消えたバッグの謎

 次の出勤から、研修担当がつきっきりになることはなくなった。

 今後は他のセクションでの仕事も覚えていくことになるらしいけど、今は「フロア」で覚えたことを反復して身体に染み込ませていく段階だ。


 少しでも不安の残る時は必ずメモを見返しつつ、一人で仕事をこなしていく。この日はアルバイトを始めてから初めて迎える休日だということもあって、館内は見たこともない混雑ぶりだった。

 平日よりも作品の上映回数は増えて、なによりも一回の上映当たりの観客数が平日の数倍にも膨らんだ。それに比例して館内に落ちているゴミの数も増えて、お客さんから声をかけられることも多かった。


 今日のシフトはお昼前から夕方までの六時間ほど。出勤をしてから一時間ほどが経った頃、まだシフトの半分も終わっていないというのに、心も身体もすでにへとへとになっていた。

 最近知ったことだけど、主に清掃や上映の確認などを担当するこのフロア業務が一番の肉体労働らしい。実際、館内の端から端まで走り回ったり、シアター内の階段を駆け上がったり、意外にも足腰に負担がかかることが多くあった。

 まだ冬の終わり頃だというのに、走り回ったせいでじわりと汗がにじんでいる。

 フロア業務のもう一つの大きな特徴は、お客さんと接する機会が極端に少ないことだ。声をかけられることがあっても、シアターやトイレの場所を訊かれたり、たいていはその程度だ。

 黙々と身体だけを動かして作業する。その特色がこの僕には合っている。


 そう、思っていたのに。


 近くのシアターできちんと予告が上映されているのを確認して、本編が始まるまで少しの時間ができていた。見回りも兼ねてホワイエを歩いていると、


「おい!」


 不意に、大きな声で呼び止められた。驚いて、どくん、と心臓がはねた。

 振り向くと、やけに焦った様子の中年の男の人が走ってくる。焦りの中にも苛立ちの表情が混じっているのが見てとれて、いやな予感がした。

 全身に緊張が走る。


「どうしましたか?」

「俺の荷物がなくなったんだよ! 誰かに盗られたんだ!」


 つばを吐き散らすほどの剣幕だった。

 すぐ目の前まで詰め寄られて、言葉が出なかった。苛立ちが、怒りが、肌に突き刺さるように伝わって、心臓を鷲掴みにされたみたいだ。胸の辺りから温度が消えていき、身体がすくんで固まってしまった。

 なにか言おうとして、けど、口の中が乾いて舌が動かない。


「兄ちゃん、なに黙ってんだよ。荷物が盗られたんだぞ!」

「す、すみません……」


 かろうじて謝罪の言葉を絞り出す。


「いいから早く盗んだ奴を探してくれよ。前のボーナスで買ったばっかりだったのに」


 男の人は、高圧的な口調で荷物を探すように要求する。

 失くし物の対処方法なら説明を受けていたし、何度か一岡さんがやっているのも見たことはある。そのはずなのに、今は頭が真っ白だった。

 どうしよう。まず、なにをすればいいんだっけ……。


「おい、大丈夫かよ」


 男の人は、なにもできないでいる僕を見て、呆れたように息を吐いた。それがさらに心を削って、ますます冷静さを奪っていく。呼吸が浅くなった。


「お客様、どうしました?」


 ホワイエの奥から駆けつけてくれたのは一岡さんだった。初めて見るような真面目な顔をしている。


「良かった。この兄ちゃん、ちっとも使えないんだ」

「どうかされましたか?」

「盗まれたんだよ、俺のバッグが。置いてたのになくなったんだ」

「どういったバッグですか?」

「コーチの、黒いトートだよ」

「確認いたします。少々お待ちください」


 途端に蚊帳の外だった。一岡さんは明らかに苛立っている男の人相手にも引かず、テキパキと冷静に対処している。普段の仕事からは、まったく想像がつかなかった。

 一岡さんはシーバーを使って、バッグの拾得がないかを全スタッフに確認している。これが落し物の確認をする時の流れだった。だけど、返ってきたのは思わしくない結果だった。


「申し訳ありません。バッグの落とし物は届いていないみたいで……」


 一岡さんからの返答に、男の人は顔をゆがませる。


「落とし物じゃなくてさ、盗まれたかもって言ってんの。怪しい人がいないかとか、ちゃんと探してよ」

「鳴瀬くん。あと対応するから。大丈夫だよ」


 一岡さんはそっと耳打ちする。

 この場に残っても、きっとやれることなんてない。それでも、このお客さんが最初に声をかけたのは僕の方だ。それを思うと、動けなかった。


「そのバッグはどこに置いていたのですか?」


 それを問われて、男の人は一瞬たじろいだように見えた。少しだけ目をそらすようにしながら、「5番シアターだよ」と答えた。


 一岡さんもその答えに、少し戸惑ったみたいだ。


「シアターの中、ですか?」

「ああ、間違えて入っちゃったんだよ! それより、そろそろ映画始まるんだけど」


 そう言って、奥の1番シアターを顎で示した。そこは、さっき予告が流れているのを確認した場所だった。


「分かりました。5番シアターに置いていたんですね?」

「ああ、5番で間違いないはずだ。映画が終るまでに、絶対見つけろよ。いいな!」


 そう吐き捨てると、男の人は奥のシアターへと急ぎ足で向かっていく。僕は一岡さんと二人で、呆然としながらその背中を見送った。

 彼がシアターの中に入っていくと、すぐにその姿は見えなくなった。


「ふーっ」


 一岡さんは、大きな息を吐いた。


「ヤな客ー。災難だったね」

「すみません、巻き込んでしまって。僕が対応したお客様だったのに……」

「いいのいいの。ああいうのは、ムリに一人で抱えない方がいいから」


 一岡さんの口調は相変わらず軽くって、気を遣われている気がしなかった。今はそれがありがたかったけど、甘えることはしたくなかった。


「さっきの人が苛立ってるって分かったら、頭が真っ白になっちゃって。……昔からそうなんです。なにか強い感情をぶつけられると、足がすくんじゃって、なんにもできなくなる」


 ずっと昔からの僕の弱点。

 誰かが怒ってたり、悲しんでたり、傷ついてたり、そういうものを目にすると、胸が締め付けられて、金縛りにあったみたいに動けなくなる。たとえ、その感情が僕に向けられたものじゃなかったとしても。

 一岡さんは、ふと表情を緩めた。


「鳴瀬くんは優しいね。うちだったら、なんだテメーってキレ返しちゃう。もちろん、クレームは受けたくないから、態度には出さないけどさ」

「でも、さっきあんなに丁寧に対応してたのに」

「逆逆」


 一岡さんはけらけら笑う。


「こいつムリ!って客にこそ、バカ丁寧に対応したくなっちゃうの。きっと鳴瀬くんもそのうち分かるよ」

「一岡、新入りに変なことを教えるな」


 五反田さん、と僕たちは同時に名前を呼んでいた。


「1番シアター、本編チェックオーケーだ」


 五反田さんは、あの男の人が入っていったシアターの本編確認をしてくれていたみたいだ。


「先輩としてバイトの心意気を教えてあげただけです~。あ、本編ありがとうございます」

「それより、なにかあったのか?」

「それが、実は……」


 五反田さんに、たった今あった出来事を説明する。話をするうちに、五反田さんの眉間のしわがみるみる深くなっていった。


「なるほど、5番シアターか」

「5番は、今なにもやってないみたい。次があと三十分後かな」


 一岡さんはフロアコードを見つめたままつぶやいた。


「なら、ゆっくり探せそうだな。とはいえ、バッグほどのものがなくなるとも思えないが」


 五反田さんが1番の本編を確認してくれたことで、仕事は一区切りがついていた。

 今ならちょうど、例のバッグを探せる時間はある。5番シアターを目指して、すっかり人気のなくなったホワイエを三人で歩いた。


「すみません、五反田さんまで巻き込んでしまって」


 隣を歩く五反田さんの顔を見上げる。身長差で、少し首がつらかった。


「気にするな」

「でも、僕が最初に上手く対応できていれば……」

「『成功に向かっている時、失敗は必ず繰り返すもの』だ。これを糧にして次は上手く対応すればいい」

「あの……?」

「ミッションインポッシブルだ」

「気にしなくていいよ。この映画キチは、いちいち映画のセリフを引用してくるから」


 なるほど、さっきのは映画のセリフだったのか。

 一岡さんの口調があまりにも辛辣で、思わず笑ってしまいそうになる。


「やっぱり映画が好きだったんですね」

「まさか」と笑って答えたのは一岡さんだった。「好き、なんて生ぬるい言葉じゃ足りないよ。なにせ映画に人生捧げちゃったんだから、このおじさんは」


「人生を?」

「辞めちゃったんだって、会社。ありえないでしょ?」


 思わず驚いて見上げると、五反田さんは少し照れたように顔をそらした。


「まあ、あながち間違いではないが……」

「五反田さんは、いつか映画監督になりたいんだって。それで、二年前からここで働きながら、いろいろ勉強してるんだと。よくやるよね~」


 一岡さんはからかうように笑った。


「社会人として、俺は抑圧された毎日を過ごしていた。けど、そんなある日、出会ったんだ!『内なる自分を決してあきらめてはいけない。』クリント・イーストウッドの言葉だ。俺はその言葉に奮い立たされて、内なる自分に従うことにしたんだ」

「はあ」


 正しい反応が分からずに、曖昧な相槌になってしまう。クリント……、誰だろう?


「五反田さんの引用は、たいてい映画のセリフか監督の言葉だから。そもそも、本当に言ってるセリフかも知らないけど」


 なんだか、五反田さんへの印象が大きく変わっていた。

 映画が好きなのは伝わっていたけど、まさかここまでのめり込んでいたなんて。それに、ちょっと変わり者なのかもしれない。


 そんな話をしていると、いつの間にか5番シアターの入り口だった。あの男の人が言うには、このシアターの中にバッグを置いていたところ、どうしてかなくなってしまったらしい。ただ見落としただけならいいけど、本当に盗難だったら大問題だ。


「それにしても、なんだってその男は5番シアターなんかに荷物を置いていたんだ」


 五反田さんが重い扉を開けると、僕と一岡さんもそれに続いて中に入る。


「さっきまで5番で観てて、連続でもう一本観ようとしてるとか? 上映終わったのが二十分も前だから、ちょっと間が空き過ぎな気はするけど」


 スロープを上ってから、誰もいない寂しい座席を見渡した。失くなったのは黒いトートバッグだと言っていたけど。一見した限り、目当てのものは見つからない。


「だいたいの場所を訊いておけばよかったですね」

「小さいシアターだし、一列ずつ見ていくしかないね。見落とすとも思えないし」


 一岡さんの言葉にうなずくと、普段の清掃の時と同じ要領で、列の上段まで階段を上った。一列ずつ分担をしながら、その列にカバンがないことを確認すると下の列に移っていく。そうして最前列の確認を終えるまで、誰の口からも発見を伝える言葉は出なかった。

 スクリーンの前のスペースに、再び三人で集まった。

 困ったことになった、と二人の顔に書いてあるのがはっきりと見て取れる。


「とりあえず、一度社員さんに報告だな」


 重い空気を裂いたのは五反田さんだった。

 きっとそうするしかないんだろうと思う。このシアター内にないのなら、いよいよ盗難を疑わなくてはいけない。そうなってしまったら、あとはもうバイトで対応できる問題の範囲を超えている。

 これは、最初から僕の手に負える問題じゃなかったんだ。


「そうだねぇ」


 一岡さんは、どこか納得がいっていなさそうだ。


「けど、やっぱ釈然としないよね。そもそも、こんな誰もいないシアターに荷物を置いて、それが盗まれるなんてことあるのかな」


 一岡さんの言うことはもっともだった。

 あの男の人の口ぶりでは、この5番シアターに荷物を置いたことを確信している様子だった。だけど、なにも上映がない場所にバッグを置きにくる理由もないし、誰も出入りしない場所で、短時間のうちにそれが盗み出される可能性だって限りなく低い。


 いったい、どうしてこの5番シアターにバッグは置かれて、それが突然なくなってしまったんだろう?


 そんなことを考えた瞬間だった。一つの可能性に思い至ってハッとした。

 とっさに、ウエストポーチに押し込んだままにしていたメモ紙を取り出す。

 七つの記述のうち、一番初め。


『①  入れ替わる二つのシアター。』


 もし、あの男の人が荷物を置いたシアターが、どこか別のシアターと入れ替わっているのだとしたら?

 こんな出どころの知れないうわさ話なんて、真に受けるのもバカらしいと思う。それでも、入れ替わりが本当に起きているのだと仮定すれば、この状況にも説明がついた。


「鳴瀬くん、どうかしたの?」

「あ、いえ……。ちょっと気になることがあって」

「気になること?」


 一岡さんに訊かれて、少し考える。二つのシアターが入れ替わったのかもしれません、なんてことはまさか言えるはずもない。だけど、あるいは、入れ替わったように錯覚しただけだったら?


「あの……、もしかしたら、あの男の人は、自分のいたシアターを間違っちゃったんじゃないですか?」

「そうかもしれないけど、結構自信ありそうな口ぶりじゃなかった?」

「たとえば、自分のいた場所が5番シアターだと勘違いするようなことがあったとか」


 一岡さんと五反田さんが顔を見合わせた。

 きっと、突拍子もないことを言っていると思われている。そもそも二つのシアターが入れ替わるという考え自体が突拍子もないことで、それが起こり得ると知っているのは僕だけだ。

 僕は改めてシアターの中を見渡してみる。このシアターの番号を確認できるものは一つも見当たらない。


「すいません、ちょっと外の方を見てきます!」


 シアター番号なら、入り口横に表示されていたはずだ。そこにヒントを求めてホワイエへと飛び出す。後ろからは、二人がついてくる気配があった。

 重い扉を開けると、向かい側の通路の壁が目に飛び込んだ。壁には様々な広告や案内を掲示するためのモニターが埋め込まれている。そこには、春から公開される海外の映画の広告が映し出されている。

 モニターの表示が切り替わる直前、画面が一瞬だけ暗転をした。


 その瞬間、二つのシアターは入れ替わっていた。

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