第299話 「極剣」
金色の瞳で相対する【邪神】を射貫くアーロンのそばに、ふわふわと上空から黒い球体が、ゆっくりと舞い降りてくる。
氷が吹き飛び、元の鏡のような姿に戻った湖面に着地した球体。それを成す黒い繭は空気に溶けるようにして消え、中から銀髪青眼の幼女――アイクルが姿を現す。
「ぱ、パパ……」
と、アイクルはそばのアーロンを見上げて呟いた。
アーロンはアイクルの頭に左手を置くと、軽く撫でて告げる。
「――すぐに終わらせる。ここで待ってろ」
「……うんっ」
そしてアーロンはアイクルのそばから離れ、ゆっくりと歩きながら【邪神】へ近づいていく。
その途中、「黒白」をリングに仕舞い、空いた両手で、いまだ自らを貫くままの双剣に手をかける。
――キンッ!!
と音が鳴って、二本の「黒耀」が消失した。
それに【邪神】は目を見開いて驚愕する。
「今……何を……?」
なぜ、「黒耀」が消えたのか、【邪神】には理解できない。今、アーロンが何をしたのか、【邪神】には理解できない。
対するアーロンは疑問に答えることなく歩みを進める。
――キンッ!!
と、また音が鳴った。
アーロンは剣を取り出していない。剣も腕も、振ってはいない。
なのに、アーロンの姿が変化する。【禍津鋼体】を発動し、漆黒に染まっていた姿が一変する。
姿形はそのまま。ただ、色だけが決定的に変化する。
漆黒から――白金色の光を放つ肉体へと。
極技――――【怪力乱神・天衣無縫】
それに【邪神】は恐怖した。一歩、二歩と後ずさる。
「あ、貴方は……じ、自爆でもするつもりですかっ!? やはりフィオナと心中しようとでもっ!?」
「違ぇよ」
アーロンは否定する。だが、【邪神】は信じなかった。
「何を白々しいっ!! 第三マテリアを扱える貴方が一番良く分かっているはずです!! 肉体をそれに変えたら、もう二度と元には戻れません!! 魔力が尽きるか制御が少しでも緩めば、その瞬間に貴方は死ぬのですよっ!?」
第三マテリア。
それはアーロンが「白金色の剣」と呼んでいるモノの正体だ。
神代の魔導学のある分野において、物質は大きく三つに分けられる。
通常物質の――第一マテリア。
魔力によって生成された「半物質」たる――第二マテリア。
そして、オーラと物質が融合した状態たる――第三マテリア。
第三マテリアは第一マテリアを事象改変エネルギーに変換し、オーラと融合させることで状態を一時的に安定・制御している物質だ。
事象改変エネルギーとしての変換効率と内包エネルギーが極めて高く――だが、それゆえに制御は極めて困難な上、制御を外れて無作為に解放されれば、瞬時に膨大な熱エネルギーとなって周囲へ解放されてしまう。
そして――一度第三マテリアに変換された物質が、第一マテリアに戻ることはない。
理論上は可能とされていても、その状態の変化は事実上不可逆であった。
だからこそ、【邪神】は確信する。アーロン・ゲイルは己の命を捨てるつもりなのだと。己の命を捨て、フィオナと心中するつもりなのだと――確信する。
ゆえに、【邪神】は瞬時に決断した。
己の使命を果たすことを先延ばしにしても、そのために重要な道具であるテラフォーマー007を永遠に失う可能性を考慮しても、自身を殺し得る存在を放置することになっても――それでもなお、己という存在を守るために、決断する。
――逃走を。
「――――」
何も言わず、何の兆候も見せず。
素早く魔力を照射し、転移魔法を発動する。
その、直前。
――キンッ!!
と、涼やかな音が鳴る。
アーロンがリングから「黒耀」を取り出し、そのまま振り抜いた直後、「黒耀」は消失している。
剣を第三マテリアに変換したようには見えなかった。
正確には、その過程を捉えることができなかった。
なのに、【邪神】の転移は失敗した。
「――――え?」
なぜ転移が失敗したのか、【邪神】には原因が分かっていた。
――転移座標の消失。
まずは転移の素早い発動を優先するため、転移先はわずか数キロだけ離れた地点にするはずだった。そこへ転移しアーロンの視界からも魔力の感知範囲からも逃れた後、改めて迷宮の外へ脱出するはずだった。
【邪神】の技量からしてみれば、万に一つも失敗などあり得ない短距離転移。
だが、転移するべき座標が、この世界から失われてしまえば、魔法の条件は破綻し、転移は失敗してしまう。
「な、なぜ……そんな……あり得ない……!!」
この場合、転移先の座標が消失するなど、迷宮が消滅でもしない限り、あり得るわけがない。
だから。
むしろ、世界から失われたのは自分たちの方なのだと、【邪神】は理解した。
「名付けるとするなら、極技……【
静かに放たれたアーロンの言葉。
それは【邪神】の推測を裏付ける言葉だった。
直径にして、ほんの100メートルの球状空間。
それが今、【邪神】の【空間感知】で把握し得る、世界の全てだった。
空高くには変わらず雲が流れているのに、偽りの太陽が放つ光は、相変わらず世界を照らしているのに、鏡面のような青と白の湖面は視界の果てまで続いているのに。
ただ、切り取られたように、世界に比べれば小さな球状の空間しか、感知できない。世界を隔てる透明な結界があるみたいに、その先の世界へ如何なる干渉も行うことができない。
かつて、遥かいにしえの神代にて、この迷宮の中に閉じ込められて封印された時のように。
【邪神】は逃走のための手段を失った。
●◯●
――かつてないほど、心は落ち着いている。
その一方で、全能感とでも呼ぶべき高揚をも感じている。
アーロン・ゲイルは自らが斬り、閉ざした世界の隅々まで感覚を広げた。
――見える。視える。観える。
視覚だけではない。肌は風だけでなく迷宮内部に満たされた魔力のわずかな動きすら感知し、耳は小さな音さえ聞き分ける。
視覚も含めた全ての感覚が、かつてないほどに鋭敏となっていた。
その原因を、アーロンはちらりと見た。
左手の甲。消えたはずの限界印が、再び現れている。
ただ、その意匠だけが『初級剣士』のものとは違っていた。
ルシアとフィオナの尽力により、再び与えられた――しかし、以前とは違う、全く新しいジョブの性能を、アーロンは付与された知識によって認識していた。
固有ジョブ――『極剣』
そのジョブが修得することができるスキルは、たった一つのみ。
――【スラッシュ】
ただそれだけである。
その上、ジョブ補正による筋力などの強化は、一切ない。
世界中のほとんどの人々にとって、それは初級ジョブ以下の性能しか持たない、使えないジョブだった。
だが。
たった一つしかスキルを修得できないこと。筋力へのジョブ補正がないこと。これらによって生まれたリソースの全てを、他のことに注ぎ込んでいるジョブでもある。
それは感覚の強化。
アーロンの瞳は金色に変わっているが、ブレイン・サポート・デバイスを取得したわけではない。アーロンの全身の感覚器および神経を、魔力によって生成されたナノマシンが強化し、既存の感覚を鋭敏にしている――のみならず、本来ならば知覚できない情報さえ、認識するための感覚器官を増設した。
与えられたのは――魔力を見る瞳。
それまで肌感覚でしか認識できなかった魔力を、今のアーロンは明確に、鮮明に捉えていた。
――世界が理解る。
ただそれだけで、アーロンが斬れるモノは大幅に増えていた。
そして、ただそれだけで、アーロンのオーラ制御力は、格段に進歩していた。
自身が操るモノの本質を、明確に視認して理解することで、その操作は格段に精密になった。
今ならば。
かつてローガン相手にそうしたように、魔力だけを斬り裂くことさえ容易だろう。
迷宮の中であれば、人造の、仮初めの世界すら斬り裂き、分断できる。なぜならここは、魔力によって構築された世界なのだから。
「あ、アーロン……」
逃げ場を失った【邪神】が、哀願するように問う。
「まさか、殺すのですか……? わたくしを……フィオナを……!?」
「俺がフィオナを殺すわけねぇだろ」
答えた瞬間、【邪神】は明らかに安堵した。
やはり、未だ、アーロンにフィオナを殺す覚悟がないことに。
「ふぅ……そうですよね、ええ、そうでしょうとも……!!」
「…………」
「ならばアーロン、無駄なことは止めて、早くこの【世界断絶】を解いてください。フィオナを殺せない貴方にはわたくしも殺せないのだから! ……それとも、またかつてのように、わたくしを封印でもしますか……? フィオナごと!!」
「…………」
「まあ、うふふ……!! クロノスフィアが滅んでしまった今、どうやって封印するのかは分かりませんが」
「封印はしない」
「ですよね!」
余裕を取り戻し、純粋に喜びの感情を見せる【邪神】に、アーロンは酷薄に問う。
「それで? お前は俺のジョブを停止できそうか?」
「――――!!」
【邪神】が顔色を変えた。
自分と話している間、【邪神】が再びアーロンのジョブを停止させようとしていたことは分かっていた。
だが、アーロンはそれを止めようとはしなかった。
おそらくそれはできないだろうと知っていたからだ。
「なぜ……なぜっ……なぜぇッ!?」
【邪神】は叫ぶ。
【神界】の最上位管理権限を持つ自分が、ジョブを停止できないことに対して。
いや、そもそもにして――【邪神】はアーロン・ゲイルに与えられたジョブを、システムの中から検索できないでいた。
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