやって欲しいけどね。まあ、中村さんも結構キレてそうだったから、厳しく言ってくれるとは思うけど」
「そうだな。魂を削って作られた映画というものが、正しい対価を払わずに観られていいはずがないんだ。監督や演者、すべての関係者への冒涜だ」
五反田さんの言葉には、一般論を超えた力強さがあった。
自分が映画を愛しているからこそ、余計にあの人の行為が許せないんだろう。僕には作る側の人の気持ちは分からないけど、五反田さんの怒りは肌で伝わってくる。
「さすが映画キチ。ま、うちも正論だけどは思うけどさ」
「だいたい、最近はなんでも無料で手に入れようとする輩が多過ぎるんだ。対価を払わずして何かを得られるはずもないのに。そもそも……」
「どーうどーう。分かったから、分かったから落ち着いて」
そんな二人のやり取りを聞きながら、考えていた。
こんなことを言ったら、五反田さんに怒られるかな。
消えたバッグを捜索するのが、楽しかったなんて。
あの男の人は怖かったし、お金を払わずに映画を観るなんて許せないけど。それとは関係なく、こうして二人と一緒に頭を悩ませながら劇場内を歩き回ったことが、ただ単純に楽しかった。
バイトの先輩だけど、なんだか、友達と遊んでいるかのようで――。
「僕、他の七不思議も解いてみたいです」
思わずそんなことをつぶやいてしまっていた。
途端に恥ずかしくなって、必死に言い訳を並べ立てる。
「今回みたいなことがまたあるといけないですし、そういううわさってお店的にもあんまり良くないのかなって思って、それで……」
二人からの反応が怖くて、言葉は徐々に力を失っていく。
やっぱり今からでも撤回しようかと思った時だった。
「楽しそう! 残りの六個も気になるし」
「肝心の仕事に支障が出ない程度なら、悪くないんじゃないのか」
二人から返ってきたのは明るい声だった。
そんな大げさな頼みをしていたわけでもないはずなのに、二人の反応がなんだかいやに嬉しかった。
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