星を飲んだ話
foxhanger
第1話
夜になったので、外出しようと思った。
家にいても、鬱屈するだけだ。
夜空には、大彗星が輝いている。今地球へ接近しているところで、1ヶ月後にはもっと明るくなるという。天体ショーに世間は浮き足立っているように見えた。
しかし、気分は浮かなかった。よろず、うまくいっていない日々が、ずっと続いていたのだ。
――こんなとき、飲めるやつは酒を飲むのか。
酒は飲まない。若い頃はつきあいで飲んだこともあったが、その味にどうも馴染めなかった。謝絶していくと、人づきあい自体がなくなっていった。
そんなことを想いながら歩いていくと、路地の入り口当たりで足が止まった。ただ「Bar」とだけある看板が置いてあった。よく通る界隈だが、こんなものはなかったはずだ。
路地に入ってみると、入ってすぐの右手に扉があった。ここが入り口か。
酒が飲めないので、ひとりでバーなどに入ったことはない。しかし、このときは入ってみたいと思ったのだ。
開けてみると、カウンターしかない店内は、どこか懐かしい感じがした。控えめに照明がともり、BGMはかかっていない。
自分のほかに客はいない。
初老のバーテンが、カウンターの内側でグラスを磨いていた。
「こんばんは。うちは、はじめてですか」
頷いた。
「なにになさいますか?」
「じつは……酒は、飲まないんですよ」
「ほう」
バーテンは興味深そうな表情をした。
「アルコールがダメなんじゃなくて、味に馴染めないんです」
「なるほど……でもこれなら、大丈夫なんじゃないですか?」
にっこり笑って、透明な液体が入ったグラスを差し出した。
鼻先に持っていって、匂いを嗅いだ。
「……酒でしょ?」
「ええ、エタノールですよ」
わざわざ、そんな言い方をするのはなぜだろうか。
「これはね、彗星の尾からとったんですよ」
「?」
バーテンは続けた。
「今夜空にある、彗星ですよ」
窓の外には、あの彗星が尾をたなびかせているのが見える。
「知ってますか。彗星の尾には、アルコールが含まれてるんです。核を構成する物質である炭素や水素が放射線や太陽光に当たって作り出されたのです。それを集めて、蒸留水で割って酒にしてみました。どうですか、究極の一杯」
「ほんとなの?」
「ほんとですよ」
にこにことしている。
(いや、得体の知れないものを飲むのはまずい。やっぱりノンアルコールにしておこうか)
いったんは固辞しようとしたが、思い直した。たまには担がれてみるのもいいかもしれない。
「……いただきます」
グラスを口に持っていく。
味は普通のアルコールと変わらないようだが、かすかに柑橘系のフレーバーがただよっている。
飲み干して、ふっと息を吐いた。
「……星が造った酒の味なんですか。何というか……初めて飲むものなのに、奇妙に懐かしい、というか」
「そうでしょう」
バーテンはうなずいた。
「知りませんか、人間がお酒を飲む理由」
「なんですか?」
「星の世界が恋しいからですよ」
「そうなんですか……」
「人間は星の世界から来た。もともとこの世界にあるものすべては、ビッグバンによって生まれました。そのとき生成された物質がいつしか凝り固まって星になり、人間になった。お酒を飲むことで、それをほんのすこし思い出すんです」
彼は大真面目に言った。
「ありがとう」
おれはひさしぶりに、満足した気分で店を出た。
そんなことはあったものの、相変わらず、冴えない日々が続いた。変わったのは、週に1,2度あのバーに行くようになったことだ。
いつも客は自分ひとりで、「彗星」のカクテルを一杯だけ飲んで、店を出た。
バーテンとはあの日以来、あまり言葉を交わさなかったが、帰りしなに声をかけてみた。
「こんど、知り合いを連れてきていいですか」
「どうぞ」
早速、知り合いを誘ってみた。
昔勤めていた会社の同僚だった。会社は気まずいやめ方をしたが、そいつだけは縁が切れずに、つきあいが続いていたのだ。
酒にうるさいと聞いていたそいつは、おれの話に訝しげに答えた。
「あんなとこに、バーなんてあったかなあ? 最近出来たのか」
しかし、会社が引けたあと待ち合わせて、足を向けると、なぜか、見当たらなかった。看板もそれらしき扉もない。
「ん?」
「飲めない酒を飲んで、悪酔いしたんじゃないのか……? 行こうぜ」
次の日。
その路地に行ってみると、たしかに店はあった。
バーテンに昨日の話をしたら、表情を変えずに、答えた。
「きっとそのひとには、必要ないんでしょ……それよりあなた、お話があります」
「なんですか」
「わたしはもう、ここを去ります……」
「店をたたむ、ってことですか」
バーテンは黙って頷いた。
彼のいう「ここ」は「地球」をさしている、ように思えた。
そういえば、昼間のニュースでキャスターがこんなことをいっていた。
今、空に輝いている彗星は今がいちばん地球に接近している時期で、これからは急速に遠ざかって暗くなり、見えなくなっていくという。
「あなたも、どうですか。この店に来た、たったひとりのお客さん。なにかの縁です。わたしと一緒に行きませんか?」
「行くって、どこへ?」
その質問には答えず、彼はいつものようにあのカクテルを差し出した。
しかし、今日はどうしても、口をつける気にはならなかった。取り返しのつかないことになってしまう……なぜだか、そう思えたのだ。
口をつけないまま、おれは席を立った。
「いや、今日は飲まない。今まで、ありがとう」
代金を置いて、店を出た。
しばらくその界隈を通るのは避けていた。だが、彗星が夜空に見えなくなったある日、意を決して、行ってみた。あの店は、もう、なかった。
同じ頃、ネットでこんなニュースを見たのだった。
(KNNニュース)各国合同の研究チームが学会誌に観測結果を発表したところによると、今年5月に地球に最接近した「エルトイナ彗星」を観測したところ、最接近時に1秒間にワインボトル500本分ものエタノールが宇宙に放出されていることが判明した。酒などに含まれるエタノールが、彗星から検出されたのは初めて。エタノールの他にも様々な有機分子が検出され、地球生命の起源についての重要な示唆が得られたという。
星を飲んだ話 foxhanger @foxhanger
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