第125話 「ただ生きているだけで尊い」
隊長たちの目の前に現れた≪極剣≫は、なぜか体調が極めて悪そうに見えた。
しかしそれでいて、表情は悪くない。全ての苦痛から解放されたような、そんな穏やかな顔をしている。
「いったい、どうされたのですか極剣殿? その……だいぶ、やつれているように見えますが……」
これから46層まで探索しようというのである。
自分たち『闇鴉』の先頭に立って導くべきアーロンの様子には、さすがに不安を抱かざるを得ない。彼がいなければ46層には辿り着けないし、彼がいなければ40層45層の守護者は倒せない。それなのに肝心の戦力であるアーロンがこの有り様なのである。
「もしも体調が悪いのでしたら、今回の探索は延期されますか……?」
いや、延期というか今すぐ治療院へ行くべき顔色だ。
確実に探索は延期になるだろうと思いつつ、隊長は確認の意味を込めて問うた。
しかし、対するアーロンは「ははは」と穏やかに笑いながら手を振る。
「いえいえ、ご心配には及びません。……気分は、悪くないのですよ」
「「「…………」」」
思わず黙った。
ツッコミどころが多すぎて、何を言えば良いのか分からなくなってしまったのである。
気分は悪くなくても体調は悪いだろ、とか。アンタが良いって言ってもこっちは不安なんだよ、とか。そもそもアンタそんな口調じゃなかっただろ、とか。
「「「…………」」」
部下たちの視線が隊長に集中した。
何とかしてくださいよ、という無言の圧力。
隊長は仕方なしに口を開いた。
「しかし、極剣殿……その、これから46層まで向かうのですよね? ……大丈夫ですか?」
「はい、もちろん。皆さんが心配される必要はございません。私が必ずや、皆さんを46層までお連れしましょう。全て、任せてください」
アーロンは一瞬も躊躇することなく、穏やかな表情で頷いてみせた。
隊長とて≪極剣≫の強さは重々承知している。その彼本人がこうまで断言してみせるのだ。きっと大丈夫なのだろう。
しかしながら、一抹の不安を拭いきれない。
「そう、ですか……。ところで、極剣殿」
「はい、何でしょう?」
「ずいぶんと、顔色が悪いように見受けられますが、何があったのです?」
これでもしも猛毒を受けてこうなったとか、実は不治の病に侵されているなどと答えられたら、問答無用で今回の探索は中止しよう。隊長はそう決意した。
だが、アーロンの答えは予想したどちらでもなかったのである。
「…………たった、一杯なんです」
「――は? 一杯?」
唐突に遠くを見つめて語り出したアーロン。
一杯とは何か? まさかお酒に弱くて一杯でこうなったとか? いやいや、あり得ない。そもそもノルド討伐作戦の打ち上げで、アーロンがジョッキで何杯も酒を飲んでいるところを、彼らは目撃している。
ならば何か? やはり毒?
そう推測する彼らに、アーロンは不可解な単語を告げる。
「……たった一杯、スープを食べただけなんです。……それで、これですよ」
「は、はい……? スープ、ですか……?」
それは何かの隠喩だろうか?
問うように見つめても、アーロンは微笑むばかりで答えを返さなかった。それにスープを「食べる」と表現したところにも疑問がある。
大陸公用語では「飲む」と「食べる」は明確に区別され、別の単語が使われる。確かに具沢山のスープの場合、「食べる」と表現することもあるが、スープと明言した時点で、普通は「飲む」と表現する場合が多い。
(いや、そもそもスープを一杯飲んだからといって何なんだ。絶対そうはならんだろう)
答えにくいことなのかもしれない。それでも答えてもらわなければ困る。
「極剣殿……毒を、盛られたのですか? スープに」
そう考えれば辻褄は合う。しかし、アーロンは「いえ」と明確に否定した。
「毒ではありませんよ。学術的に定義するならば……ただの、料理です」
「…………」
なぜ、学術的に定義する必要があるのか。しかもスープではなく料理になってるし。
聞くべきか聞かざるべきか迷ったが、その時間をアーロンは与えてくれなかった。
「さて、皆さん。それではそろそろ出発しましょうか。私が先頭を歩きますので、皆さんは後に続いてください」
「あ、その…………了解しました」
そうして探索を中止するという明確な理由を見つけられないまま、アーロンと『闇鴉』10名は、46層へ向かって出発することになったのである。
●◯●
やつれたアーロンに対する不安と不審。
そんなものは、すぐに吹き飛ぶことになった。
道中で彼の戦う姿を目撃したから――――ではない。
それどころかここまでの道中、戦闘は一切なかった。
(何てことだ……!! 本職顔負けじゃないか……!!)
アーロンを含めて『闇鴉』たちは、隠形を保ったまま雪原階層を進んでいく。
隠形とは魔力を不活性化し、完璧に体内に留めることで【魔力感知】を欺く技術だ。より正確に言えば、これに加えて気配を殺し、静かに動くこと全般を纏めて隠形という。
斥候ジョブであれば、これらは種々のスキルによって実現することができる。
そしてこの技術が他の戦闘ジョブのスキルに比べて特殊なのは、スキルを持たなくても再現し得るということだ。
必要なのは気配を殺す技術、目立たず静かに動く技術、そして魔力を操作する技術だ。
驚くべきことに、隠形を成すための技術でオーラは使用されない。ゆえに鍛練次第では他のジョブであっても再現可能な技術と言われていた。
それをアーロンは極めて高い水準で模倣することに成功していたのである。
(だが、それだけじゃない。それだけではここまで魔物との遭遇を回避できるのは、説明がつかない)
斥候ジョブが持つ身を隠すためのスキルは、多種多様だ。
足音を響かせないなんてのは当たり前で、鼻の良い魔物に気づかれないために体臭を放たない(消す、ではなく放たない)スキルや、体温を誤魔化すスキルにオーラで囮を作り、注意を自身から逸らすスキルや、果てはオーラの屈折を利用して姿を眩ますスキルなど、様々にある。
確かにアーロンはオーラを利用しないものも利用するものも、多くの斥候スキルを模倣しているようだったが、他の戦闘ジョブに比べて特殊な斥候スキルだ。本職である隊長たちとは使える技術の数で劣っていた。
そしてそれでは、この階層に存在する全ての魔物を欺くことはできない。
だというのに。
(なぜ、魔物と遭遇しない? まさか……)
一つの推測。
それを確かめてみるべく、声を出す危険を承知しながら、隊長は前方のアーロンに問うた。
「極剣殿、先程から魔物と遭遇しないのは、どういったわけだろうか?」
黒い棒――歩行補助のための杖を突いて歩きながら、アーロンは顔だけで振り向いた。
「ああ、それは、魔物を避けて進んでいるからですよ」
と、当然のことのように答える。
隊長は自身の推測が当たっていたことを確信した。
すなわちアーロンは、こう言っているのだ。「【魔力感知】で魔物の位置を把握し、避けるように進んでいるから魔物と遭遇しないのだ」と。
隠形に加えて、それだけ広く正確な【魔力感知】ができるならば、確かに可能だろう。
ただ、理屈としては簡単なことのように聞こえるが、それは異常だった。
魔物との戦闘を避けて先へ進む。それ自体は隊長たちにとって驚くことではない。なぜなら自分たちが迷宮深層で活動する時は、だいたいがそうだからだ。
しかしながらそれは、数多くの斥候スキルを使うことによってはじめて可能になることだ。【魔力感知】で魔物を避けたりもするが、ここまで完璧なものでは断じてなかった。
(そういえば、極剣殿は元々ソロで深層を探索していたのだったな……だから【魔力感知】に長けているのか? 凄まじい練度だ……)
幾つかの斥候スキルを完全に模倣している事といい、やはりその技量には目を瞪るものがある。
だが、どうにも解せないことがあった。
「あの、極剣殿」
「どうされました、隊長殿?」
穏やかな笑みを浮かべるアーロンに、隊長は問う。
「なぜ、戦わないのですか?」
はっきり言って、このレベルの深層になるとまともな戦力はアーロン一人だけだ。せめて足手まといにならないように立ち回ることはできるが、自分たちはあまり役には立たないだろう。
ゆえに、戦いをできる限り避けるのは理解できる。
理解できるがしかし、ここまで戦わないとは思わなかったのだ。
そんな隊長の疑問に、アーロンは穏やかに答えた。
「そうですね……先はまだまだ長い。なので体力の消耗を抑えるために、戦闘は避けるべきだと考えました。それに……」
「それに?」
アーロンは立ち止まり、雄大な光景が広がる雪原階層を、何か想いを馳せるように眺めた。
「私はね……戦いが、嫌いなんですよ」
「…………は?」
それは隊長たちの知る≪極剣≫の口から出たとは思えない、意外すぎる言葉だった。
思わず呆気に取られてアーロンを見つめる。
アーロンは慈しむような眼差しで隊長たちを見返した。
「命は、ただそこに在るだけで、ただ生きているだけで尊い……。なのに無意味な闘争で命を散らしてしまうことの、なんと罪深いことでしょうか」
「は、はあ……」
突然何を言っているのか分からなかったが、どうやらそれが、本心からの言葉であることは伝わった。
だから何だという話ではあるし、戦うべき時はきちんと戦ってくれるのだろうかと、隊長たちは不安を覚えた。
(((大丈夫かな、この人)))
その不安を本人の前で直接口にしないだけの余裕はあったのだが。
「さて、行きましょうか」
「「「…………」」」
言い知れない不安を覚えつつも、アーロンの後に続いていく『闇鴉』たち。
歩きながら、隊長は思う。
(極剣殿の技量は確かに凄まじいが、それでもこの人数だ。40層まで、全ての魔物を避けられるとは思えん……)
その懸念は的中することになる。
しかし、彼らはこの後、同時に知ることになるのだ。人格に異常が見られても衰えない≪極剣≫の技量と――――何より、聖者のごとき、その慈愛の心を。
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