第103話 「オー、ウェン、くぅぅうん?」


 ――英雄に憧れていた。


 探索者パーティー≪バスタード≫のリーダーを務めるオーウェン・ウィックは英雄に憧れていた。


 神話の中の英雄たち、物語の中の英雄たち、あるいは歴史上の英雄たち。


 そして――歴史上ではない、この時代に生きる英雄たち。


 最初に憧れたのは皇炎龍を倒した剣聖だっただろうか。


 ネクロニアどころか周辺諸国にも遠く聞こえる伝説的な探索者たちの物語。近年の【神骸迷宮】の未踏階層を次々と更新してみせた驚くべき冒険譚。


 聞くだけで胸を熱くさせる英雄物語は、幼い少年だったオーウェンに憧憬を抱かせるのはあまりに容易く。


 胸の内に芽生えた衝動に抗うこともできずに、彼は探索者になった。


 才能は間違いなくあったと思う。仲間にも恵まれたのも間違いない。オーウェンたち≪バスタード≫は、結成してからほんの数年で、快進撃と言って良い速度で、次々と迷宮の攻略階層を更新していった。


 その矢先、オーウェンは新たな憧れと出会った。


 ネクロニアで発生した大規模なスタンピード。


 街の中に魔物が溢れ返り、悲鳴と怒号が響き渡る終末のような光景。


 そのような出来事において、当時はまだ上級探索者と言っても下位に過ぎなかったオーウェンたちは目立つ活躍を残すこともできず、その他大勢の探索者たちにすぎなかった。


 そんな彼らを差し置いて、ギルドや【評議会】などから表彰されるような、華々しい活躍を見せた幾人かの探索者たち。


 憧れたのは、そんな彼ら――ではなかった。


 ――≪極剣≫


 何処の誰なのかも分からず、何人いるのかも不明で、ただその内の一人が剣士らしいという噂だけが一人歩きした結果、いつしか≪極剣≫と呼ばれるようになった、謎の戦闘集団。


 だが、その実力だけは誰もが疑いようもなかった。


 地上に現れた皇炎龍イグニトールや巨人王ノルド、そして不死者リッチーなどが率いる数多の軍勢を、極少数で討伐してしまった実力の持ち主。


 ――イカれてる。


 思わず、そう感じたのだ。


 ただ結果だけが示されたその逸話を耳にした時、オーウェンの背筋にはぞくりとした震えが走り、胸の内を幼い頃のような憧憬が満たしたのを、今も鮮明に覚えている。


(は、はは……!! 何だそりゃ……何だそりゃあ……ッ!!)


 胸を掻きむしりたいほどの衝動。信じがたいほどの偉業を成し遂げた人物への称賛と憧れ。


 剣聖ローガン。


 それまでは圧倒的に一番だった憧れの対象が、突如として≪極剣≫へと書き変わってしまった。


 探索者としての広範な能力よりも、ただひたすらに圧倒的な強さを。


 オーウェンが求めていた憧憬の源泉が、よりはっきりとした形を伴って目の前に示されたのだ。


 強くなりたい。


 ただひたすらに強く。


 それこそが自分が真に求めていたものだと、オーウェンは気づいた。


 それからの彼は、それまで以上に、探索者としての活動にのめり込んでいく。それは断じて金のためなどではなかった。より深い階層でより強い魔物たちとの戦闘を経験することで、より強くなるための探索。


 いつか自分が英雄と呼ばれる姿を夢想しながら、オーウェンたち≪バスタード≫の快進撃は続いた。


 しかし。


 その快進撃の前に立ちはだかったのは、残酷な現実というやつだった。


 俗に才能限界とも呼ばれる現象――『限界印』の出現だ。


 同年代の多くの探索者たちと比べれば、凄まじい速度で成長を繰り返し、ジョブ進化を経験してきたオーウェン。そのジョブはすでに『上級剣士』に至り、あと少しで固有ジョブの覚醒も夢じゃない――というところまで来ていた。


 だが、固有ジョブに覚醒することなく、それを目前にして彼のジョブは成長を止めてしまう。


『上級剣士』まで成長できたことは、間違いなく才能があると評すべきだろう。加えてオーウェンは、上級ジョブの中でも多くのスキルを修得できた部類だ。


 ここがネクロニアでなければ、天才と持て囃されても何らおかしくはない才能。


 それでも、オーウェンは絶望した。


(嘘、だろ……!?)


 これではダメなのだ。


 これでは『剣聖』にも≪極剣≫にも、他の英雄たちにも届かない。


 せめて固有ジョブに覚醒しなければ、自分が望む強さには到底届かない。


 ――もはや自らの夢が叶うことはないと知って、諦めるか。その選択肢こそ、現実的なものだろう。


 すでにオーウェンたちは上級探索者であり、世間一般から見れば稼ぎは大きい。19歳という若さで、欲をかかなければ十分に満足できる、社会的成功を収めたといっても過言ではない。


 だが、物分かり良く簡単に諦められるなら、それは夢ではない。


 オーウェンは諦めなかった。


 一人の強さに限界があるのなら、パーティーとしての強さで。


 幸いにも≪バスタード≫の仲間たちには、固有ジョブに覚醒できた者が二人いた。他の者たちはオーウェンと同じく上級ジョブで才能限界が訪れたが、それでも全員が上級ジョブだ。パーティーとしての総合的な能力は高く、まだ先を目指せるレベルにある。


 オーウェンも新たなスキルは覚えることがなくとも、スキル以外にできる努力は重ねてきたつもりだ。


 パーティーリーダーとしての指揮や剣士としての基礎的な修練も怠らず、深層の魔物を一撃で一掃できるような派手なスキルこそ修得できなかったが、堅実に他のメンバーを支援できるような立ち回りも覚えた。


 そうして30層、不死者リッチーとその軍勢を下し、31層へと到達したことで、≪バスタード≫は遂に最上級探索者に名を連ねることになった。


 だが、そこから才能の限界を思い知らされることになる。


 それまでとは打って変わり、遅々として進まない迷宮の攻略。


 階層を更新するために進むべきルートは、すでに調べて把握している。それでも襲い来る巨人どもに苦戦する日々。ただ敵が巨大なだけで、一気に与えられるダメージが少なくなり、逆に自分たちは一撃でさえ死にかねない、気の抜けない状況ばかりが続く。


 だが、固有ジョブに覚醒し、巨人にも通じる威力の高いスキルを修得できた仲間たちは、そうではなかった。


 足を引っ張っているのは自分を含めて、上級ジョブで成長が止まってしまったメンバーたちだ。


(くそ……くそっ……くそぉッ!!)


 何度悪態を吐いたか分からない。


 上級ジョブと固有ジョブ。


 その間に、これほどまでに巨大で残酷な才能の壁が立ちはだかっているなど、思いもしなかった。何しろ世間一般では、上級ジョブも間違いなく天才の部類なのだから。


 だが、真の天才を前にすれば、否応なく自らが劣っていることを自覚せざるを得ない。


 このままでは迷宮攻略の最前線へ向かうどころか、35層の守護者ノルドさえ、倒すことはできそうもなかった。


 そんな絶望感に囚われていた頃、現役を退いていた剣聖ローガンがクランマスターとして、≪迷宮踏破隊≫を結成した。


 オーウェンはその活躍を、外側から羨望の眼差しで眺めるしかなかった。


 そしてローガンたちは幾らかの犠牲を出しながらも、46層に転移陣を設置するという偉業を成し遂げてみせる。


 クランという大勢の協力があったとはいえ、その全員が、少なくとも竜山階層を踏破できる実力の持ち主であるのは間違いがない。巨人階層で停滞しているような自分たちとは、まさに格の違う探索者たちだ。


 その中には自分と同じように上級ジョブで才能限界が訪れた者たちもいるはずだが、すっかり自信を失ったオーウェンには、自分たちが――いや、自分もいつかはそうなれるというビジョンを思い浮かべることができなかった。


 そうして日々は過ぎ、今度は剣聖と隠者が揃って行方不明になるという衝撃のニュースが知れ渡る。


 それから一月も経たない内に、【神骸迷宮】で「大発生」が起こった。


 この時、各階層で大発生した魔物の駆除に活躍したのが≪迷宮踏破隊≫の実力者たちであり、特に名が大きく広まることになったのが、先頭に立って何体もの特異個体を討伐した賢者とアーロン・ゲイルだ。


 この二人の内、特にアーロン・ゲイルについては程なく≪極剣≫ではないかという噂が流れた。


(馬鹿馬鹿しい)


 最初、オーウェンは信じなかった。


≪極剣≫の強さは伝説的な域にある。それこそ神代の英雄たちの逸話と比べても遜色がないほどの。


 ポッと出の探索者がそれであると突然に言われても、信じることができる者は少ないだろう。何より≪極剣≫という虚像に対して、周囲を納得させるほどのカリスマ性が、アーロンにあるようには見えなかった。


 まだ剣聖が≪極剣≫だったと言われた方が信じられる。


 そう思うオーウェンを他所に、アーロン・ゲイルが≪極剣≫であるという噂は広がっていく。


 特異個体に殺されそうになり助けられた多くの探索者たちが、目撃したアーロンの戦いぶりを興奮混じりに語っていく。あるいは≪極剣≫の名を騙っていた多くの探索者たちがアーロンに挑み破れ、それを観戦していた者たちによって信憑性が高められていく。


(ふざけるな! あんな奴が≪極剣≫であるもんかよ!!)


 それでもオーウェンは信じない。


 いまや手の届かない憧れの存在が、その正体が、あんなカリスマ性のない男だとは信じたくなかったのだ。


 何よりも許せなかったのが、アーロン・ゲイルが『初級剣士』ジョブだと周囲に嘘を吐いていることだ。これ見よがしに左手の甲に刻まれた『初級限界印』を模したタトゥー。いったい何のつもりであんなものを彫っているのか。理由は分からないが、とにかく――


(気に入らねぇ……ッ!!)


『初級剣士』があの強さを手に入れられるわけがない。


 それは『上級剣士』で成長の止まった自分が、一番良く分かっているのだ。


 天才が凡人を見下しているのなら、オーウェンは悔しいし苛立つだろうが、納得するだろう。オーウェン自身も世間一般では才能ある探索者と評されるからこそ。


 だが天才が凡人を装った上で天才も凡人も一緒くたに馬鹿にするのは許せない。


 アーロン・ゲイルの行いは、まさに自分こそを馬鹿にしているように感じられたのだ。


 そうしてさらに月日が経ち、「大発生」の真の核と思われる特異体ノルド討伐作戦が、探索者ギルド主導で行われることになる。


 この頃には、オーウェンたち≪バスタード≫は35層を突破することに成功していた。


 しかしそれは、実力によるものではない。今回の特異体ノルド討伐に大人数を動員するため、ギルド主導で36層以降へ潜れる探索者を増やすために、幾つかのパーティーでレイドを組ませて、強引に突破させたのだ。


 この時、オーウェンたちがレイドを組んだのは同年代の探索者パーティーである、≪ホーリーナイツ≫と≪シルフィード≫だった。


 総勢17人にも及ぶレイドで、何とか通常のノルドを討伐することに成功する。


 それでも最初の総攻撃で倒しきることはできず、辛勝という形になったのが現実だ。


 とにもかくにも、そうして特異体ノルドの討伐作戦に参加することになったオーウェンたち。


 彼らはそこで、まさに圧倒的な力を持つ、二人の探索者を目撃することになる。


 一人は『剣舞姫』フィオナ・アッカーマン。


 ノルドに寄生していた特異個体が正体を顕した時、凄まじい戦いぶりで特異個体を追い詰めてみせた。


 そしてもう一人は、アーロン・ゲイル。


 特異個体に止めを刺した時も印象的だったが、それ以上に、特異体ノルドを一人で足止めしていた時の戦いや、巨大な漆黒のオーラの槍を遥か上空からノルドに叩き込んだ姿には、それまでの嫌悪に似た感情が裏返るほどの衝撃を感じた。


 ――強い。


 ただひたすらに強い。


 その強さは、自分を含めた周囲の探索者たちとは、まるで隔絶していた。


 比類する強さを見せたのはただ一人『剣舞姫』のみだったが、オーウェンの見たところ、その『剣舞姫』でさえ、アーロンの強さには及ばないように感じた。


≪極剣≫という名の虚像が、オーウェンの中でアーロン・ゲイルの姿を伴って実像を結ぶ。


 この時、オーウェンは確かにアーロン・ゲイルに憧れを抱いたのだ。


 だからこそ、この3日後、アーロンがノルド討伐の打ち上げの場で「強くなりたいかッ!?」と問い、クランに入れと迫った時、「一人一人が一騎当千の最強のクランになる」と目標を掲げた時、熱狂に駆られてクランに加入することを決めた。


 きっとオーウェンと同じ想いを抱いた者は、決して少なくなかったはずだ。


 探索者の業界で――いや、探索者に限らず、戦いや武力を生業に利用する者たちにとって、強いということはただそれだけでカリスマ性をもたらす。


 あの戦いでアーロン・ゲイルの強さを知ったからこそ、あの戦いに参加した全員がクランに加入することに、異を唱えなかったのだ。


 この男が率いるクランならば、きっとこの先、伝説になるような偉業を成し遂げると確信できたからこそ。


 その偉業の一端を担うことで、自分たちも英雄の一人に成れると思ったからこそ。



 ●◯●



「――だって言うのによぉッ!! 実際クランに入ってみれば、修行と称して木剣片手にトレントの相手をさせられたり、それ以外は工房で木剣を作らされるだけじゃねぇかッ!! こんなんで本当に強くなれんのかよ!? 俺たちは職人目指してるわけじゃねぇんだぞ!! 俺はもう限界だぜ!! あのマスターにはこれ以上ついて行けねぇ!! お前らもそう思うだろッ!?」


 探索者御用達の酒場――「酔いどれ墓地」にて、≪バスタード≫のリーダーたるオーウェン・ウィックは憤懣やる方なしと叫ぶように言った。


 言葉を告げた相手は同じパーティーの仲間たち……ではなく、クラン≪木剣道≫に所属している≪ホーリーナイツ≫のリーダーと、≪シルフィード≫のリーダーだ。


 その日は3パーティーのメンバーで飲みに来ていた。


 目的としては、≪ホーリーナイツ≫と≪シルフィード≫も一緒にクランを脱退しないかという誘いのためだ。自分たちのパーティーだけが抜けたのなら、あまりクランにダメージはないだろう。しかし、一気に3パーティーが脱退したのなら、他のクランメンバーに与える心理的影響は決して小さくないはずだ。


 もしかしたら、連鎖的に他のクランメンバーも脱退を表明し、クラン解散という事態にまで発展するかもしれない。そうなったら最高だ。


 オーウェンは、あのムカつくクランマスターに吠え面をかかせてやりたかった。


 そのためにこの場を設けたのだ。


 そして説得の相手は、それぞれのパーティーを束ねるリーダーの二人。仲間たちは近くのテーブル席に分散して座っている。そのため、オーウェンの言葉は全員が聞こえていただろうが、オーウェンの主な話し相手は同じテーブルに着いているこちらの二人だ。


 先も言ったように、一人は≪ホーリーナイツ≫のリーダーである、エリオット。


「まあ、正直な話、思っていたのと違うというのはあるね。私としてはもっと華々しい活躍を期待していたのだけれど、やる事と言ったら木剣作りばかり。これでは少々話が違うと言いたくなる君の気持ちも分かる」


 茶髪に茶瞳、優男風の青年であるエリオットが言う。


 彼はちょうど二十歳で、オーウェンよりも一歳だけ年上だ。盾士系固有ジョブの『ホーリーナイト』であり、勿体ぶった気障ったらしい話し方をするが、別に貴族出身とかではない。田舎の村の農家の三男坊だ。


 ともかく、同意を得たオーウェンは、勢い込んで言う。


「だろッ!?」


「ああ、これなら低階層をわざと彷徨いて、成りたての初級探索者たちを手解きしたり、危ないところを颯爽と助けたりした方が、ずっとちやほやされる。餓え渇く承認欲求を満たすには、その方が良いという君の意見に賛同しよう」


「いやそんなこと言ってねぇよッ!?」


 エリオットのみならず、≪ホーリーナイツ≫のメンバーは全員が今言ったような活動を、実際に行っていたことが多々ある。


 ちやほやされるために探索者になる者は少なくないが、その度合いが振り切れているのがエリオットという男であった。


「そこのバカの話はさておき、だ」


 不意に声を発したのは、残る一人。


≪シルフィード≫のパーティーリーダーを務める女探索者で、名前はザラ。年齢はオーウェンと同じ19歳で、ジョブは弓士系固有ジョブの『ハイド・アーチャー』だ。


「クランに入ってから、アタシらはまともに迷宮探索もしてねぇ。トレント材はクランで買い上げるし、魔石なんかは普通に換金してると言っても、パーティーで活動するより収入が少なすぎるのは問題だぜ。もっと楽に大金稼げると思ってクランに入ったのによぉ」


 ザラは幼い少女にも見紛うような小柄な体格だが、目の下には常に濃いクマを浮かべ、目つきは鋭いというよりチンピラのようで、とにかく口が悪いのが特徴であった。


 だが、その発言にはオーウェンも同意だ。


 自分たちだって霞を食って生きているわけではないのだから、それなりの収入がないのは困る。


「だよなッ!?」


「ああ、これならマスターの野郎が溜め込んでるっていう≪氷晶大樹≫の素材を手切れ金代わりにパクって、クランを抜けた方が良いっていうお前の意見に、アタシも賛同するぜ」


「いやそんなことも言ってねぇよッ!?」


 盗みがバレた際、こちらに罪を押しつけようとしているのか、ザラのふざけた発言はきっちりと否定しておく。


 とはいえ、二人ともがクランを抜けることには前向きのようだ。


 手応えを感じたオーウェンは、「ならよ」と身を乗り出して続けた。


「お前らも俺らと一緒にクランを抜けねぇか? 17人も一気にクランを抜けたとなりゃあ、他にも追随する奴らが出て来るだろ。あのマスターに吠え面かかせてやろうぜ?」


「……」


「……」


 オーウェンの言葉に、エリオットとザラは互いに視線を合わせた。そうして無言の内に語り合うかのようにして――二人揃ってこちらに向き直る。


「まあ、私としてもそろそろ潮時だと思っていたしね。マスターに吠え面かかせるとかは興味がないが、クランを抜けることに異論はないよ」


「アタシらはお前に言われるまでもねぇ。貧乏暮らしするくれぇなら、元々抜けるつもりだったしな」


「よっしゃ、なら決まりだな!」


 二人の同意を得てオーウェンはにやりと笑った。


 その時、まるでタイミングを見計らっていたかのように女性店員がオーウェンたちにエールの入ったジョッキを人数分運んできた。


 オーウェン、エリオット、ザラの前にエールが置かれる。


 これはクランマスターに対して意趣返しができると喜んだオーウェンが、祝杯をあげるために注文したから――ではなかった。


「――え? 俺ら頼んでねぇけど?」


 まだ注文を忘れるほどに酔った覚えはない。


 三者三様に不思議そうな顔で店員を見つめ問い質すと、女性店員は少し離れたテーブルで、一人酒を飲んでいる人物を手で示して答えた。


「あちらのお客様からです」


「は? ……誰?」


 その人物は店内だというのにローブを身に纏い、顔を隠すように深くフードを下ろしていた。


 体格の良さから男だということは分かるが、それだけだ。


 店員が自分のことを紹介した声が聞こえたのか、件の人物はおもむろにフードを脱ぐ。


 そうしてこちらを振り向いた。


「「「ッ!?」」」


 その顔を見て、オーウェンたちは一斉に表情をひきつらせた。


 対する人物はかくんっと大仰に首を傾げてみせると、ニタリとした笑みを浮かべて、一言一言区切るように声を発する。


「オー、ウェン、くぅぅうん?」


 似合わないにも程がある猫撫で声に、背筋を悪寒が走り抜けた。


「おッ、お、おッ」


 反射的にガタリッと椅子を鳴らしながら立ち上がり、叫ぶ。


「お、親方ッ!?」


 そこにいたのは訓練されてしまったオーウェンが思わず叫んでしまったように、木剣工房≪木剣道≫の親方――ではなく、


「マスター!? なぜここにッ!?」


「あ、アンタッ、いつからそこに!?」


 エリオットとザラが叫んだように、彼らのクランマスター、アーロン・ゲイルだった――。



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