第90話 「運命を覆す力になる」
アイザックの執務室にて。
エヴァが暴言にも近い捨て台詞を吐いて出て行った後のこと。
だから――ここからは、エヴァも知らない話だ。
「何も説明せずに、よろしかったのですか、旦那様?」
エヴァが出て行ったのとは別の、隣の部屋から繋がるドアを開いて、老年の男が執務室に入って来た。
老年と言っても綺麗に背筋が伸び、皺一つないタキシード姿はどこかプロフェッショナルな品格を感じさせる。きっちりとセットされた髪型に、良く磨かれた靴。頭の先から足の先まで隙のない着こなしをした老人だった。
彼の名はスチュワート。
キルケー家の家令である。
「ふんっ、何かを説明したところで同じだ。それに家の力がなければ、エヴァに大したことなどできん。放っておけ」
「ですが、お嬢様は次期当主候補ですよ? そろそろ御家の事情を明かしても良い頃では?」
「まだ候補に過ぎん。それに……感情に引き摺られるようでは、当主に据えるのは不安でしかない。……とりあえず近くにはガロンを置いておく。このまま様子を見る」
スチュワートの問いに機嫌悪そうに答えつつ、アイザックは執務机の引き出しを開けた。
「かしこまりました。しかし、これからどうなさるおつもりで?」
「そうだな。まずは……」
と、アイザックは引き出しから取り出した物を机の上に並べていく。
一つは手鏡。もう一つは装飾の施された瓶に入った、透き通った緑色のポーション。そして最後の一つはコットンだった。
「…………」
アイザックは手慣れた様子で瓶に入ったポーションをコットンに垂らすと、手鏡を使って自身の頭部――髪の生え際を確認しながらトントンとコットンでその辺りを優しく叩き、ポーションを頭皮に丹念に塗り始めた。
トントントントン……。
「…………」
その様子をスチュワートは沈黙しながら、路傍の石でも見るような遠慮のない視線を向けていたが、1分ほど経過した頃にようやく口を開く。
「申し訳ございません。私の言葉足らずでした。先ほどの質問は、クランを解散してこれからどうなさるのか、という意味でございます」
「ああ、そっちか……」
若干、上の空で返事をする主人に、スチュワートは続ける。
「ちなみに旦那様。もう何度申し上げたのかも忘れてしまいましたが、頭皮に治癒ポーションを塗ると髪が生えてくる……というのは、単なる俗説でございます。実際にはそのような効果はありません」
「私も何度答えたか分からないが、もう一度答えよう、スチュワート」
トントンとコットンで頭皮を叩きながら、アイザックは言う。
「こういったケアを小まめに継続することが、いずれ運命を覆す力になるのだ」
頭皮に関する遺伝的体質を運命と評するとは愉快な主人である。しかしながら愉快なのは最初の一回だけだ。「そうでございますか」と乾いた声で答え、スチュワートは主人が奇行を終えるのを待った。
それから数分、やっと頭皮の(無駄な)ケアを終えた主人が、スチュワートに向き直る。
「それで、クラン解散後の話だったか」
「はい。実際問題、今回の
「そうかもしれんが、
もしもここにエヴァがいたら、驚きに目を剥いてしまうような発言をする二人。
アイザックとスチュワート。
キルケーでもこの二人を含めた少人数だけは、秘密結社クロノスフィアのことも、
それは【封神四家】の当主が、少人数の腹心のみに明かす秘された歴史だ。
いや、そもそも【封神殿】の当主のみが入れる部屋で、【神骸】の封印が解かれたことは分かっても、どの家が担当する封印が解かれたかは分からない――というのも、真っ赤な嘘なのだ。
実際にはどの家が所有する【封鍵】を使って封印が解かれてしまったのかは、すぐに分かる。カドゥケウス家が黒幕であることなど、キルケー含めた三家の当主たちにとっては、当たり前の共通認識でしかない。
それでも≪迷宮踏破隊≫を組織してクロノスフィアに揺さぶりと攻撃を仕掛けたのは、三家にとってもクロノスフィアが倒すべき敵であるからに他ならない。
ただし、カドゥケウス家が黒幕であったことは公表してはならない事実であり、組織壊滅に成功すれば、適当な名とスケープゴートを立てて、事実を隠蔽する手筈であった。
≪迷宮踏破隊≫に参加した者たちには四家のいずれかが黒幕ではなかった事実に不審を抱かれるだろうが、そんなものは証拠さえ掴ませなければ、どうとでもなる。
今でこそネクロニアの市政は表向き【評議会】によって運営されているが、【封神四家】は世界で最も長く続く家門であり、今でもネクロニアの真の支配者だ。【評議会】の議席もそのほとんどは、四家の息のかかった者たちによって占められている。
過去にはクロノスフィアの黒幕を部外者に知られ、証拠まで掴まれたことがあったが、何の問題もなく闇に葬ってきた。
しかしながら、歴史上何度も繰り返し発生してきたクロノスフィアと、今回のクロノスフィアでは異なることもある。
スチュワートはその点を主人に問うた。
「ですが、騎士団の戦力では太刀打ちできないのも事実。【神骸】の四肢を【封神棺】より取り出されたことは過去何度か確認されておりますが、金色の瞳が発現するような人体改造や、今回の特異個体のような怪物が生み出されたことはありません。過去のクロノスフィアと比べても明らかに戦力が違いすぎます。外部の実力者を頼るのも一考に値するかと思いますが」
これまでは問題なかった。
これまでのクロノスフィアの戦力は【封神四家】の四騎士団によって壊滅できる程度でしかなく、多くは内々に処理することができた。
しかし、今回ばかりはそうはいかない。
より強力な戦力を備え、より巧妙に動くようになってしまった。
まだスタンピードが起こる前のことだが、アイザックたちもカドゥケウス家を監視し、クロノスフィアの拠点と思われる場所を騎士団で襲撃したこともある。その頃はまだクロノスフィアの行動も活発で、尻尾を掴むのは比較的容易だったのだ。
襲撃に参加した騎士たちは代々四家に遣える「事情を知る」者たちのみだったが、少数とはいえ精鋭だった。
四家が所有する秘蔵の魔道具や古代遺物などを惜しみ無く貸し与えていた彼らは、イグニトールでさえ何とか打ち倒せるほどの戦力を備えていたはずだった。
だが、襲撃は失敗する。
騎士たちは報告のために転移の魔道具で帰還した一名――ガロン・ガスタークのみを除いて、全員が死亡してしまった。返り討ちにあったのだ。
それは過去のクロノスフィアならあり得ないほどの戦力であり、だからこそ、多少のリスクを冒してでも外部の実力者に頼る一因になった。そうでもなければ、≪迷宮踏破隊≫を設立することなどなかったのだ。
そして予想外に≪迷宮踏破隊≫の戦力が高かったことが原因で、クランを解散することになった。
そもそも本当に迷宮を踏破できる可能性があるなどとは、考えてもいなかったのだ。
幾ら事実を隠蔽できる力があるとは言っても、さすがに【神骸迷宮】最下層で、【神骸】の封印が一部解かれているのを多数の人間に目撃されてしまうのは、少々問題がある。
その目撃者たちが、容易に暗殺もままならない強者たちとなれば尚更だ。
つまり、本当に迷宮を踏破などされては困るのだ。派手に活動してクロノスフィアを誘き寄せ、適度にその戦力を減らしてくれれば、それだけで良かった。それ以上のことなど望んではいなかったのだ。
しかし、スチュワートは主人に提案する。
「お一人だけでも、クロノスフィアに大損害を与え得る御方がおられますでしょう? あの方だけでも味方に引き込んでみられては?」
普通に考えればたった一人を味方に引き込んだところで、戦力差が覆ることなどない。
しかし、スチュワートの言葉にアイザックはすぐに一人の人物が思い浮かんだ。
ローガン・エイブラムスも大概常識外れの実力者だったが、こちらはそれ以上に常軌を逸した人物だ。
「アーロン・ゲイル……≪極剣≫か……」
最近では≪極剣≫の二つ名で呼ばれ、本物ではないかと噂されていた男。
そして昨日報告されたエヴァの話が本当ならば、正真正銘本物の≪極剣≫であった男。
その実力については、すでに疑いない。へレム荒野での一件はともかく、迷宮でのイグニトール戦、今回の「大発生」および特異体討伐関連においては、多くの目撃者がいる。
話に聞くだけでも凄まじい実力者だ。目撃者も戦闘報告も十分以上にあがっているのに、容易には信じがたいほどの。
スチュワートはアイザックの呟きを肯定する。
「はい。あの方ならば、剣聖殿の後釜に相応しいのでは? 契約魔法さえ受け入れていただけるのでしたら、これ以上はない戦力になると存じますが。それに、そのおつもりがあって≪極剣≫殿に『重晶大樹の芯木』を流したのでは?」
『重晶大樹の芯木』は、極めて貴重な素材だ。
その理由は、地上では絶滅したからとか、【神骸迷宮】でも現在は入手できないからとか、それだけが理由ではない。
『重晶大樹の芯木』のみならず、重属性を付与することのできる素材や古代遺物、再現遺物、重力魔法を発生させる魔道具などは、【封神四家】が積極的に買い占め、あるいは回収し、封印および破棄してきたという経緯がある。
なぜそんなことをしたのかと言えば――重属性というのは空間属性以外で唯一、空間魔法に対抗し、あるいは無効化し得る属性だからだ。
万が一のために四家が確保していた素材や遺物を除き、現存する『重晶大樹の芯木』やその加工品、重属性に関する古代遺物などは、世界中を探しても両手の数で足りるくらいしか残っていないだろう。
本来なら、ちょっとした頼みごとの対価に渡すことなどあり得ない。
にも拘わらず、それがアーロンの手に渡ったのは、アイザックがエヴァを通して渡るように仕向けたからだ。
それはなぜか?
アイザックは答える。
「≪極剣≫をこちらに引き入れる目的で渡したのではない。あれは……万が一の保険だ」
「と、申されますと?」
「口にするのも不敬ではあるが、もしかしたら、一度弑する必要が出てくるかもしれん。その時には彼を利用するつもりだ」
殺す必要があるのは誰なのか。
敢えて名前を出すことはなかったが、「弑する」などと表現した時点で、二人の間では明白だった。
「……重晶大樹の剣と≪極剣≫殿の腕ならば、可能とお考えですか」
「そう上手くいくかは分からん。しかし、四家の血族で助力すれば、可能性はある。ならば対抗手段は確保しておいた方が良いだろう」
四家の血族――つまりは空間魔法使いたちのことだ。
「だが、≪極剣≫に事情を説明するのは悪手だ」
「≪極剣≫殿が協力することはないと?」
「アーロン・ゲイルについては色々と調べた。以前のスタンピードで友人を三人亡くしているらしいな」
「はい。ですからクロノスフィアに対しては恨みがあるかと。その点を利用すれば、我々側に引き込むのは容易ではと考えますが」
「いや、過去のクロノスフィアのことを知れば、それがカドゥケウス以外によって組織されていたことを知れば、その憎悪が我々に向く危険がある」
今回のクロノスフィアはカドゥケウス家が黒幕だ。
しかし、前回のクロノスフィア……【明けの明星団】はアロン家が、【邪神教団】はグリダヴォル家が、そして【黄昏に顕れる者】はキルケー家が黒幕だった。
【神骸】を狙って暗躍する各時代のクロノスフィアは、その全てがいずれかの【封神四家】によって組織されているのだ。
この事実こそ、【封神四家】が絶対に表に出すことのできない、秘された歴史なのである。
「それはそうですが、そこまでは説明せずともよろしいのでは? スタンピードを起こしたのは当代カドゥケウスの長。事実はそれ以上ではなく、【神骸】の封印を維持するためにも【封神四家】を一家でも欠くことはできない。そう理解を求めてはどうです?」
全てを話さず、一部の情報だけを明かして自分たちの都合良く操れば良い。そう述べるスチュワートに、アイザックはアーロン・ゲイルに対して最近行った追加調査にて、新たに判明した事実を告げた。
「彼が≪極剣≫と呼ばれ始めた後、さらに詳しく身辺や来歴を調査してみた。それで分かったのだが……≪極剣≫は孤児上がりの探索者だと思っていたが、正確には少し違ったらしい」
「……スラム時代より前のことが分かったのですか?」
「ああ。彼を拾った孤児院の院長に接触して話を聞いた結果、別のことが分かった。浮浪児になる前、彼は帝国のローレンツ地方にいたらしい。今から17~8年前だな」
「17~8年前でローレンツ地方……というと、老龍ウルプストラのスタンピードですか」
――老龍ウルプストラのスタンピード。
老龍の死骸を喰らったことで、異常進化と異常繁殖を遂げたオークの群れによって引き起こされた、近年最大のスタンピード現象のことだ。
あれで住む場所を失った帝国人の多くが、難民として周辺諸国やネクロニアへ流れてきたことがある。
アーロン・ゲイルも、その難民の一人だったらしい。
つまり彼は、二度もスタンピードによって親しい人物を喪っていることになる。
「もしかすると、スタンピードに対する≪極剣≫の憎悪は我々が思うより強いかもしれない。そうなれば、果たして情報を制限したところで、カドゥケウスが無事で済むかどうか……。苛烈なことになるかもしれんし、それが【封神四家】全体に向くことなど想像もしたくないな。彼の扱いは慎重にするべきだ」
「……なるほど。納得しました。それは確かに、仲間に引き込むには恐ろしい存在ですね」
万が一の、最後の切り札として確保しておきたい一方、クロノスフィアの件からは遠ざけておきたい。それがアイザックの本心だった。
何しろ強すぎるのだ。
≪極剣≫を使えば頭を悩ませる問題が解決するかもしれない一方、自分たちをも滅ぼしかねない劇毒に転じる可能性すらある。
もしも≪極剣≫が本気で四家と敵対すれば、四家の騎士団を総動員しても倒しきれるか分からない。それがガロンからの報告だった。
アイザックは深い深いため息を吐く。
「私の代で再びクロノスフィアが活動を再開したのも不幸だが、≪極剣≫のような存在が出てきたのも不幸だな……」
「まあ、為政者にとって扱いに困るほどの圧倒的武力を備えた個人など、厄介以外の何ものでもありませんからね」
スチュワートは苦笑して言った。
本来なら考える必要などないバカバカしい悩みだ。統治者とその体制を一人で打倒し得る個人など、普通は現れるはずもないのだから。
ともかく気を取り直して、本題に戻る。
「では、クロノスフィアに対しては地道に騎士団を当てる以外、打つ手なし、ですか?」
「いや、ジルバ殿が遺した手駒がある」
「ああ……しかし、あの方は」
「分かっている。契約により自由には動けん。だが……」
と、アイザックは言った。
「【神前契約】にも穴はある。実際、すでにアロンとグリダヴォルには接触があったようだぞ?」
「それはそれは」
「……喜べ、ローガンも一緒だ」
アイザックはにやりと笑った。
「何とまあ。隠者殿と一緒に居られましたか。剣聖殿を巻き込むとは、隠者殿にしかできない力業ですな」
【封神四家】の秘密を話すには、話す前に契約によって行動に制限を与えるか、話した後に契約によって制限を与えるしかない。何の制約もなく秘密だけを話すという選択肢はリスクが高すぎて選べないのだ。
しかしどちらであっても契約魔法で制限を与える点に違いはなく、万が一のことを考えると話す前に契約魔法を行使する必要がある。
つまり、何も分からないのに一方的に言動や意思を制限されるということだ。
そんなことを受け入れるには、利害関係以上に強い信頼関係がなければ成り立たない。
そして残念ながら、ローガンを召し抱えていたとはいえ、ローガンとキルケーの間にそれほどの信頼関係はなかった。だからアイザックたちには、ローガンに秘密を打ち明けることはできなかったのだ。
しかし、長い付き合いのエイルは、それを可能にした。クロノスフィアに所属することにはなってしまったが。
「ああ。だがそのお陰で、使えるかもしれん手ができたな」
だが、それはローガンに対して、一部、アイザックたちの言動の制限が外れたことをも意味した。
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