迷子に幽霊に、映画館は大変なお仕事です
「一岡さん、まだかな……」
突然一岡さんに置いていかれた僕は、すっかりホワイエで待ちぼうけをくらってしまった。
もしもまたお客さんから声をかけられてしまったら……。そんな不安で、ついそわそわとしてしまう。
腕時計をちらと確認した、その時だった。
向かいのシアターの入り口に、一人で立っている男の子の姿に気づいた。まだ小学校にも通っていないくらいの歳だろうか。男の子はうつむくように立っていて、近くに保護者らしき人の姿はなかった。
とっさに、男の子のもとまで駆け寄った。
「どうしたの。お母さんかお父さんは?」
目線を合わせるように膝をついて問いかける。男の子は、弱弱しく首を振った。
「ママ、いなくなっちゃった……」
「お母さんと一緒に来たの?」
男の子は、こくん、とうなずく。
困ったな。迷子の時の対応なんて、どうしたらいいんだろう。
左右を見渡してみたけど、一岡さんは帰ってきていないし、他のスタッフの人の姿も見当たらない。男の子はぽつんと立って、必死に寂しさに耐えているように見えた。
こんなうす暗い場所で独りぼっちになる恐怖が、その姿から痛いほどに伝わってくる。まるで自分のことのように胸が締め付けられて、心が苦しかった。
放ってなんて、いられるはずがなかった。
「大丈夫、お兄さんが一緒に探してあげるから」
安心させてあげられるように、出来るだけ力強い声を作った。
見上げる男の子の表情が、少しだけ和らいだ。
「本当……?」
「うん、きっとすぐに見つかるよ」
男の子はたどたどしくも、迷子になった経緯を教えてくれた。どうやらお母さんと一緒に映画を見ていたところ、退屈になって途中で抜けたはいいが、帰る場所が分からなくなってしまったみたいだ。
まだ小さな子供を放っておいて、一人で映画を観ている母親に憤りを覚えてしまう。
映画の途中で席を離れたくない気持ちは分かるけど、それにしたって、まだ目を離すには早い歳だと思う。
「どんな映画を観てたかは覚えてる?」
男の子は首を横に振る。
「だって、興味なかったし。ママとひなが観たいって言うから」
「ひな?」
「うん、どうせいつもひなの方が優先なんだ」
男の子はくちびるを尖らせて、ふてくされているみたいだった。その態度で、いろいろなことにピンときた。
「そのひなちゃんっていうのは、妹さんなんだよね?」
「そうだよ、ぼくはお兄ちゃんなんだ」
「うん、そっか。お兄ちゃんは大変だね」
男の子の背中を、ぽんぽん、と叩いて慰めの気持ちを伝える。きっと、この男の子の妹となれば、まだ三歳前後のはずだ。お兄ちゃんの方が我慢を強いられるのは仕方のないことかもしれない。だけど、それをこの歳で理解しろというのは酷な話だ。
それでも男の子は力強く首を振った。
「平気だよ。だってぼくがお兄ちゃんなんだもん」
「偉いね。それじゃあ、ママのところに帰ろうか」
今、この劇場で上映している作品の中で、小さい女の子が観るものとなれば一つだけに絞られる。ママとひなちゃんは、きっとそこのシアターにいるはずだ。
男の子の歩調に合わせて、ゆっくりとホワイエを歩く。シアターの入り口横には、上映している作品のタイトルを映すモニターが設置されていて、それを一つ一つ確認して目当てのタイトルを探した。
そして、少し歩くとそれはすぐに見つかった。6番シアター。その入り口横に、目当てのタイトルが表示されていた。
「きっとここかな」
男の子の顔が、パッと明るくなった。
音を立てないように、重厚な扉をゆっくりと開ける。映画館の扉はコンサートホールのそれみたいで、どうにも委縮をしてしまう。
シアターの中はほとんどの照明が消えて、暗闇に慣れるまでは足元も見えづらい。目の前は、スロープ状になっていた。
上映中のシアターに入るのは初めてで、心臓が強く脈打っている。映画の途中に人影が目に入るのは、誰もが嫌がるに決まっている。だけど、ここまできて最後まで責任を持たないわけにもいかなかった。
男の子の手を引いて、ゆっくりとスロープを上る。客席が見渡せる位置まで来ると、一人の女性がこちらを見たのが分かった。隣には、小さな女の子が座っている。女性は驚きと安堵の混じった表情を見せた後、頭を下げるようなしぐさをした。
確認をするように男の子の方を見ると、満面の笑みを浮かべながらうなずいて答えた。それから小声で「ありがとう」と言うと、男の子は母親の方へと向かって駆けていった。
女性のほっとしたような表情から、どれだけ心配していたのかが伝わってくる。最初、子供を放っておいて一人で映画を観ているなんて、と勝手な非難をしてしまったことを、心の中で謝った。
僕はそのままシアターをあとにすると、慌ててもとの場所へと向かった。そろそろ一岡さんが戻っているかもしれない。
ホワイエを走ってもとの場所の戻ってみても、そこには誰の姿もなかった。まだ戻ってないのかと考えた時、2番シアターの清掃のことを思い出す。
ひょっとしたら、いなくなった僕を探すより先に、一人で清掃に入ったのかもしれない。
入り口わきに置いておいた箒を取って、ドアが開けられたままの2番シアターの中に入った。上映が終わった後のシアターは、うっすらとした明かりがついている。必要な明かりだとは分かっているけど、その絶妙な薄暗さが逆に不気味な空気を作っている。
スロープを上っていると、エアコンの風が首筋をなでた。思わず、ぞわぞわっと鳥肌が立つ。
スクリーンの付近まで進んで客席を見渡すと、観客は全員帰った後のようだった。一岡さんの姿も見当たらなくて、ガラン、とした光景が広がっている。誰もいないシアターは静まり返って、完全な静寂の世界だった。
――とまあ、そんな具合に、ここの劇場って結構いわくつきなんだよね。
一岡さんの声が不意によみがえる。
多くの観客で埋め尽くされるはずのシアターは空っぽになって、まるで温度が感じられない。規則正しく並ぶ何十もの椅子は折りたたまれたままで、時間が止まっているようにさえ錯覚してしまう。普通の客の立場では、めったに目にできないようなような光景だ。そんな空虚な光景が、僕の目にはどこか不気味に映った。
もう戻ろう。まだ一岡さんは戻ってきていないんだ。
回れ右でスロープの方へ戻ろうとした時、不意に隣から気配があった。慌てて振り向くと、そこには長い黒髪の女性の影。
「ひっ――!」
そんな、さっきまで誰もいなかったはずなのに。
心臓がその動きを止めて、それと同時に僕の息も止まった。もしかしたら、本当に時間さえも止まっていたかもしれない。
動くこともできずに、目の前の黒髪の女性にくぎ付けになっていると、やがてその彼女は首を傾げた。
「ごめんなさい?」
彼女は気の抜けたような声で、それでも確かにはっきりと言葉をしゃべった。
小さな声だけど、アナウンサーみたいに落ち着きのある透き通った声だった。
その声で僕の金縛りが解けると、彼女が普通の人間であることに気づく。まっすぐに下ろしたセミロングの黒髪と、黒に近いネイビーのロングコート、わずかにのぞく足元は黒のブーツだ。暗闇に紛れただけの、ただの生きた女性だった。歳は二十代中盤ほどだろうか。メイクは薄く、声のイメージ通りに落ち着いた印象を受ける顔立ちだ。
思わず見惚れてしまっていた。目立つ顔立ちではなかったけど、その女の人の両目には、どこか堂々とした力強さがあった。
「驚かせた、よね?」
「す、すいません。誰もいないのかと思って」
「慣れてるから、別に」
慣れてるって、やっぱり人に驚かれることだろうか。故意ではなかったとはいえ、ひょっとしたら、彼女のコンプレックスを刺激してしまったかもしれないと気づいた。
「いえ、本当に失礼なことを……」
誠心誠意頭を下げるが、逆に女の人は何を謝られているのか分からないという風に顔をしかめた。
それから女の人は一歩近づいて、じっと僕の顔を見つめてくる。すぐ近い距離から、ほとんどまばたきもしていない。考えの読めない目で顔を覗き込まれて、ついたじろいでしまう。
「あ、あの……、僕になにか?」
「仕事は今日から?」
「え、はい。まだ今日が初めてで……」
もしかしたら、見ない顔だと思われたのかもしれない。答えてみてもこれといった反応もなくて、いよいよ困り果ててしまった。
どう切り抜けようかと迷っている時、
「あー、中にいたんだ!」
賑やかな声とともにシアターの中に入ってきたのは一岡さんだ。女の人がいることに気づくと、「あ、すいません。いつもありがとうございます」と、あまり悪びれない謝罪を口にした。
女の人もさすがに一岡さんの方を向くと、ぺこり、と一礼だけをしてシアターを去って行った。
僕は、まるで滑るように静かに歩く彼女の背中を見送ってから、一岡さんに謝罪した。
「すみません、勝手に持ち場を離れてしまって」
「いいのいいの。もとを辿れば、うちが一人にしたのがいけないんだから。……ね、それより、さっきのお客さんとなに話してたの?」
一岡さんは、いかにも興味津々といった感じで距離を詰めてくる。僕は、それに少し気圧されながら答える。
「仕事は今日からかって訊かれて、それだけですよ。さっきの人、常連さんなんですか?」
「よく来るようになったのは最近かな。あんな感じだから、覚えちゃって」
一岡さんの言う“あんな感じ”が、なんとなく分かる気がした。
「すごく不思議な人でしたね」
「悪いお客さんじゃないから別にいいんだけどね。ただ、なかなか謎多き人なんだよ」
謎多き人、そういう表現もあるのかもしれない。わずかだけど言葉を交わしてみて、なんとなく会話が噛み合っていないような感覚があった。同じ話をしているつもりが、実はお互いが別のことを思い浮かべていたみたいな、そんな感じ。
「さっきの人、そんなに気になる?」
一岡さんにからかうように言われて、初めて自分がさっきの人が去っていった方を見つめていたことに気づいた。
途端に顔が熱くなる。
「ち、違います……!」
「綺麗な人だもんね。ザ・ミステリアス美人って感じ」
「だから、そういうのじゃ……」
慌てる僕が面白いのか、一岡さんは「ははは」と意地悪な笑い声を上げた。
「それより、今は清掃だったね。上映が終わったらゴミや落とし物がないか確認するだけど、やり方教えるね」
これ以上は勘弁してくれたのか、そこからはまた真面目に仕事に戻った。一岡さんに指導をしてもらいながら、シアター内の清掃をしていく。もともとお客さんもそれほど入っていなかったのか、ほとんどゴミは落ちていなかったけど、仕事の流れは確認できた。
それからもいくつか仕事を教わりながら、劇場内を一岡さんと二人で歩き回った。劇場での仕事は覚えることがたくさんあって、たった一日で僕のメモ帳は五ページも埋まってしまった。
初めて出会う人と、初めての仕事をして、初めて責任を背負う。
初物尽くしのこの一日は、やっとシフトの終わり時間になる頃には、もう心も身体もへとへとだった。
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