第86話 「未来が黒く染まっていく」


 ――染まっていく。


 ――未来が黒く染まっていく。



【神骸迷宮】50層――最下層に繋がる一歩手前の領域、無窮の空間に、「  それ」はいた。


 狭く、そして光の差さない暗闇の中、まるで羊水に浮かぶ胎児のように手足を丸めて宙を揺蕩いながら。


 夢現のごとき曖昧なる意識にて、口の端に微かな笑みを浮かべて「  それ」は観察していた。


 見る者に優しげな印象を抱かせる両目は、緩く閉じられている。


 だから観察しているのは肉眼で見えるものではない。


 それは本来なら形なきもの。


 それは本来なら見えざるもの。


 それは本来なら見てはならぬもの。



 ――【可能性知覚】



 と、かつての人類が呼んだ力で、時間という曖昧な概念に隔てられた「未来の可能性」を見る。


 だが、未来は常に流動的で定まりなく、遠くなればなるほど正しい光景を見ることはできなくなる。それどころか無数に存在する未来のいずれに辿り着くのか、ほんの3日後でさえ予測するのは至難だ。


 だが、それでも構わない。


 時間なら幾らでもあった。


  それ」は自らが望む未来を引き寄せるために、そこへ繋がる未来を探し出していく。


 ――と。


 幾つもの未来が、黒く染まっていくのを知覚した。


 求めるものを定義したならば、【可能性知覚】の精度をより向上させるため、視覚情報は単純化した方が良い。より可能性の高い未来を見つけたならば、改めてそこへフォーカスし、世界を見つめ直せば良いのだから。


 そして単純化した可能性は、光という形で認識できる。


 自身が求める可能性は白く輝く光に。


 それと正反対の可能性は光のない闇に。


 光と闇。色も形もない単純な「視界」の中で、存在した幾つもの未来が、黒く染まっていくのを知覚する。


 それはその未来において、可能性が失われた――ということ。


 まるで死の暗黒を覗き込むかのように虚ろな空洞を晒す可能性から、「視線」を逸らす。


 見たくないから、ではない。


 気にする必要がないと、理解しているからだ。


 可能性が失われたのは、迷宮に放たれた自身の分体たちが討伐されたからだ。自分の手足ともなる分体を減らされたことで、その分だけ未来は少しずつ閉じていく。それは当然の帰結であり、あるいは元々予定していたことでもある。


 自身が生み出した幾多の分体――――否。


 正確に言えば、自身の分体がさらに生み出した幾多の分体――と言うべきだろう。無論、自分が生み出した分体たちも、何体か混じってはいるが。


 監視者どもの目を欺くため、入れ替わった分体を生み出すより前に、作り、迷宮に解き放った分体たちのことだ。


 ともかく。


 自身の分体と、分体が生み出した孫分体。それらが滅ぼされることで、可能性の枝葉が剪定されていくのだ。


 だが、自身がここに存在している限り、全ての可能性が失われることはない。


 そして自身がここにいる限り、現代の人の身で手を出すこともできない。


 ――とはいえ。


「――――?」


 それは僅かに小首を傾げた。


  それ」を生み出した者たちの目を欺くため、強大な力を与え、さらに【神前契約テスタメント】による縛りを押しつけた分体。自身を変質させ、全く新しい存在とすることで契約から逃れ、力の多くと共に脱ぎ捨てた本体の抜け殻。


 仮に何処かの誰かに倣って「偽天使」と呼ぼうか。


 偽天使の生み出した孫分体たちは、確かに「  それ」や偽天使に比べれば弱い。だが、この時代の人間たちに比べれば遥かに強く、強靭な生命力を持つはずであった。


 ゆえに、孫分体たちを倒すのは容易ではない。本来ならもっと多くの被害を受けて当然であった。


 ――にも関わらず。


 発見から凄まじい早さで駆逐されていく。


 全てを光と闇という形に単純化した【可能性知覚】では、何が起こったのかは分からない。しかし、全ての分体は精神によって繋がりを維持していた。


 滅ぼされた分体たちから、記憶という名の情報をサルベージしていく。


 そうして理解した。


 孫分体を狩る者たちがいることに。


 孫分体を狩れる者たちがいることに。


「――――」


 この時代にも強者は存在するようだ。しかし、問題はない。


 迷宮によって再現された紛い物であるとはいえ、この【神骸迷宮】最強たる守護者の体――【原初の巫女ルシア】が持つ【可能性知覚】は強大だ。自身の死の未来を事前に知覚し、回避できる「  それ」にとっては、もはや敗北することさえ難しい。


 あとはただ一つ。


 かつての自分が封印される間際、この世界に残した「バックドア・ジョブ」さえ手に入れてしまえば、勝利は確定する。


 ――すでに見えているのだ。


 自らが「バックドア・ジョブ」を手に入れる可能性は、近い未来に。


 そして――。


「――――!!!」


  それ」は思わず体を震わせた。歓喜に。


 たった今、自分が生み出した分体である偽天使が、滅ぼされた。


 精神の繋がりから偽天使の記憶を吸い上げ、それを確認する。


 その中には、確かに「バックドア・ジョブ」を持つ存在が映し出されていた。――のみならず、まるでかつてのルシアを彷彿とさせるような才能まで所有しているらしい。


 驚いたことにその存在は、自身の死の間際、「バックドア・ジョブ」に設定された最終スキルに覚醒してみせたのだ。


 ――なんと素晴らしい才能!! なんて素晴らしい肉体!!


 守護者として作り出された仮初めの肉体から、あの才能溢れる体に乗り換える。


 それは何とも容易なことに思えた。


 何しろ最大の難関は、この時代に「バックドア・ジョブ」が発生するかどうか。ただそれだけだったのだから。


 ――何たる幸運か。


 否。


 これは幸運などではない、と思い直す。


  それ」は確信する。


 やはり人類は求めている・・・・・・・・のだ。救済を。今もに。


 だからこそ、あの存在をこの時代に遣わしたに違いない。これは運命だ。


 ああ、ああ……!!


 分かっているとも。一人残らず救って殺してやろう。愛しい人類君たちを永遠の安寧で満たすために。


  それ」は歓喜に身を震わせながら、さっそく見つけたばかりの「バックドア・ジョブ」の持ち主――新たなる「巫女」のもとへ転移しようとして。


 ふと。


 気づいた。


「――――?」


 その未来が、黒く染まっていくことに。


 ――なぜ? 何が?


 疑問に思い、一つの未来へ視界をフォーカスする。


 可能性は光と色と形を備え、未来の世界を映し出す。


 そうして、見た。自らに訪れる消滅の未来を。


 ――なぜ? 何が?


「巫女」を手に入れた自分は、世界で最も完全な存在になったはずなのに……。


 疑問に思いながら、他の可能性を探す。「巫女」の肉体を手に入れた未来を、片端から覗いていくと――。


 消滅。消滅。消滅。消滅。消滅。消滅――。


 どの未来でも必ず、一人の男によって殺される未来が見えた。


 憎悪と憤怒に駆られた表情で、涙を流しながら剣を振るう男。


 自らの肉体を【神体】に変え、かつての英雄たちでも行わなかったような、無茶苦茶な強化を自らに施して戦う男。


 結末は全て同じだ。


 男が「巫女」の肉体を「  それ」ごと滅ぼしたことで、「  それ」の意識は消滅する。


 戦いを終えた男は、常軌を逸した強化の代償に、肉体を塵と化して滅びる。およそ人間の死に様とは思えない、凄まじい死に方だった。


 ――何だ、こいつは……?


  それ」は思わず動揺した。


 ある意味で、神は不滅である。人類が存在する限り、滅ぶことは決してない。


 しかし、かつて「邪神」と呼ばれた「  それ」は違う。


  それ」が滅ぼされたところで「最高神」としての神格は「神界」において再生されるだろう。だが、再生された神格はもはや「  それ」ではない。人類の真実の願いを受けて変質した今の自分は、永遠に喪われることになるのだ。


 とはいえ、だ。


 普通、神を宿した依り代を滅ぼせる人間など、いるはずがなかった。だから本来ならば、それはあり得ない未来だ。


 ――それなのに、何だ、こいつは……?


 ――おかしい。何かが、おかしい。


  それ」は【可能性知覚】により、男の可能性を探る。


 可能性とは未来ばかりではない。すでに通り過ぎた過去、あるいは選択されなかった世界も可能性であり、【可能性知覚】はそれらを知覚することができる。


 男の過去、あるいは辿る可能性があった世界を見る。


 そして再び驚いた。



 ――なぜ存在している・・・・・・・・



 男の可能性は、【神骸都市ネクロニア】において最近発生したスタンピードで、ほぼ確実に潰えるはずだった。


 いや、そもそもスタンピードまで生き延びる可能性すら、異様に細い糸のようにしか知覚できない。それは普通ならば、それ以前に死んでいる可能性が極めて高いことを意味していた。


 あまりにも少なすぎるのだ。


 この男が現在まで生き延びるという可能性が。


 その僅かな可能性をたとえるなら、言ってみれば「隕石が頭に当たって死ぬ」というような、可能性は確かにあれど、現実的には考慮するに値しない、極々僅かな確率。それを短い人間の人生において、何度か潜り抜けているのだ。


 ゆえに、この男のような存在はあり得ない、と。


 すでに死んでいなければおかしい、と。


  それ」から見れば、男は夢のように儚く、幽鬼のように曖昧な存在だ。にも拘わらず、男は「  それ」の未来に強烈に干渉してくる。


 男には、何の特別な因果も見えはしない。


 ただの、何の変哲もない人間。


 それどころか、ジョブ・システムにおいては極めて才能に乏しい、と判断されるような存在。


 そのはずなのに、何かに干渉されているようにしか思えない不自然さを覚える。


 今、生きているはずがない人間。


 たとえるなら死人。たとえるならアンデッド。たとえるなら幽霊。


 存在するはずのない存在が、「  それ」の未来の可能性を黒く染めていく。


「――――!!!」


 その不気味さに、身震いする。


  それ」は自己の保存を優先するために、今すぐにでも男の存在を抹消したいと思った。


 死の危険から逃れるための、何の混じり気もない、極めて純粋な殺意を抱く。


  それ」を偶然から生み出したと思っている者たちが、「  それ」のことを『イプシシマス』と呼んだが、冗談ではない。


 ――もしも「死」が具現化したのなら、それはこの男のように理不尽な存在なのだろう。


  それ」は必死に探した。


「巫女」の肉体を手に入れることは簡単だ。しかし、自分が滅ぼされるのでは意味がない。


「巫女」の肉体も手に入り、男も死ぬ未来が必要だった。



 ――そして、見つける。



 歓喜した。


 それは難しい未来ではなかったから。


 何のことはない。「  それ」が何かしなくとも、その未来は自然と転がり込んでくるのだ。


 なぜならば。


  それ」と同じ未来を求める存在が、まだ他にもいたのだから。


 なるほど、と理解する。


 他者の手のひらの上で踊らされていたのは愉快なことではないが、未来の可能性を見通すことでようやく知ることができるほど、それは巧妙に動いていた。だからこそ、そこへ至る未来への道筋は強固だ。


 見事、と素直に称賛しておこう。


「――――!!」


 晴れやかな笑みを浮かべ、「  それ」は翼を広げた。


 6対12枚の、純白の翼を。


 翼が折り畳まれて繭のような球体となっていた狭い空間――翼の内側から、「  それ」が姿を現す。


 もしも偽天使を目撃した者がその場にいたら、驚いたことだろう。


 偽天使のように赤黒い液体の化け物ではない。しかし、その形だけは偽天使のものと瓜二つだから。


 若く美しい女性の姿。白く滑らかな裸身が「下」からの光に照らされ、輝く。顔立ちは人形のように整いながらも慈母のごとき優しげな印象を抱くほど柔和だ。月の光を紡いだような銀色の長髪が、風もないのにたなびいた。


 銀色の睫毛に縁取られた両目を開ける。


 慈しむような感情を宿した金色の瞳が、「眼下」を眺めた。


 そこには青く輝く、巨大な、とてもとてもとても巨大な球体がある。全ての生命を育む、惑星の姿だ。


 もちろん、それは本物ではない。豆粒のようなほんの一部を除いて、迷宮が生み出した触れることもできない虚像に過ぎない。


 だが、それでも「  それ」は慈しむように眺めた。


 遥か空のさらに上、惑星全体を一望できる高さから。


 いつの日か、そう遠くない未来、この虚像こそが人類の楽園になるのだから――。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る