第88話 「感謝してるのよ」


「…………大丈夫?」


「……あ、ああ……大丈夫だ」


 フォークを落としたまま固まる俺にフィオナが聞いてくる。


 声が震えそうになるのを抑えながら頷き、俺はテーブルの上に落ちたフォークを拾い上げてそっと置き直した。


 それからフィオナの様子を窺うと、極めていつも通りの表情で食事を再開していた。


 その様子は、先ほどの言葉は空耳だったんじゃないかと思うほどだ。


 だが、空耳ではない。俺ははっきりと聞いたんだ。フィオナが「今日の夕飯、私が作るから」と言ったのを。


(どういう……ことだ?)


 俺は会話の流れを思い出す。


 確か今日のパンはいつもより美味いという話から、「美味しいといえば」とフィオナが続けて、夕飯の件を切り出してきたのだ。


(どういう……ことだ!?)


 美味しいという感想からフィオナが夕飯を作るという連想には、どう考えても飛躍があり過ぎる。エヴァ嬢が転移魔法でランダムに転移先を指定したら、水深1000メートルの海底に転移してしまった、みたいな話だ(?)。


 なぜなら以前、フィオナが夕飯を作った時、それを食べた俺の悶絶っぷりに気分を害したフィオナ自身も、その料理を食べているからだ(ちなみに言うまでもないことだが、調理中、フィオナは一度も味見をしなかったらしい)。


 つまり、フィオナはきちんと自分の料理の味を認識しているはずなのである。


 それなのに――パンが美味しいという話から連想されるのはおかしすぎる。言ってみればそこには、【断界四方陣】で隔てられたくらいの断絶が存在するのである。


(つまり、最初から狙っていた……というわけか)


 特異体ノルド討伐の帰り道、正当な治療行為を行った俺に対して理不尽な怒りを抱いたフィオナにより、俺はフィオナの「今度夕飯作るから全部食べなさいよ」という約束を受け入れることになってしまった。


 その約束を、早くも決行するつもりなのだ。


 確かに全裸状態で尻や脚を揉みすぎた気はしないでもない。それは認めよう。無意識だったとはいえ、ほんの少しは俺にも悪いところがあったかもしれん。


 しかし、それに対する罰が死刑というのはやりすぎだろッ!?


 この状況をどう打破するべきか、真剣に考え込む俺に向かって、フィオナが言った。


「まあ、そういうわけだから、今日は食材とか、買い物に行ってくるわね」


「――――待て、フィオナ」


 淡々と処刑の準備を進めようとするフィオナに、待ったをかける。


「何よ?」


 首を傾げるフィオナの顔には、恐ろしいことに人を一人あやめることになる罪悪感など、欠片も浮かんではいなかった。


 人間とは己の正義を信じた時、どこまでも残酷になれるらしい……。


「お前、まだストレージ・リングが直ってないだろ」


 まずは牽制だ。今日は料理を作れないという正当な理由を突きつけて、処刑の日を先延ばしにする。


 フィオナは俺の言葉に思い出したように、今は何もない右腕を見た。フィオナのリングは現在、修理中なのだ。


「そういえば、そうね。確かに、ストレージ・リングがないと運ぶのに困るかも……」


「…………ッ!?」


 ぞっとしたぜ。


 そんなに大量の食材を買い込むつもりだったのか。


 俺はこの勢いを緩めずに、さらに続けた。


「それにまだ体調が万全じゃないだろ。今は無理せず休んでいたらどうだ?」


「料理くらい、大丈夫よ?」


「料理を甘く見るな!!」


 本当に料理を甘く見るな!!


「だいたい、そんなに急ぐ必要ないだろ? 料理を作るのは、体調が回復してから、いつだって出来るだろうが」


「それは……そうなんだけど……でも」


 と、俯き加減に視線を彷徨わせていたフィオナが、顔を上げた。


 気のせいか、その頬は微かに赤く上気しているようだった。


「アンタ、助けてくれたでしょ?」


「助けた?」


 言われ、考える。


 答えはすぐに分かった。俺がフィオナを助けたと言えば、迷宮でのことしかない。


「……ああ、そうか。ようやく理解してくれたか。そうだよ。全身隈無く撫で回したのも! ポーションを肌に塗り込んだのも! 尻や脚を揉んだり撫でたり開いたりしたのも! アレは全てお前を助けるためにしたことだ!!」


 やっと理解してくれたらしい。そう、俺は無実だ!


 晴れやかな気持ちで喜ぶ俺に、フィオナが叫ぶ。


「そのことじゃないわよッ!! ……いや、そのこともあるんだけど、そうじゃなくて! 最初に槍を防いでくれたのとか、魔力が切れて落下した私を助けてくれたのとか……その、色々あるでしょ」


「ん? ああ、まあ、そうだな」


 頷きつつも、俺は内心で首を傾げた。


 話の行方が分からない。感謝しているなら処刑は止めるべきでは?


 そんな俺に、フィオナはもじもじと恥ずかしがるようにして続ける。


「他にも……色々、看護してもらったりとか……修行つけてもらったりとか……アンタには世話になってるし……その、だから…………か、感謝してるのよ」


「ふむ……」


 やはり、分からんな。


 フィオナの感謝と処刑、この二つがどう繋がるんだ?


 フィオナは上目遣いでこちらを見上げながら、いまや顔全体を真っ赤に染めて言った。



「だ、だからぁ……! 感謝の気持ちとして、アンタに……その、夕飯を、作ってあげたいって、言うか……ほら、こういうのは、早い方が良いでしょ……? あんまり時間おかれると、アンタだって、嫌じゃない……?」



(――そういう、ことか……!!)


 俺はようやく理解した。


 俺に夕飯を振る舞うというフィオナの行為。俺はずっと、これを俺に対する怒りであり、罰であり、処刑だと考えていた。


 しかし、違ったのだ。


 フィオナの様子や言葉を聞けば、それが本心からのものだというのは分かる。


 つまり、フィオナは俺に対する感謝の印として、手料理を振る舞いたいと言っているのだ。


 怒りではなく、感謝からの行動であるならば……そう、何も問題はなくなる。フィオナの手料理を食べても大丈夫だということに――――いや、なるはずがないッ!!



(そんな、バカな……ッ!?)



 俺は恐怖していた。


 それも並大抵の恐怖ではない。間違いなく俺の人生の中でも十本の指に入るだろう絶望的な恐怖だ。


 感謝の印の手料理だからと言って、味が急に良くなるはずがない。というかほとんど変わらないだろう。


 だが問題はそんなことではない。自分の料理の味を知っているはずのフィオナが、それでもなお、感謝ゆえに手料理を振る舞おうとしていることだ。


(何だ……ッ!? どういうことだ……ッ!? いったい、何が起こった……ッ!?)


 分からない。


 フィオナの思考パターンが全く分からない。


 それとも何か? 以前、俺がフィオナの料理を食ったというこの記憶の方が間違っているのか? 幻覚か? 幻覚なのか? 捏造された記憶なのか? 本当はフィオナは料理上手なのか!?


 ――自分の記憶に確信が持てない……ッ!!


 ただ一つ真実なのは、「フィオナの料理」という概念に対して、俺の体が小刻みに震え始めることだ。


 必死に体の震えを抑える俺に、フィオナはこほんっと咳払いをして、恥ずかしそうにはにかんで、続けた。


「そういうわけだから、遠慮とかしないでよね」


 ――遠慮とかじゃねぇんだよぉおおおおおおおッ!!


 叫びたい気持ちを圧し殺して、俺は冷静に、だが力強く、言う。


「いや、ダメだ」


「――は? ダメって何がよ? ……まさか、私の料理を食べたくないってこと?」


 フィオナの瞳から光が消えた。ついでに表情まで消えた。口調には抑揚がない。


 ――何だ?


 この俺が、気圧されている……だと?


「い、いや! 勘違いするな! そういうことじゃない!」


 冷や汗を流しながら弁明する。


 俺は思考を全力で働かせながら、口を開いた。


「お前の感謝の気持ちは嬉しい……だがッ! 今は無理をしてほしくないんだッ!!」


「だから、料理くらい大丈夫だって言ってるじゃない?」


「――お前の体が心配なんだッ!!」


 理詰めでは無理だ。


 ここはもう、力押しでいくしかない。感情に訴えるんだ。


 恐怖ゆえに自分でも何を口走っているか分からないまま、俺はフィオナの目を鬼気迫る表情で見つめて言った。


「今無理をして体調を崩したらどうする!? お前の感謝の気持ちは分かった! それは受け取ろう! だが今はまだ無理をする時じゃないだろ!」


「えっと……え? だ、だから、大丈夫だって言ってるでしょ? その……心配、しすぎじゃない……?」


 再び顔を赤面させたフィオナに畳み掛ける。


「【神降ろし】を使った後の反動がどれくらい酷かったのかもう忘れたのか!? お前の体のことが一番大事なんだッ!! 俺に心配させないでくれ!! 頼むッ!!」


「……え? ど、どういうこと? 一番大事って……え? そ、それって……どういう、意味、なの……?」


「どういう意味も何もそのままの意味だろうが!! お前のことが心配なんだッ!! お前に万が一のことがあったらと思うと胸が張り裂けそうだ!! 分かるだろッ!?」


「ふぇ、え? だって、それ、え? ……え?」


 フィオナは耳まで真っ赤にし、手を無意味にわたわたと動かし、視線を彷徨わせながら疑問符を生産するだけの機械と化した。


 フィオナは混乱している。


 思考能力を失っている今がチャンスだ。


 俺は席を立つと、テーブルを回り込んでフィオナの横に立った。


「え? え? え? ――ええッ!?」


 混乱しながらこちらに向き直ったフィオナの両肩に手を置いて、真正面から見つめる。有無を言わさぬ強い口調で言った。


「フィオナ、分かってくれるな?」


「あ…………う、うん。……わ、わかった」


 フィオナはカクカクと頷いた。


 どうやら、分かってくれたようだ。俺は安堵して深く息を吐く。


 人間、本気になれば意外と何でも出来るもんだな。これはパーフェクトコミュニケーションだったんじゃないか?



 ●◯●



 朝食の後。


 自宅のアトリエ。


 フィオナはまだ作業を再開できる状態ではないので、アトリエの中には俺だけだ。


「どうにかこのまま、有耶無耶にできないものか……」


 作業台の前で仕上げ直前の黒耀を握り、ぼんやりと考える。


 珍しく作業にも身が入らない。


 今回は何とか誤魔化すことができたが、フィオナの体調が万全になった後も誤魔化し続けられるとは思えない。


 ゆえに、何か理由が必要だ。


 フィオナが料理をしている場合じゃなくなるような、そんな理由が……。


「何か大事件でも起こらねぇかな……」


 などと、益体のないことを考えながら黒耀の仕上げに取り掛かろうとした時だ。


 ――カンカンカンッ!


 と、大きな音がした。


「――あん?」


 作業の最中じゃなかったから聞こえたが、これは玄関のドアノッカーを叩く音だ。


 つまり、来客らしい。


「誰だ?」


 訝しく思いながらアトリエを出て玄関へ向かう。


「はい、どちら様?」


 言いながらドアを開けた。


 すると、そこにいたのは――、


「おはようございます、アーロンさん。朝早くに申し訳ないのですけれど、少しお時間いただいてもよろしいかしら?」


「エヴァ嬢……」


 妙に硬い表情を浮かべたエヴァ嬢がいた――のだが、来客はエヴァ嬢だけではなかった。


 そこにいたのはイオ・スレイマンにガロン・ガスターク、グレンダ・フォン・ローレンツを含めた四人だったのだ。


「ずいぶん珍しい組み合わせだな。……何かあったのか?」


 この四人が一緒に俺の家を訪ねてくるとは、少々予想外の出来事だ。どういう集まりなんだ、これ?


 いやまあ、メンバーから考えるとクラン関係の何かだとは思うが……。


 思わず目を丸くして問うと、エヴァ嬢は「はい」と硬い表情のまま頷いて、言った。


「大変なことが、起きてしまいましたの」


 ――と。



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