第100話 「娘が人を殺す前に何とかしなきゃ」


 スープを一匙口に含んだ瞬間、アーロンの反応は激烈だった。


「ん゛ん゛ん゛~~~~ッッッ!!!?」


 慌てて両手で口を押さえ、両目を見開き、頭をバッタバッタと激しく揺らしている。その様は、まるで苦痛に耐えるために地面を転げ回る少年の如し。


 それでも口の中の物を吐き出さないのは、対面からじっと視線を注いでくる相手がいるからだ。


 ダイニングに漂うピリピリとした緊張感。百戦錬磨のアーロンは、この緊張感が些細なきっかけで殺気に変わることを、鋭敏な感覚と直観によって察知していた。


 彼はしばらくヘッドバンギングを繰り返していたが、程なく、一向に減衰することのない苦痛から逃れるために、口の中の物を嚥下すれば良いと考えた。


 顎を反らして顔を天井に向けると――ゴクリっと、口の中の物を無理矢理に嚥下する。


 そして――、



 ゴガァアアアンッ!



 と、急に糸が切れたマリオネットのように、上半身をテーブルに突っ伏し――いや、衝突させた。


 物凄い音がしたが、痛みに悶えるでもなく、時折ビクンッビクンッと痙攣している。


 目が、回る。意識が、混濁する。体に力が、入らない。


 口の中に残る甘味と苦味と辛味と塩味と生臭さのマリアージュ。食感はザリザリヌチョヌチョと最悪で、口内にヘドロがへばりつくかのようだ。一つ呼吸をする度に胃の腑から立ち上る限界突破した臭みの余韻。一秒ごとに味覚が殺されていき、感覚が麻痺していく。


 クソまずい。


 だが、不幸中の幸いにも、死んでいく感覚によってショック死は免れることができた。


 しかし、



(胃の中が燃えるように痛いよぉおおおおおおッ!!)



 たった一匙である。


 たった一匙でこれである。


 アーロンは苦痛を訴えるために叫ぼうとしたが、激痛によって全身が防御反応でも起こしているのか、筋肉が硬直して叫ぶどころか指一本さえまともに動かすことができなかった。


 一方、テーブルの対面でその様子を見守っていたフィオナは、桜色に頬を赤らめ、恥ずかしそうにはにかんだ。


 それはとても可憐な笑顔で、もしも日常の他愛ない一幕で不意に目にしてしまったら、百年の恋に落ちるであろう可愛らしさだった。


 まあ、唯一それを目にできたかもしれない人物は、テーブルの上に突っ伏しているのだが。


 そして如何に可憐な笑顔であろうと、シチュエーションというのは大切なのかもしれない。死にかけている時に見たとしても、恋には落ちないだろうと思われる。


「も、もうっ、大袈裟よ、アーロン! でも…………そんなに、美味しかった?」


 どうやらアーロンの反応を美味しさのあまり感激していると判断したようである。


 確かに味についての感想は一言も述べていないが、普通なら察しようものだ。しかし、思い込みによって認識へのフィルターがかかっていると、人はこうなってしまうのだろうか?


「い、今まで……」


 テーブルに突っ伏したまま、力を振り絞るように、アーロンが震えた声で話し出す。


 ピークは過ぎたのだ。


 アーロンは驚異的な生命力で、何とか声を絞り出せるまでに回復した。


「今まで、食べた、もの、の、中で……一番……」


「い、一番って……ま、まあね! ふふんっ! 色々隠し味とかも入れたし、一流コックの技とかも使ってるからね!」


「いや……一番……クソまずい……!!」


 アーロンは正直に言った。


 お世辞がどうとか、相手に対する配慮がどうとか、そういう次元の話ではなかったのだ。



「――――は?」



 喜びにだらしなく笑み崩れた顔が、一瞬にして真顔に戻り、光を失った瞳でアーロンを見つめた。


 深淵の底から響いてくるような声音で、自慢の逸品を貶してくれたアーロンに問う。


「……どういう意味よ?」


「どうも、こうも……その、ウッ……まま、の……ぉえっ、意味、だ……!!」


「……貶すにしても、言いすぎじゃない? 嫌いな物とか入ってたなら、そう言いなさいよ?」


「嫌いな、物とかじゃ……ない……!! そういう、次元の、はな、しは……ぉえっ、して、ねぇ……!!」


「……じゃあ、何よ?」


「た、単純に……クソ、まずい、だろう、が……ッ!! お、お前、味、見とか……した、のか……?」


「味見……?」


 ふと、我に返る。


 そういえば、作るのに一生懸命すぎて、味見するのを忘れていたかもしれない、と。


 だが、味見が何だと言うのか。味見をしたから美味しく作れるとでも言うのか。


 断じてそんなことはない!!


 世の中には!! 味見をした程度では到底修正などできないような、そんな料理が実在するッ!!


 だが、まあ。


 フィオナは味見をしていなかったことを思い出し、自分の作った「超豪華なミネストロ」が、どれだけ美味しいか確かめてみることにした。


 これで不味くなかったら、アーロンを刺すわ――と決意しながら、スプーンで掬ったスープを一口含んで……、


「んん~~~~ッ!!?」


 当然のように悶絶した。


 そして翌日――。



 ●◯●



「――ということがあったのよ」


 商会の規模の割には慎ましやかなアッカーマン家のリビングで、アリサ・アッカーマンは最愛の娘の話を聞いていた。


 アリサは四十代前半のほっそりとした体型の女性だ。


 だが、気弱そうとか弱々しいという印象とは無縁で、むしろ女傑然とした雰囲気を纏っている。髪と瞳は茶色だが、誰が見ても気の強そうな性格と分かるキリッとした顔立ちをしていた。


 娘の髪と瞳の色は、夫であるクリフ譲りだが、それ以外は母親である自分に似たのだと思っている。


 そんな娘が今日、仕事を終えた夕方頃に突然やって来たかと思うと、非常に珍しいことに、相談に乗って欲しいと言ってきたのだ。


 普段、表向きは厳しく接しているが、最愛の娘の頼みだ。もちろん、アリサは二つ返事で引き受けた。


 そうしてアッカーマン家のリビングで、娘――フィオナの話を聞くことになったのだが……、


(ああ……神様……!! 私の育て方が悪かったのですか……!?)


 娘の話を聞き終えて、女傑と呼ばれるほどに胆力のあるアリサは、顔を青くして震えていた。


 寒さからではない。恐怖によるものである。


 はっきりとは口にしなかったり、恥ずかしそうに濁したりする場面もあったが、娘の話を要約すると、つまりはこういうことらしい。


 ――好きな男に手料理を振る舞った。


 これが今回起こった事件のあらましである。


 アリサは特に、フィオナがどんなふうに料理を作ったか、どんな材料をどれだけ、どの順番で投入したのか、根掘り葉掘り問い質した。


 その結果判明したのは、どうやら悪いのは娘の方らしい、ということ。


 娘は「人の料理をクソまずいだなんて、失礼しちゃうわよ!」とか何とか憤慨しているが、とんでもない話である。むしろ自分がそんな料理を出されたら、殺すつもりかとぶちギレてもおかしくない。


「ねえ、フィオナ……」


「なに、お母さん?」


「アンタは、そんな……残飯どころか産業廃棄物以下の劇物を、好きな人に、食べさせたの……?」


 どうしても信じたくなくて、もう一度、アリサは確認した。


 だが娘は頓珍漢な答えを返す。


「はあ!? べ、別に好きな人とかじゃないし!?」


「そこはどうでも良いのよ! アンタの態度見てれば分かるのよ!!」


 隠せていると思っているのだろうか? だとしたら、それはそれで問題である。


「っていうかお母さん! 何よ! 娘の料理を産業廃棄物以下の劇物って!! 幾らなんでも言いすぎでしょっ!?」


「言いすぎじゃないから……恐ろしいのよ……ッ!!」


 これが夢か何かであったなら、どれほど良いか。


 しかし、残念ながら、娘が人様に産業廃棄物以下の劇物を振る舞ったという事実は、もう覆しようがない。


 ならば、これ以上被害を拡大しないように、何とかするのが母親としての役目ではないかと、アリサの胸の奥で使命感がふつふつと沸き上がってきた。


(娘が人を殺す前に何とかしなきゃ……ッ!!)


 アリサは深く後悔した。


 夫と息子を一度に喪い、血みどろの権力闘争から逃れるために娘を連れてネクロニアの実家に戻ってきた後、アリサは悲しみを忘れるように家業の手伝いに邁進した。


 各地に出向いて新たな仕入れ先を開拓したり、ロックウェル夫人だった頃に得た僅かなツテを頼りに新たな販路を拡大したり、時にはライバル商会とバチバチにやり合ったりと、アリサはアッカーマン商会に多大な貢献をした。


 おかげで今では、商会長である兄を差し置いて「アッカーマンの女傑」として名が知れ渡るほどになった。


 だが、そのせいで、自分は母親としての務めを満足に果たせていなかったのではないかと自問する。


 娘が探索者なんてヤクザな道に進んでしまったことは、もう良い。だがせめて、普通の母親が娘に教えるようなことくらい、どれだけ忙しくても、娘がどれだけ嫌がっても、時間を割いて教えるべきではなかったかと。


 具体的に言うと、そう、料理のことである。


 確かに娘には、結局この歳になるまで料理を教えたことがなかった。それがまさか、こんな惨事を引き起こすなど、アリサは考えていなかったのである。


 アリサは教育の重要性を、痛いほどに再確認した思いだった。


 やっぱり人間には、教育が不可欠なのだと。


(神様……!! 娘の料理が、教育で改善できるレベルでありますように……!!)


 アリサがそう願った瞬間、ビシッと音がした。


 見ると、娘が飲んでいた紅茶のティーカップにヒビが入っている。


「あ、もう! お母さん、このティーカップ、安物掴まされたんじゃない? 何もしてないのに割れたわよ?」


「……それは、共和国から仕入れた高級品よ」


(神、様……?)


 何となく、アリサの中で信仰が揺らいだ。


「でも、ま、まあ……アンタの相談ってのは、分かったわ」


 しかし彼女はポジティブな人である。


 無理矢理に気を取り直すと、娘の頼みを端的に纏めた。


「つまり、料理を教えて欲しいってことよね?」


「うん、そう。ムカつくから、今度こそ美味しいって言わせてやりたいのよ!」


「そう、分かったわ。じゃあ、時間のある時に帰って来なさい。ちゃんと料理教えてあげるから。もちろん、ミネストロの正しい作り方もね」


 とにもかくにも、お相手はまだ死んでいないのだ。ならばまだ、巻き返しは可能であろう――と考えて、


(あら?)


 ふと、アリサは首を傾げた。


 それはちょっとした疑問。


(話を聞く限り、フィオナの作った料理は見た目や臭いからして、とても人間の食べるような物にはなっていなかったはずよ……それなのに、一口とはいえ、食べたですって……?)


 クソまずいという忌憚のない感想を口にするところから、相手はフィオナに恋愛感情は抱いていないと思っていた。


 だが、冷静に考えて、猛毒みたいな手料理を出されて口にできる人間が何人いるだろうか。


 少なくとも、母親であり、間違いなく娘のことを愛している自分であっても、そんなものは口にしない。


 にも関わらず、一口とはいえ、それを食べた……?


 はっきり言って、正気の沙汰ではない。では、正気ではない行動を人間が取る理由は……と考えると、一つの答えが浮かび上がってくる。



(もしかして、フィオナの好きな相手って……フィオナのこと、とんでもなく大好きなんじゃ……?)



 確か探索者としてのフィオナのお師匠様だということは知っている。名前も。


 だが、その人となりについて詳しいことは何も知らない。


(娘が婚期を逃す前の最後のチャンスかもしれないわ……。逃がすわけには、いかないわね……)


 ギラリ、と瞳を輝かせて。


 アリサはアーロン・ゲイルについて、詳しく調べてみることにした。






 ★★★あとがき★★★


 極剣のスラッシュも長いもので遂に100話に到達しました!

 これもいつも読んでくださる皆様のおかげということで、感謝を込めまして、100話突破記念SSを書いてみました。

 作者マイページの近況ノートより誰でも見れるようになっていますので、ご興味ありましたらぜひ読んでみてください!



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