第292話 「愛は素晴らしい」


 アーロンはフィオナの姿をした【邪神】と相対する。


 激しい怒りと憎悪に顔を歪ませて【邪神】を睨むが、対する【邪神】はアーロンを警戒する様子もない。


「うふふ……!! あらあら、どうしたの、アーロン? ひどいわ、わたくしにそんな顔を向けるなんて? 愛する妻に向けて良い顔ではなくてよ?」


「てめぇ……ッ!! ふざけやがって……ッ!!」


 アーロンは動けない。


 それを【邪神】は、良く分かっていた。


「早く倒さなくて良いのかしら? 殺さなくて良いのかしら? わたくしを」


 アーロンたちの目的は、言うまでもなく【邪神】討滅。


 そして【邪神】は、目の前にいる。


 だが、アーロンは動けない。


「それじゃあ、貴方が動きやすいよう、わたくしから行くわよ?」


【邪神】は右手から魔法を発動する。


 空間魔法――【空間断裂剣】


 空間ごと万物を斬り裂く魔法の剣が、【邪神】の右手に握られた。


 そして――、


「さあ! わたくしを殺してみなさい! できるのならばっ!!」


 次の瞬間、【邪神】は足元を蹴って距離を詰め、アーロンに斬りかかってきた。


 それは大仰な踊りのように隙だらけでゆっくりとした攻撃だった。今の【邪神】は【神体】を発動していない。それどころか、移動用のスキルすら使っていなかった。


 回避も防御も簡単だ。


 アーロンは【邪神】の攻撃を簡単に回避し、あるいは「黒白」で魔法の剣を弾く。


 だが、その表情に余裕は一切ない。


「くッ……!?」


 反撃することは容易い。


 そして今の【邪神】に効くかどうかは賭けだが、【黒の封剣】で拘束を試みることもできるだろう。


 しかし、そんなことに意味などないのは、アーロン自身が分かっていた。


 フィオナの体を傷つけるとしても、【邪神】を殺せるならばアーロンは躊躇わない。しかし、許容できるのは「傷つけること」までだ。たとえ【邪神】を殺せても、フィオナが死んでしまうなら、アーロンに攻撃という選択肢は取れない。


 そして――。


 ――フィオナと融合した【邪神】だけを殺す。


 その方法なしに、アーロンはフィオナを――フィオナと融合した【邪神】を攻撃することは、できなかった。


「うふふふふふっ!! ほらっ、ほらほらぁっ! どうしたのですアーロン!? こんなに隙だらけなのに! どうして反撃しないのです!?」


(どうする!? どうすりゃ良いッ!?)


 敵の攻撃を捌きながら、アーロンは必死で考える。


 今回の討伐に当たって、フィオナとルシアは色々な対策を実行していた。それは【邪神】が持つという未来予知の能力を妨害することであり、あるいは万が一のための対抗手段の構築だ。


 しかし、これらの対策に「【邪神】に肉体を奪われたフィオナを、元に戻す」という手段は存在しない。


 ルシアは断言していた。


「フィオナが【邪神】に体をうばわれたら、【邪神】がじぶんからフィオナの体を放棄するいがい、フィオナが元にもどるほうほうはない。だからぜったいに、【邪神】にフィオナの体をうばわせたらダメ」


 そしてもし、万が一、フィオナが体を奪われたら、もはやフィオナごと殺すしか【邪神】を滅ぼす手段は存在しないのだと。


 だが――アーロンには手段があった。


 フィオナを傷つけず、【邪神】だけを殺せるかもしれない手段が。


(アレを使うか!? 一か八か!? 成功する確率は!? いやダメだ! 魔力だけ斬るのとはわけが違う!! 成功するとしても今の俺じゃ1000回に一回でも成功すれば運が良い方だ! ほとんど確実に失敗するのに試せるわけがねぇッ!!)


 1000回に1回でも希望的観測だ。


 斬るべき対象を明確に区別できず、斬りたいものだけを斬ることは、今のアーロンにもできない。


 ほぼ確実に失敗するのは明白。


(ルシアなら何とか……ッ!! 可能性はある……ッ!! それまで待つしか……ッ!!)


 ルシア自身は不可能だと言っていた。それでも可能性があるとしたらルシアだ。ルシアがここに来るまで、時間を稼ぐしかない。


 それが不可能だと知りながら、現実から目を背け、そうするしかないと決断する。


 絶望に腹の底が冷えていく感覚を味わいながら、アーロンは時間稼ぎに徹しようとして――。


「うふふ、ふふっ!!」


【邪神】は剣を振るうことを止め、立ち止まった。


 そして魔法の剣を手の中から消すと、自らの体を抱き締めるように腕を回した。



「どうやら……思った通り、アーロン、貴方にフィオナは殺せないようですわね」



 確信してはいた。


 だが、確認してみる必要はあった。


 そしてその確認も、もう十分だろう。


【邪神】は自らの勝利を確信し、待った甲斐があったと満足する。


「かつて、わたくしが視た未来では」


「……」


 突然、何事かを語り出す【邪神】に攻撃することもできず、アーロンは剣を構えながらも足を止め、【邪神】の話に聞き入るしかない。


「今よりも弱い貴方が、フィオナの肉体を奪ったわたくしを滅ぼしていたのです」


【邪神】は【可能性知覚】により、数多の未来の可能性を視ていた。


 その多くで、【邪神】はフィオナの体を奪ってもなお、アーロンによって滅ぼされた。


「わたくしが貴方に滅ぼされた理由は、大きく二つ……。一つは、分割封印されたわたくしの体……【神骸】を取り込まなかったせいで、演算能力が不足し、【神界】システムの掌握に時間が掛かってしまったこと」


【神界】のシステムを掌握し、ジョブ・システムを停止する。そうする前にアーロンに滅ぼされてしまったのだ。それは迷宮やネクロニアから逃げても同じで、なぜか見つけ出され、滅ぼされていた。


 しかし今は違う。統合した【神骸】の半分を再び失ってはいるが、今の状態でも演算力は十分だ。そちらに専念すれば、ほんの数分で【神界】接続からジョブ・システムの停止まで持っていけるだろう。


「そしてもう一つの理由は……アーロン、貴方がわたくしを攻撃することに躊躇わなかったことです」


「…………ッ!!」


 にこりと笑って告げる【邪神】を、アーロンはぎりりと歯噛みして睨みつける。


 たとえばクロノスフィアがおよそ1ヶ月前のスタンピードを起こすより先に、転移でフィオナを襲撃し、肉体の奪取に成功した場合に訪れた未来だ。


 その時点までなら、クロノスフィアの協力なしに、フィオナの肉体を【邪神】だけで奪うことも可能であった。


 だが、その時点でフィオナの肉体を奪うと、アーロンは【邪神】を滅ぼすことに躊躇いを見せない。


 自らの命と引き換えではあるが、アーロンは【邪神】を滅ぼすことに成功した。


 しかし――、


「今の貴方は、フィオナを攻撃できないようですね?」


 以前までのアーロンならば、はっきりと気づいてはいない己の感情を殺し切り、姉に対する贖罪のため、あるいは死んで楽になるために戦っただろう。


 だが今のアーロンは己の感情を自覚し、フィオナのおかげで姉に対する罪悪感を乗り越えた。そして生きようとしている。


 ――それを待っていたのだ。


「ああ……! 待った甲斐がありました……! 貴方がフィオナわたくしを殺せなくなるまで……!!」


 うふふ……!! と、【邪神】は笑った。


 大切なものを慈しむような表情で。


「やはり、愛は素晴らしい……! 貴方がフィオナを愛してくれたおかげで、わたくしの勝利が確定したのですから……!!」


【邪神】はその場でふわりと浮き上がると、ゆっくりと自らの翼で自らの体を包み込んでいく。


「待ッ――!!」


 アーロンが焦ったように手を伸ばすが、それでもやはり、攻撃することはない。


 繭のように包まれ、視界が閉じていく中、【邪神】は笑って告げた。


「わたくしが【神界】と繋がるまで、しばしお待ちくださいな。大丈夫、それまで退屈はさせませんわ」


 その言葉を最後に、【邪神】は完全に翼に包まれる。


 そして【邪神】とアーロンが対峙する場所に向かって、数多の魔力反応が高速で近づいて来ていた。


 その魔力を、アーロンも感知していた。


 それらはここに来るまで、アーロンが振り切って来た偽女神とカインたちだ。


 あと数秒でこの場にやって来る偽女神たちに対処するため、アーロンは剣を握り直す。


 酷く追い詰められた顔で。



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