第197話 「始まったね、≪大変遷≫が」


 時間は少しだけ遡る。


【封神殿】地下千五百メートル、【神殿】に転移したアイクルが、アーロン・ゲイルの心臓に魔法の剣を突き立てたその瞬間。


 ジルバ=クロノスフィアは、カドゥケウスの屋敷、その一室にいた。


 誰も人を近づけず、一人となった室内で、ソファの背凭れに背中を預けて目を閉じながら、クロノスフィアは異能【見えざる御手インビジブル・ハンズ】を行使している。


 目蓋を閉じた視界に映るのは、暗闇ではなく「可能性世界」だ。この現在に対する「未来世界」と言い換えることもできるだろう。ただしそれは、あくまで無数の可能性の内の一つに過ぎない。


 だが、今この瞬間、「可能性世界」の一つが現実となった。


 アーロン・ゲイルがその身に刃を受け、血溜まりに倒れ伏したのだ。


 そしてその光景を、クロノスフィアは【空間感知】の魔法によって目撃しているわけではない。あくまでも異能による「未来観測」の結果であり、これならば、たとえアーロンが万全の状態であっても、気取られることなく様子を窺うことができる。


「今、なのかな……?」


【神】をも滅ぼす忌々しい『ルシアの剣』を排除するため、クロノスフィアはローガンたちを利用し、ノアを利用し、【神殿】を利用し、アイクルを利用した。「アーロン・ゲイルの死」という事象を引き寄せるため、他の計画に使用するはずだった多くのリソースを割いた。


 クロノスフィアの【見えざる御手】は、完璧な力ではない。


 思い通りの未来を必ず掴めるという、都合の良い能力ではない。


 未来にあり得る可能性の中から、自らが望む未来を観測し、その未来が実現する可能性を高めるために必要な、様々な手段が直感的に理解できる――というのが、【見えざる御手】が持つ「未来観測」と「未来選択」の能力だ。


 それは当然、元より実現する可能性の低い未来ほど、失敗する可能性が高い。だが代わりに、時間をかけて様々な手を加えれば、成功する可能性も少しずつ高くなっていく。


 クロノスフィアには見えている。


 血溜まりに倒れたアーロンが、まだ死んでいないことが。


 しかし、今、自分があの場に転移して攻撃を仕掛けるならば、さすがに殺せるのではないかと考えた。


 半死人……いや、ほぼ死人も同然の状態なのだ。幾ら何でも殺すことは容易いように思える。


 それはクロノスフィアの目の前に放り出された、美味そうな肉の塊のようなものだ。普通ならば、思わずかぶりつきたくなるだろう。


 しかしながら、だからこそ、クロノスフィアは警戒する。


 ――見る。観る。視る。


 ここから先の可能性を、その分岐する世界を、観測する。


 アーロンの瀕死状態が確定したことによって、この後の未来が、より高い精度で観測できるようになったはずだ。


 クロノスフィアは観測する。


 自分があの場に転移した場合の、アーロン殺害の成功――その是非を。



「…………やはり、ここではないのか……」



 予想してはいた。


 だが、落胆は禁じ得なかった。アーロン殺害が成功する未来が見えない。それどころか、自身が【神殿】へ転移した場合、そこから先の未来が一切観測できなかったのだ。


 クロノスフィアの「未来観測」には、一つだけ発動条件がある。


 それは観測する未来において、自身が存命であることだ。自らが存在しない未来を、死んでいる未来を、クロノスフィアは観測することができない。


 そして自らが死亡する直近の未来もまた、観測することができない。自らの具体的な死に様を観測することができない。まるで、死を回避するのは許さないと、運命が言っているかのように。


「まるで見えないとはね……」


 すなわち、【神殿】へ転移した場合の未来が見えないということは、自らの死を意味していた。


 そしてその「死」が転移から数分でもたらされることを示すかのように、近い未来である死に様を観測することもできない。【神殿】へ転移した場合、何がどうなって自分が死に至るのか、クロノスフィアに観測することはできなかった。


 それでも、状況から推測できることは幾つかある。


「まあ……あそこには今、ノア君にローガン君、巫女の力を持つフィオナ君に、【神骸】の一部があるからね……運命が彼の死を望まないのなら、あの状態からでも復活し得る可能性は揃っている……そしてある程度負傷が癒え、魔力が少しでも回復してしまえば、今の私くらい簡単に殺せるというわけか……。それにしては数分で殺されるというのが解せないが……いや、そうか! 神聖魔法ならば、魔力の譲渡が可能……と、なると……やはり、そういうルートで復活してしまうのかな? まあ、何にせよ、ここでは無理ということだね……」


 結果だけを見れば、クロノスフィアの謀略は失敗し、逆にアーロン・ゲイルを強化する結果となってしまった。しかし、あの強化自体は仕方のないことだと理解している。


「むしろ彼の覚醒をここまで遅らせることができたのは、私が不用意に挑まなかったからだな」


 前回のスタンピードの後、クロノスフィアが『ルシアの剣』の存在に気づいた時、すでにアーロンは【神】を殺し得る可能性をその身に秘めていた。


 実のところ、段階的に強くなって今があるのではない。いや、それはその通りではあるのだが、クロノスフィアがアーロンの存在に気づいた時点で、すでに【神】を殺せるだけの可能性があったのだ。


 彼に必要だったのは、限界を超える窮地だった。それがローガンとの戦いでもたらされてしまっただけで、前回のスタンピード後、何時であっても【神殺し】に覚醒し得た。それに必要なだけの基礎的な能力を、アーロンはすでに積み上げてしまっていたからだ。


 だからこそ、クロノスフィアも手を出せなかった。下手に手を出せば、アーロンが覚醒した上、自分は殺されると分かっていたから。


「だが、彼の死に向かって、確率は確かに収束しつつある……」


 それが【見えざる御手】の能力で、はっきりと分かるのだ。


 今回の出来事が、近い未来、アーロンを死に至らしめるための迂遠だが強力な一手になったことを。


「世界最強の英雄……それを殺すのが、武力である必要はない。決して抗えぬ毒で、彼を殺してみせよう。それに……他の部分では私の望み通りになった……」


【神殿】を利用した計画は失敗した――というより、自ら失敗させてしまった。


 クロノスフィアも元々は【神殿】を利用した計画を進めるつもりだったのだ。最初から失敗させるつもりで【神殿】を建設していたわけではない。


 だが――――目的が変われば計画が変わるのも当然のことだ。


 そして……目的が他言できない類いのことであるから、ノアにも秘密にしなければならなかった。


「ノア君には申し訳ないことをしたな……まあ、もう会うこともないだろうが」


 クロノスフィアがそう呟き、目を開けた時。


 コンコンコンッ、と。


 部屋のドアがノックされた。


「――入りたまえ」


「はっ、失礼いたします」


 クロノスフィアの許可を待って、ドアが開かれる。


 中に入って来たのは、四十代半ばほどの壮年の男性。ナハト・カドゥケウス。ジルバの息子だ。


 しかしナハトは実父に向けるものではない硬い表情を崩さず、クロノスフィアに一礼すると、事務的に報告を開始した。


「当主様、迷宮を見張らせていた者たちから報告が入りました」


「ふむ……どうなったかな?」


「迷宮内部、低階層からになりますが、魔物の再発生が順次停止し、各層外縁付近より、環境初期化の兆しありと」


「なるほど……始まったね、≪大変遷≫が」


 クロノスフィアはまた一つ、予定通りに事が運んだと、機嫌良さげな笑みを浮かべて頷いた。


 ――≪大変遷≫


【神骸迷宮】では百から二百年周期で、迷宮構造が変わる現象――≪変遷≫が発生する。しかし、システム的に定められた≪変遷≫と違って、≪大変遷≫は根本の発生原因が異なる。


≪大変遷≫とは、「テラフォーマー007」の機能変更に伴う、迷宮構造の大規模変更のことだ。


 端的に言えば、「テラフォーマー007」を管理するフリズスキャルヴに命令できる、最上位権限者が要請した機能変更によって生じるのが、≪大変遷≫という現象である。


 そしてフリズスキャルヴへの最上位命令権限を持つのは、クロノスフィアではない。


 それはただ一人、あるいはただ一柱だけだ。


「報告ご苦労だったね、ナハト」


 クロノスフィアがそう言うと、頭を下げていたナハトの体が震えた。


 その視線は何もない虚空を注視している。まるでそこに何かがあるかのように。


「現時刻をもって、カドゥケウスの当主権限を、全て君に委譲しよう」


 四家の当主就任は、【封鍵】作成の権限や、【封神殿】制御システムに対する上位操作権限などの委譲によって行われる。表向きは盛大に当主引退や新当主就任式などを行うこともあるが、当主として真に必要なのは、それらシステム的な権限の委譲だけだ。


 そして権限の委譲は、ブレイン・サポート・インターフェイスを介して一瞬で行われる。


 ナハトの視界に映し出されたのは、ジルバからの当主権限委譲がナハトに対して行われ、それを承認するかどうかをシステムが問うている画面だった。


「…………カドゥケウス次期当主の任、慎んで拝命いたします」


 思考操作でシステムの問いに「是」と答えたナハトは、頭を下げてそう答える。


 直後、


「――じゃあ、後は君たちの好きにすると良い」


 ナハトが下げた頭を上げる前に、クロノスフィアはそう告げて――――何処かへ消えた。


 転移したのか、ナハトが頭を上げた頃には室内のどこにもその姿はなかった。


 残されたナハトは――、


「……老いぼれめ……!! 好き勝手してくれたな……!!」


 憎々しげな顔でクロノスフィアが座っていたソファを睨むと、すぐに踵を返して部屋を出た。


 為すべきこと為すために。



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