第291話 「強さなど無意味」
時は少し遡る。
アーロンがフィオナのもとに辿り着く数分前、フィオナが炎の化身と化した【邪神】を跡形もなく消滅させた直後。
微塵の油断もなく、むしろ一層の注意を払って周囲を警戒していた時。
「…………」
およそ一分。
「まさか……本当に倒せた……の?」
周囲に何の反応も見られないことに、フィオナの警戒がわずかに弛む。
とは言っても、【魔力感知】と未来視での警戒を解いてはいない。
もし仮に、また【邪神】が斥候系の何らかのスキルで近くに潜伏し、こちらの隙を窺っているとしても、今の自分ならば反応できる。
フィオナのその考えは、間違っていなかった。
たとえ【不動不知覚】からの奇襲でも、未来視に開眼した今のフィオナならば、余裕を持って回避できただろう。
そして――、
「――ッ!! やっぱりまだ生きて――!!?」
フィオナの未来視は映像だ。未来の魔力の動きまでは知覚できない。
だから背後から押し寄せる膨大な魔力を知覚したのは、【魔力感知】によるものだ。
敵からの魔法攻撃。照射された魔力から放たれる魔法は何か。爆発したように周囲一帯へ広がる魔力の津波に包まれても、フィオナには回避または防御する自信がある。すぐさま【瞬光迅】での高速移動に備えながら、未来予知で敵の攻撃の軌道を読み取ろうとした。
だが。
(攻撃が来ない?)
1秒未満の未来とはいえ、人間の限界を超えた高速戦闘の最中においては、それは何手も先の攻撃を視認できることを意味する。
しかし、未来を注視するフィオナの視界には、【邪神】の姿も、魔法による攻撃の軌道も、あるいは自分が攻撃を受ける姿も見えない。視界に映る未来には、今と同じようにただ警戒する自分がいるだけ。
だから、フィオナはそれが何の魔法か気づくことができなかった。
疑似時魔法――――【タイム・ストップ】
魔力を散布した空間を魔法の効果領域とし、その領域内部の時間を擬似的に停止する魔法。
無論、神代においても真の時魔法というものは開発されていない。それは空間ごと、領域内部の物質的な状態変化を一時的に停止する魔法であって、厳密には時の流れを止めているわけではない。
ゆえに――【タイム・ストップ】を喰らっても、フィオナの未来視は問題なく働く。
それでも――【タイム・ストップ】を喰らえば、脳の活動は一時的に停止し、意識もまた止まる。そのため、未来視可能なのは、【タイム・ストップ】発動から1秒未満の未来まで。
もしもこれが真の意味での時魔法だったならば、フィオナは次に来る攻撃を何とか回避できただろう。
真の時魔法ならば、時間の停止が解かれた時点からその先の未来を視ることができたはずだから、自分の未来を視て、【邪神】の攻撃を回避するために待ち受けるのではなく、魔力が散布された領域自体から、必死に逃げたはずだ。
しかし、これは真の時魔法ではなく、世界に刻まれる時は、一瞬たりとも止まることはなく、刻まれ続けている。
すなわち、停止した領域の中で未来視は変わりのない光景だけを見せ、フィオナの意識停止時点から、その能力を停止させた。
――数秒。
確実にフィオナの未来視による影響が消えるのを待って、【邪神】は背後を振り向いたフィオナの、さらに背後へと「転移」する。
止まった空間の中での転移。
これもまた、疑似時魔法であるからこそ可能な芸当だ。
フィオナの視界に入らないように、背後へ姿を現した【邪神】は、しかし、その表情を微かに強張らせていた。
「あ、危ないところでした……!!」
それは、このチェックメイトの盤面に至るまで、予定外の展開を見せたからであった。
「フィオナが重属性武器もなく、わたくしの分体を倒すなんて、予想外でした……!!」
分体。
フィオナをこの場に転移で拐い、炎の化身と化して戦っていたのは、【邪神】の分体に過ぎなかった。
とは言っても、肉体の半分を分けた分体であり、その記憶も能力も本体と遜色はない。つまり、分体というよりはもう一つの本体と呼んだ方が正しい存在だった。
「まさか未来視に開眼するなんて……」
【邪神】は今回、徹底してアーロン・ゲイルとの直接戦闘を避けた。そのために自身を二つに分割し、本体と決めた方をずっとこの場に、【不動不知覚】を発動して待機させていた。
本来の予定では、分体と戦っているフィオナの隙を突いて、勝負を決めるつもりだったのだ。
だが、戦闘の途中でフィオナが未来視に開眼してしまったことで、予定は狂う。
未来視相手に奇襲は意味を成さない。不意を突いた未来を察知されるから、不意を突くことができない。
しかも、万が一にも殺さないように気を遣っていたとはいえ、フィオナに分体を倒されてしまうのは、【邪神】も想定していなかった。
――時間をかければ奴がこの場にやって来る。
――もはや失敗と判断し、迷宮外に逃げるべきか?
そう考えもしたが、ギリギリのところで【邪神】は気づいた。未来視という新たな能力に覚醒したからこそ、フィオナに生まれた隙を。
フィオナは未来が視えるからこそ、最小限の回避で反撃の余地を得ていた。あるいは余計な動作のない回避だからこそ、次々と攻撃を回避し続けられていた。
それが可能になってしまったからこそ、【邪神】が魔力を一帯に放出した時、魔力の領域から逃げ出すことなく、【邪神】の攻撃を待ち構えてしまった……。
【邪神】が強力な範囲攻撃で、自分を殺さないようにしている――というのも、その判断を後押ししてしまった。
「ふ、うふふ……!! まあ、何はともあれ、これでわたくしの勝利は決定されました」
予想外にギリギリの勝利ではあったが、勝利は勝利だ。
【邪神】は右腕を赤黒く、金色の筋が混じる触手へと変化させ、フィオナの首筋に伸ばした。
「フィオナさえ手に入れてしまえば……あの者が幾ら強くとも、強さなど無意味です……!!」
そして、フィオナの首筋に触手の一撃は突き込まれ。
【邪神】はフィオナと同化した。
同化完了まで、わずか数十秒。
フィオナの瞳が金色に染まり、その背中からは6対12枚の純白の翼が広がる。
「――うふふ」
いまやフィオナそのものと化した【邪神】は慈愛の微笑みを浮かべ――もはや逃げることも隠れることもせず、アーロン・ゲイルを待ち受けた。
その、最中。
「あら?」
ふと、何かに気づいた【邪神】は、自らの下腹部に優しく手を当てた。
「まあ! フィオナったら……!」
【邪神】は――ミリアリアは、人類を等しく愛している。
だから、自らの体の中に異物の存在を感知しても、それを排除しようとは考えなかった。
それも、自らが愛すべき人類に違いはないのだから。
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