第226話 「フィオナは決意した」


 ――話はフィオナが硫酸料理にチャレンジしかけた、その日の夜に遡る。


 二人で寝るには少しばかり狭いベッドの上で、フィオナとルシアは抱き合うようにして横になっていた。


 しかし、ベッドに入ってからそう何分もしない内に、ルシアが口を開く。


「フィオナ、おきてる?」


「なに? どうしたの?」


 ルシアの言葉に、フィオナも目を開けた。微かな月明かりだけが頼りない光源となって照らす部屋の中で、だがルシアはフィオナに抱きついたまま、目を合わせることなく話を続ける。


「……今のうちに、おねがいしておきたいことがある」


「なに?」


「アイクルのこと」


「…………」


 フィオナは咄嗟には言葉を返せなかった。


 アイクル。今のルシアの体の、本来の持ち主であり、アーロンや自分に化けて自分たちを罠に嵌め、アーロンを殺しかけた存在。そして怒りに駆られ、自分が手をかけてしまった存在。


 それはフィオナにとって、実に複雑な立場の相手だった。


 何も言えないフィオナに、ルシアは続ける。


「アイクルは、クロノスフィアからおおくの知識をあたえられたけど、まだ子供。七年いきたけど、もしかしたら、ふつうに七年いきた子供よりも、情緒はおさないかもしれない……」


 アイクルは子供だ。そして、クロノスフィアに良いように利用されていただけの、哀れな子供でもある。フィオナはもう、そのことも知っている。だからこそ、


「フィオナ、まだアイクルに怒りはある……?」


 というルシアの問いには、苦笑して、すぐに答えることができた。


「悲しくて泣いているような子を怒るほど、大人げなくないわよ、私は」


 そしてルシアの頭を撫でた。


「そう……」


 緊張していたルシアの体から、強張りが消えていく。ルシアはどこか安堵した様子で、言葉を続けた。


「なら、わたしがいなくなったあと、アイクルのことをフィオナに頼みたい」


「いなくなるって……どういうこと?」


「……この体は、もともとアイクルのもの。いまは間借りしているけれど、【邪神】をたおしたら、わたしはこの体からでていくつもりでいる……」


「…………」


「そうなったとき、アイクルははじめて、ただの子供にもどれる。だけどアイクルに血縁上の親はいない。おねがいすればアロン家で面倒はみてくれるとおもうけど、きっとアイクルはそれを望まないし、わたしもその環境が良いものとはおもえない」


「…………」


「アイクルは、あなたたちといっしょにいたがっている。…………だめ?」


「……二つだけ、聞かせてもらえる?」


 それはおそらく、アイクルの人生に責任を持つということ。ルシアはそこまでは考えていないかもしれないが、幼いアイクルと一緒に暮らすということは、そういうことだとフィオナは理解した。


 当たり前であるが、軽々に返答することはできない。


「アイクルは……アーロンのことが、好きなの?」


 ルシアから聞いたアイクルの特殊能力――【憧れの私シェイプシフター


 その発動条件は、対象の人物に「好意」あるいは「嫉妬」を抱くことだと聞いている。そして少女であるアイクルがアーロンに嫉妬するというのは考えにくいことから、おそらくはアーロンに「好意」を抱いているのだろうことは、簡単に想像できた。


「うん……好き」


 と、ルシアは答えた。


「大好き……だけど、それは恋愛的な好きじゃない。アイクルは、アーロンに父性をもとめてた。……ヘレム荒野からネクロニアへもどってくるまでのあいだ、アーロンはアイクル(偽クロエ)をまもってくれた。結果的にだけど、見たこともない世界を、じぶんに見せてくれた。……アイクルの中で、アーロンはクロノスフィアに代わって、父性のしょうちょうになった……」


「そう……分かったわ」


 と頷き、フィオナはもう一つ、問う。


「じゃあ、もう一つの質問。……アイクルは、わたしのことは恐くないの?」


 なにせ自分を殺した相手だ。普通ならばトラウマになっているのではないか。


 だが、ルシアはふるふると首を振った。


「アイクルの記憶がわたしにも影響しているように、わたしの記憶も、アイクルに影響している。それに、アイクルはじぶんが悪いことをりかいしているし……今ではフィオナのことも好きになったとおもう……」


 今では、という含みのある言葉に、フィオナは察した。


「もしかして、私の護衛をするって言い出したのも、アイクルのためだったりする……?」


「…………」


 ルシアは沈黙する。だが、それが答えなのだと理解した。


 ルシアはフィオナに抱きつく腕の力を、ぎゅっと強める。


「……今、わたしがこうしてることも、アイクルの記憶に共有されて、アイクルが経験したことになる。……アイクルは、子供だから……」


 アイクルが求めていたのは、「親」からの愛情なのだ。


 そしてそれは、ルシアが与えることのできないものでもある。ルシア自身、親というものを持たない出自だし、何よりも肉体を共有している彼女に、それを与えてあげることはできない。


 一方、フィオナは、こうして抱きついているルシアの中にいるアイクルは、自分に「母親」というものを幻視しているのだろうと思った。


「…………」


 フィオナはルシアを抱き締めながら、自分の手を顔の前に持ってきて、それを眺めた。


 今のルシアは、今のフィオナの記憶を共有していない。ルシアが持っているのは、アイクルの肉体に融合した時点までのフィオナの記憶に過ぎないのだ。


 だからルシアは、「これ」のことは知らない可能性が高い。あるいは薄々と予想した上で、なおもそうお願いしている可能性もあるが。


「…………」


 断言はできない。どうなるか分からないから。


 それでも全ての可能性を勘案して、フィオナはアイクルを受け入れることにした。



「じゃあ、アイクルに聞くわ。……私の娘になる?」



 次の返答が、どちらの声なのか、フィオナには判断できなかった。しかし、どこか幼い声音で腕の中の少女は返事した。


「…………なる」


「……ふふっ、ふふふっ……!」


 くすくすと、フィオナは笑う。「どうしたの?」と目を丸くして見上げてくるルシアに、フィオナは笑いながら答えた。


「ごめんなさい、まさか結婚するより先に、子供ができるなんて思ってなかったから……! それも、こんなに大きい子が……」


「むぅ……ふっ、たしかに」


 頬を膨らませかけて、だが、それはそうだとルシアも笑って頷いた。


 今さらながら、フィオナに大変なものを背負わせてしまったのだと気づいた。だが、ルシアが気づくよりも先に、フィオナは笑ってそれを受け入れてしまった。


(フィオナは、すごい……)


 ルシアの胸の内に、純粋な尊敬の念が湧き上がる。


 自分が生んだのでもない子供の、しかも、一時は殺し合いさえした相手を、結婚もまだしていない女性が、自分の子供として受け入れると言ったのだ。


 普通ではない。普通なら、そんな決断はできないだろう。あるいはフィオナは、どこか異常なのかもしれない。だが、その異常さは、確かにアイクルの心を救っていた。


 尊敬とは別の、自分のものではない感情が湧き上がってきて、目尻から涙となって溢れた。


「……泣いてるの?」


「あ、これは……ちがう。わたしじゃっ、なくて……っ」


 それはアイクルの感情だ。


 自分のことを受け入れてもらえた安堵。居場所ができたことの喩えようもない嬉しさ。フィオナに対して溢れる好きという感情。


 だが同時に、確かに罪悪感も覚えていた。アーロンとフィオナを騙してしまったこと。アーロンを殺しかけてしまったこと。その計画に、フィオナを利用してしまったこと……。今までより遥かに、それらの罪悪感を強く感じていた。


 様々な感情が綯い交ぜになり、涙となって次々と溢れ出る。


 ルシアはフィオナの胸に顔を埋めた。


「……アイクルが、ごめんなさいって……フィオナに、いってる」


「ん……私も、ごめんなさい。あの時は、斬ったりして」


 いやいやするように、ルシアが首を振った。


「フィオナは悪くないって……アイクルがいってる」


「じゃあ、アイクルも悪くないわよ。無理矢理させられてたんだから」


「…………ん」


 そうしてしばらくの間、ルシアは言葉を発することなくフィオナに抱きつき、フィオナはルシアの頭を優しく撫でた。


 撫でながら――――フィオナは決意した。


 アーロンに、自分の想いをきちんと伝えることを。


 本当は迷っていた。少なくとも、【邪神】討伐の結果次第でどうするかを決めるべきだと、そう思っていたのだ。


 だが、アイクルを娘として受け入れると決めた瞬間に、それではダメだと思った。



 ――死ぬかもしれないから。

 ――最期になるかもしれないから。



 そんな後ろ向きな理由、ではない。


 責任が生じたのだ。生きねばならない責任が。


 ならば生きるために、生かすために、自分の想いを伝える必要があるのだと、フィオナは思った。自分自身にも、そしてアーロンにも、死んではいけない理由を与えなければいけないのだと。


 そしてそのために、フィオナはアーロン・ゲイルのことを知らねばならない。自分が知らないアーロン・ゲイルのことを。


 なぜならば、それが重要だからだ。


 アーロンは自分のことを、女性としてかどうかは断言できないが、好きでいてくれている――と、今では少しは信じることができている。


 だが、たとえアーロンが自分へ女性としての好意を抱いてくれているとしても、好きだからこそ、アーロンは自分から距離を置いてしまうのではないか――という不安もあった。


 そしてその不安は、おそらくアーロンの過去に由来するものだ。


 だからこそ、アーロンの過去を知り、知った上で自分の想いを伝える。


 そうするべきだと、フィオナは思った。


(明日……は、ダメよね。少なくとも、アーロンが忙しくなくなるまでは待たないと……)


 伝えるにしても、時期は重要だ。しかし、あまり長く日を開けてしまうと、自分の決意も揺らいでしまうだろう。ならば早い方が良い。


(ん……アーロンの作業が終わったら、その次の日に、伝えるわ)


 そして決行日を決める。


 アーロンの過去については、決行日よりも前に知っている人物に話を聞くべきだろう。その人物というのも、心当たりはある。――――リオンだ。リオンならば、きっと教えてくれるだろう。


(よし、あとで聞きに行きましょう……)


 やるべきことは決まった。


 ならば今日はもう寝よう――と、フィオナは瞼を閉じて。



「……ねぇ、フィオナ」



 だが、そこで再び、ルシアが口を開く。


「ん? どうしたの?」


 まだ何か、アイクルが不安に思っていたりするのだろうかと、優しく問う。


 ルシアはどこか恥ずかしそうに、「あの……お願いが、ある」と言った。


「お願い? なに?」


 アイクルを任せたいという、さっきの願いとは別なのだろう。しかし、いったいどんな願いかは想像もつかない。


 不思議そうにするフィオナに、ルシアは「これは、わたしとアイクル、二人のおねがいなんだけど……」と前置きして、告げた。



「フィオナのおっぱい吸ってみたい」



「…………。…………え?」



 聞き間違いかしら? と聞き返す。


 だがルシアは恥ずかしそうに顔を赤らめながら、もう一度言った。



「フィオナのおっぱい吸ってみたい」



「…………。…………はあっ!?」



 聞き間違いではなかった!


 フィオナはボッと顔を赤くして言い返す。


「な、何言ってんのよ!? っていうか、す、吸っても母乳なんて出ないわよ!?」


「それはしってる。ただ、吸ってみたいだけ」


「なんでよっ!?」


「……わたしにもアイクルにも、生みの母親はいない。生まれたときも、あるていど成長してから人工子宮をでたから、母乳でそだったわけでもない。わたしたちは、おっぱいを吸ったけいけんがない……」


「うぐっ……!!」


 悲しげな表情で話すルシアに、さすがに断ろうとしていたフィオナは言葉を詰まらせた。


「そしてさっき、フィオナはアイクルを娘にしてくれると、やくそくした」


「そ、そうだけど……!!」


「フィオナがママなら、その子供であるじぶんは、おっぱいを吸ってもいいはずだと、アイクルはおもった」


「お、おっぱいを吸うのなんて、赤ちゃんだけよ……?」


 注:もちろん、一部例外もおります。


「赤ちゃんだった時期がないから、いま、吸いたい…………だめ?」


 ルシアは泣きそうな顔でフィオナを見上げた。――いや、その感情はルシアではなく、アイクルのものだったのかもしれない。


「ん、ん~~~~~~~~…………っ!!」


 そしてフィオナは…………押しに弱かった。







 ――――このあと、ルシア=アイクルはしばらくの間、幼児退行し、フィオナの少しだけ乱れた息遣いが室内に響き渡ることになった。



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