第195話 「不細工で、とても愛おしい」
「黒白」を手放した。
ゴズンッ!! と重い音がして、「黒白」が床に衝突する。
それを気にすることもなく、フィオナは血溜まりに倒れたアーロンへ向かって歩き出した。
一歩、【神降ろし】が解け、瞳に宿る金色の光が消えた。
二歩、【神体】が解け、オーラの浸透した体が元に戻った。
三歩、足が震えて立ち止まりそうになる。喉の奥が震えた。体から力が抜けて、その場に倒れてしまいそうだった。
――確認するのが怖い。
こちらに背を向けて横たわっているアーロンの、その顔を確認するのが怖い。呼吸が止まっているのを、心臓が止まっているのを、確認するのが怖い。
呼吸がおかしくなる。嗚咽のように震えが止まらない。涙が頬を伝う。父が死んだあの日のことを思い出す。死。それは取り返しのつかない、不可逆の運命。あまりに大きな喪失の予感に、心臓が裏返りそうなほどに、気持ちが悪くなる。
「ぃ、や……!!」
現実を否定したくて、呟いた。
それでも、もう分かっていた。目の前の光景こそが、現実なのだと。
横たわるアーロンの体に黒く黒く黒い靄が纏わりついている。それは今までに見たこともないほど色濃い、死の可能性。それは、間違いなくアーロンが死んだという証明――――、
(――――え? …………違うっ!!!!)
瞬間、気づいた。
アーロンの体に纏わりつく黒く黒く黒い靄、自分だけに見える死の可能性。それがまだ見えるということは、アーロンが死んだという証明ではなく、むしろ――、
「アーロンっ!!」
駆け寄った。
血溜まりの中に膝をついて、アーロンを仰向けにさせる。静かに瞼を閉じ、まるで人形のように無機質な顔をしたアーロンの、その頭を自身の膝の上に乗せて、首筋に指を這わせた。
トクンっと、確かに、けれど、弱々しく脈を打つ頸動脈の感触。
(まだ生きてるっ!!)
心臓を貫かれたはずなのに、なぜ脈拍があるのか。
赤く濡れた胸の中心を、手のひらで拭ってみた。するとそこには、貫かれた穴はなく――、
「黒い、【怪力乱神】……!?」
胸の中心だけに小さく、黒いオーラによる【怪力乱神】が展開されているのに気づいた。
【怪力乱神】はオーラで無理矢理、人体を正常な形に保つ戦技だ。すなわち、なけなしのオーラで貫かれた部位を繋ぎ止めて死を免れているのだ。しかし――、
(まだ黒い靄が消えてない……っ!!)
アーロンを覆う黒い靄は、刻一刻と、その濃さを増している。死へ近づいている。アーロンに残っている魔力がもう枯渇しているからなのか、それとも単に大量の出血によるものなのか。
(ポーション……じゃ、間に合わないっ!!)
フィオナの研ぎ澄まされた感覚が、予知にも近い予感を覚える。ポーションで回復させても間に合わないと。そもそもポーションには失った血を戻すような効果はない。
すでに失血死に至るような出血量ならば、ポーションで傷を癒しただけではダメだ。
しかし、治癒術を使える者はここにはいない。そして時間もない。
「大丈夫……」
それでも、フィオナは呟いた。
「巫女」として研ぎ澄まされた感覚が、自分にはアーロンを助ける術があると告げているのだ。
その感覚に従うまま、フィオナは目を瞑り、胸の前で祈るように両手を組んだ。
そうしてスキルを発動する。
『剣舞姫』最終スキル――――【神降ろし】
【選択――――――――魔法神:治癒神】
目を、開く。
その瞳は金色に発光していた。
数瞬、夢現のような茫漠とした意識となって、フィオナは理解する。魔法の使い方。神聖魔法の最高峰にして、最上級の治癒術の使い方を。
次の瞬間、フィオナから迸った魔力は、横たわるアーロンの上で結実し、魔法と化した。
神聖魔法――――【
●◯●
もう、二年以上も前のことになるだろう。
前回のスタンピードにおいて、一人でイグニトールやその他、多くの魔物を狩り尽くしたアーロンは、ネクロニア中央区の一角で横たわっていた。
戦場は【封神殿】周囲の「境内」でもなく、その周囲に伸びる「大参道」でもなかった。すでにスタンピード発生から数時間が経過しており、イグニトールやノルドといったスタンピードの中心的な魔物が、「大参道」を越えて中央区へ侵攻しつつあったのだ。
それゆえに戦場となったのは中央区市街。
建物の被害も大きかった。
多くの建物が倒壊し、瓦礫の山となり、魔物以外いなくなった中央区は廃棄された都市のように閑散としていた。
アーロンが力尽きたのは、イグニトールを倒したしばらく後だ。
統制を失った魔物どもを怒りのままに狩り続け、そうして魔力が切れた時、【怪力乱神】が解けて腕と足が一本ずつ「落ちた」のだ。おまけに全身の傷が開き、骨が砕け、臓器は破裂し機能不全に陥っていた。
人気のない街の一角で血溜まりに倒れ、はっきりとしない意識で空を見上げていたのを覚えている。
――これは……死んだな……。
それは絶対的な確信だった。
もしも仮に、超一流の腕を持つ治癒術師がここにいたとしても、絶対に助からないであろう傷と出血。
自分が死ぬことに対して、アーロンは負の感情を抱かなかった。むしろ自分が思っていたより、十年以上は長く生きたのではなかろうか。まさかここまで自分が死なずに生きて来れたことに、驚きさえ覚えている。
意識が薄れていく中、最後に、最期だと思って、思った。
(やべ……俺まで死んだら、リオンの奴、怒る、かもな……)
そうして意識が途切れる直前、アーロンは何かを感じた。
自分の体に降り注ぎ、体の中に浸透して、強張りをほぐしていくような温かい何かを。
その時のことを、夢現の中、思い出す。
今、その時と同じ感覚が、全身を包んでいたからだ。
――――目を、開けた。
黄金に輝く光の粒が、まるで雨のようにこちらへ降り注いでいた。
なぜか、金色に瞳を輝かせたフィオナが、こちらを見下ろしている。その瞳から止めどなく涙が溢れて、こちらの頬へ落ちてくる。
「――――」
フィオナの顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。整った顔が不細工に歪んでいる。どこかで見た表情だと考えたら、ふと思い出した。リオンの幼い娘たちが、声をあげてギャン泣きする直前の表情に似ていた。
そんなフィオナが、アーロンが目覚めたことに気づいて口を開く。
「アンタ…………ふざけんじゃないわよッッ!!!!」
「…………」
不思議と、なぜフィオナが怒っているのか、理解できた。
あそこで自分が「黒白」を手放したことに対してだろう。もしかしたら、自分がそうしなくても、フィオナには何とかする術があったのかもしれない。今も自分の体に降り注ぐ、たぶん治癒術であろう魔法を見て、そう思った。
だとするなら自分は、もしかしてフィオナを信頼していなかった、ということになるのかもしれない。
あるいは単に、自分を助けるために命を投げ出した――ように見えたことに、怒っているのかもしれない。
実際はあの瞬間も死ぬつもりなどさらさらなく、最後の瞬間まで抵抗するつもりでいたのだが、もしもあのまま死んでいたら――フィオナにとっては、自分のせいでアーロンが死んだという結果だけが残ってしまう……かもしれない。
(確かに……そいつは、真っ平御免だな)
アーロンは自分とフィオナの立場を置き換えて想像し、怒るのも無理はないと納得した。
それでも同じような場面に陥った時、自分は何度でも同じ選択をするだろうと思いながら、しかし――、
「…………悪かった」
謝罪は素直に口から溢れ出た。
そうしながら、実に不思議な気分でフィオナの顔を見上げる。
(もしかして……前の時も、フィオナだったのか……?)
ふと、そんなふうに思って。
(だとしたら……
自然と笑ってしまった。少しだけ苦笑じみた笑いだ。
一人の人間に、三回も命を救われるなんてこと、あるのだろうか? と。
それはいったい、どんな奇跡なのだろう、と。
そんなことを考えていると、ずずぅっと鼻をすすり上げて、フィオナがジト目となって文句を言う。
「……あに、笑ってんのよ……?」
「…………悪い」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった酷い顔に、今度は苦笑する。しかし、茶化す気分にはなれなかった。
それはその顔が、不細工で、とても愛おしい顔だったから。
「……ありがとな、助かったぜ、マジで」
そうして、いつもの自分みたいに、ふてぶてしく笑った。
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