幽霊劇場?
劇場のスタッフ用の入り口は、一般のお客さんのエントランスとは反対側にある。
錆ついた鉄製のドアを開けると、まっすぐ伸びる通路に出る。その先の階段を上ると事務所や更衣室に出るのだが、その通路がなかなかの難所だった。
電球はいくつも切れてしまっていて、その上どこにも窓なんてないから、昼夜問わずいつもうす暗い。一歩歩くたびに、カンカン、と冷たい足音が響く。そして、時折強い風が吹くと、通気口からは、ごうごう、と怪しげな音が聞こえてくるのだ。
初めての出勤日にシアターで幽霊と空目したのは、ただの女性のお客さんだった。だけど、一度そういうことを意識してしまうと、一岡さんから聞いたうわさ話もあって、この劇場全体が不気味なものに思えてしまう。
なんとか階段を上り切った正面には、支配人や社員さんが利用する事務所があって、その隣にはアルバイト用の更衣室がある。そこで制服に着替えてからタイムカードを切るのが出勤の流れだ。
僕は男子更衣室に入ると、劇場指定の制服へと着替える。更衣室に先客はいなかった。制服は黒のスラックスとグレーが主体のチェック柄のポロシャツだ。そこにウエストポーチと名札をつけて、姿鏡の前に立った。
鏡の中の自分を見て思う。明らかに僕の方が制服に着られてしまって、絶望的に似合っていない。
あと数カ月もすれば大学生になるというのに、まるで中学生の職業体験だ。童顔なのは僕自身も認めるところだけど、なによりも、自信のなさそうな顔が一番の問題だ。
やっぱり、あの頃からなにも変われてないのかな。
葵が隣にいてくれないと、僕はただの情けない僕になってしまう。
◇
僕が葵と出会ったのは、この「Cinema Bell」でのことだった。
中学三年生の春、この劇場の常連だった僕は、同じ常連客である葵と出会った。話を始めたきっかけは覚えていないけど、同級生だということが分かって、そこから一気に距離が縮まったことは覚えている。
その当時からクラスメイトと距離を置いていた僕とは対照的に、葵は人との距離の詰め方が強引なほどだった。だけどそれは不快な強引さではなく、身を任せたくなるような安らぎがあった。
学校が違う葵とは、いつもこの劇場が待ち合わせ場所だった。そのまま映画を観ていくこともあったし、どこか別の場所へ遊びに行くことも多くあった。
ただ近所の映画館を通して会うだけの関係。遊びの約束や時間の取り決めはせず、ただ”偶然”映画館で会うことを繰り返し、長い時間を一緒に過ごした。
あんな風に誰かと過ごしたのは、人生で初めての経験だった。
人付き合いは嫌いじゃなかったけど、人との距離を詰めすぎて傷つくのが怖かった。だから、それまではずっと誰からも距離を取って生きてきたはずなのに。
それでも葵はそんな僕の手を引いて、たくさんの場所へ連れて行ってくれた。広い世界を教えてくれた。
そんな時間を過ごしたのは、中学三年生の春過ぎから一年足らずのこと。葵と二人でいる間の僕は、まるで別人になれたような気分だった。
だけど、そんな時間が終わりを迎えたのは、だんだんと高校受験も近づいてきた冬のはじめの頃だった。
その頃、とある注目作の映画が公開されることになり、映画館はにわかに活気付いていた。
その映画のタイトルは、「この惑星の真ん中できみに愛を」。
それは、「ほしきみ」という略称で親しまれる同名のベストセラー小説の映画化作品だ。原作は、日本中を涙で包んだと言われるほどの、泣ける恋愛小説だ。それが公開されるとたちまち話題になり、興行収入が歴代最高だとか、そんな話が耳に入ってくるようになった。
お互いに恋愛映画は趣味じゃなかったけど、僕は一つの覚悟を決めてその映画に葵を誘ったのだった。
それが、二人の間に交わされた初めての約束だった。
その誘いに、葵も笑ってうなずいてくれたのに――。
約束の時になっても、葵は劇場に姿を見せなかった。
次の日も、その次の日も。
まだ携帯も持っていなかったその頃の僕は彼女に連絡をする手段さえなくて、ただ彼女が現れるのを信じて、何度もこの劇場に足を運んだ。
だけど、少し離れた高校に通うようになると、すっかりこの劇場に寄ることもなくなった。そうして今に至るまで、僕は彼女に会えないまま。
それでも僕は、こうしてまたこの劇場で待っている。
ここで働いていれば、映画が好きだった彼女が、いつかふらっと現れるかもしれないと信じたから。
◇
三度目ともなれば、それなりに仕事は覚えた。
劇場でのアルバイトの仕事は、いくつかの分業制になっていてる。僕が最初に研修を受けていたのは「フロア」と呼ばれる、シアターの清掃や正しく作品が上映されているかを確認する業務だ。
上映が終われば清掃に入って、逆に上映が開始される時間になると、正しく予告や本編が流れているかを確認する。他にも細かい雑務はいくつもあるけど、大まかなところはそれくらいだ。
あと数分で上映が終わるシアターの前で、箒を片手に待機する。
数日働いてみて分かったことは、この仕事は多忙な時間と暇な時間がくっきりと分かれることだ。映画はどれも二時間程度だから、上映の開始や終了の忙しい時間は被ってしまい、反対に上映中の暇な時間はとことん暇になる。
「どうだ、だんだん慣れてきたか?」
「あ、五反田さん」
声をかけてきたのは、同じく箒を片手に持った五反田さんだ。180センチ以上はあるだろう長身で、日本男児風のキリリとした顔つきをしている。一岡さんの話によれば、五反田さんはフリーターで、脱サラをしてここにいるらしい。
「おかげさまで、少しずつ分かることも増えてきました」
「ならよかった。けど、もう一人なのか?」
「えっと、さっき一岡さんが、社員さんに頼まれた用事を思い出したって言って……」
五反田さんは大げさなまでに眉をひそめると、「一岡か……」と、ため息をついた。その態度だけで、一岡さんへの印象がなんとなく分かってしまう。
「鳴瀬なら大丈夫だと思うが、あんまりあいつに毒されないようにな」
五反田さんからの忠告に、僕は苦笑いを浮かべる。これまで仕事を教えてくれた相手に、まさかここでうなずくわけにもいかなかった。
「俺はちょっと本編の確認に行ってくるが、なにかあったらシーバー飛ばしてくれていいから」
「は、はい」
スタッフには全員トランシーバーの携帯が義務付けられている。今までも何度か必要な場面で使ってはいたけど、自分の声がスタッフ全員に届いてしまうから、出来れば使いたくない代物だ。
五反田さんは去っていこうとして、不意に足を止めて振り向いた。
「そうだ。鳴瀬は、映画は観るのか?」
「最近はあまり観られてないですけど、昔はそれなりに……」
なんとなく強い圧を感じて真面目に答えると、五反田さんはにっこりと微笑んだ。これまでのクールな表情から一転して、満面の笑みだった。
「そうか。やっぱり映画はいいものだよな」
それだけを残すと、再び歩き出して去っていく。
なんだか圧倒されてしまって、しばらくの間、遠くに消えていった背中を見つめていた。きっと映画が好きなんだろうなあ、とそんなことを考えた。
ふと我に返ってシアターの方へ向き直る。いつの間にか上映終了時刻になっていて、うっすらと中の明かりがついているのが分かった。
結局一岡さんは間に合わなかったけど、清掃だけなら一人でも大丈夫だ。
僕は少しだけ気合を入れてから、シアターの中へと入っていく。スロープを上っている間もお客さんとはすれ違わなくて、なんとなくおかしな感覚がした。早いお客さんは、すぐに帰ろうと出てくるはずなのに。
スクリーンの前に立って、全体の座席を眺める。そこに人影は一つも見当たらなかった。
ひょっとして、無人だった? 確かに、かなりマイナーな作品だったし、無観客でも不思議じゃないけど。
もしかしたら、途中で飽きて帰ってしまったということもある。念のために座席の確認をしようと思って、緩やかな階段を上って奥へと向かう。
上段に向かうほど頭上のライトの数が減って、はっきりと分かるほどに視界が暗くなっていく。だからこそ、懐中電灯を携帯しているスタッフも多いらしいけど、僕はまだそれを用意できていなかった。
なんだか、いやな感じだな。
誰もいないシアターには人の温度がなくて、ひんやりと肌寒い。人の話し声もスクリーンの音声もなくて、自分の心臓が激しく鼓動する音さえ聞こえてくる。その音がまた不安を煽って、完全な悪循環だ。
途端、ギギギ、という音が近くから聞こえて飛び跳ねた。すぐ隣の折りたたみの椅子が、ゆっくりと畳まれた状態に戻ろうとしていた音だった。
なにを僕はこんなに怖がってるんだ。
まさか幽霊なんて本当にいるはずがない。うわさ話なんてものは、たいてい尾ひれはひれがついて一人歩きをしているだけなのに。
階段を上りきると、最後列の足元を目視で確認する。暗くて見えづらいけど、特にごみは落ちていない。それでも、畳まれた椅子の間に忘れ物が挟まっていることも多いから、一つ一つ開いて確認していくのが仕事の流れだ。本当は早くここを出たかったけど、万が一忘れ物があったらと思うと、仕事を無視するわけにもいかない。
せめて、できるだけ急いで終わらせよう。そう思って、椅子の一つに手をかけた時だった。
冷たい風が首筋を撫でた気がして、僕の身体はピタリと止まっていた。
次に、甘い香りが背中の方から漂って、僕の鼻腔をくすぐった。背中の方に何かいる、それを直感した。
振り向くのが怖くて、だけど、確認しないわけにもいかない。
ゆっくりと首だけで振り向いて。そして――。
それは、確かにそこにいた。この前みたいな見間違いじゃない。長い黒髪に覆われて顔はほとんど確認できないけど、明らかにこの世の存在ではないと本能で分かった。
――ここの劇場って結構いわくつきなんだよね。
女の子の幽霊だ。うわさは確かに本物だったんだ。
「あ……」
手から箒が滑り落ちて、カタン、と音が鳴った。それが合図になった。目の前のその幽霊がさらに距離を詰めるように近づいて。
そこで僕の意識は途絶えた。
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