第75話 「死ぬ時は見えない」
――時間は少し遡る。
ノルドが大爆発を起こし、その肉体が消し飛んで、寄生していた赤黒い半液状の魔物が姿を現した。
足場もなく、風もなく、空中に静止していたソレは、フィオナたちが見上げる前で見る間に形を変えていった。
そうして変化したのは、6対12枚の翼を持つ女性の姿だ。その造形は美しく、神秘的で、女神か天使とでも呼びたいほどだが、赤黒い液体が形だけを模したような、不気味な姿でもあった。ただ本来両目のあるべき部分だけが、眼球の代わりとでも言うように、金色の光を宿している。
最初に我に返ったのは、アーロンだった。
アーロンが牽制のように放ったオーラの砲弾が赤黒い天使――偽天使をあっさりと吹き飛ばす。
しかし、それで倒せたと思った者は誰もいなかっただろう。攻撃を放った当人もすぐに走り出し、イオに向かって叫んだ。
すぐさまアーロンの意図を汲んだイオの指示により、その場の全員が戦闘態勢に入る。
宙に浮かぶ偽天使を逃がさないよう、それぞれが攻撃を放って弾幕による檻を形成し、戦いは始まった。
偽天使が最も顕著に反応を示したのは、アーロンの攻撃だ。それも特定の攻撃に対しては過敏なほどの反応を示し、その全身から雷撃を四方八方に放ったり、手のひらから幾条もの雷を放って確実に迎撃する。
戦いはしばし続く。
ノルドに寄生しているだけかと思いきや、偽天使は明らかに強かった。
雷魔法を使い、宙を自在に飛翔し、攻撃を受けて体が消し飛んでも、すぐさま再生――いや、復元する。おまけに液状の体ゆえに、ノルドのように拘束することさえ困難だ。
ことによると特異体ノルドよりも厄介に思えるほどの、強さ。
これほどの強さを持つならば、そもそも他の魔物に寄生などする必要がないだろうに。その事実が、より一層偽天使の不気味さを強調する。
どこか不吉な予感を覚えながら、フィオナも上空へ向かってオーラの刃を飛ばし続けていた。
そして――。
「――――ッ!?」
不吉な予感が確信へと変わったのは、アーロンが宙に跳躍した、その瞬間だった。
――死の気配。
フィオナが持つ特異な力――【予見】
それは自身や親しい人物に迫る危険を、黒い靄という形で知ることができる。その能力が、戦うフィオナの視界の端で、これまでにないほど明確な危機を訴えてきた。
死が迫っているのは自分――――ではない。
フィオナは視線を巡らせて、黒い靄の中心を見た。
(エヴァ)
結界の外側。
自分の友人であるエヴァ・キルケーがいるはずの場所が、遠くからでも分かるほど大量の「靄」によって、真っ黒に染まっていた。
(――――)
思考は一瞬、言葉にはならない。
フィオナは素早く戦場全体を確認した。
エヴァ以外に、黒い靄の見える人間はいない。それだけ確認すると、次の瞬間にはもう走り出していた。
戦場に背を向けて、エヴァのいる方へ。
悩んでいる暇などなかった。フィオナはこれだけ「濃い靄」を見たことがない。フィオナが知覚する靄の濃さは、危険の大きさのみならず、その危険が訪れるまでの時間をも表す。すなわち靄の色が濃いということは、【予見】が示す死の瞬間までの時間が、短いことを意味していたのだ。
誰かに事情を説明し、助けを求めている時間など、到底ありはしなかった。
それに、どう説明しろと言うのだ。結界が破られるかもしれない、などと。
全力で雪上を駆けながら、エヴァを覆う黒い靄から伸びていた、これまた黒い靄で出来た、一本の筋を思い出す。
その筋の先とはすなわち、エヴァに死をもたらす何かがいる場所だ。それは間違いなく結界の内側であり、空に浮いていた偽天使から伸びていた。
これが示すのは、偽天使が何らかの方法で結界の外に出て、エヴァを殺すという可能性だ。
【断界四方陣】という凄まじい空間魔法に対する信頼は、『賢者』と呼ばれるイオ・スレイマンでさえ厚く、それは盲目にも近いものがある。
ゆえに、結界が破られる可能性があると説明したところで、信じてくれるはずがなかった。
唯一、アーロンだけは信じてくれそうな気もしたが、上空に跳んだアーロンに事情を説明している時間さえなかったのだ。
だから、一人で駆ける。
一人で駆けながら、あの偽天使を止めるのは自分一人では無理だとも悟っていた。それでも時間を稼げば、誰かが、アーロンが、助けに来てくれるだろう。
ただし、それまでに自分は死ぬかもしれないが。
(――だから何よ)
思い出す。
つい昨日の夜だ。
無駄に大きいベッドの上で、子供のように不安そうな顔をするエヴァに、抱き締めて言ったのだ。
「何かあっても私が守ってあげるわよ」――と。
その言葉は嘘ではない。その言葉は軽くはない。その言葉は単なる理想でもない。
「本当に……!!」
来た。
走るフィオナを追い抜いて、上空を偽天使が飛翔していく。
偽天使はすぐに結界の四隅、その一角、エヴァのいる場所まで辿り着いた。
微かに両目を見開いているエヴァの姿が見える。偽天使が右腕を振り上げた。その拳に凄まじい魔力が集束しているのが感じられた。つまりは魔法を叩き込み、結界を破ろうとしているらしい。
理性は判断する。
無理だ、と。
何の魔法を使おうとしているのか知らないが、あれほどの魔力で発動される魔法を持ってしても、【断界四方陣】は破れない。
だが、次の瞬間、結界の向こう側でエヴァが、何かに気づいたように愕然とした表情を浮かべた。
直後、偽天使の右拳が結界壁を殴りつけ――。
信じられないことに、呆気なく、冗談のように、巨大な結界を打ち破ってしまった。
粉々に砕けて降り注ぐガラスのように、結界を構築していた光が破片となって落下し、キラキラと光の粒子へ分解され、宙に溶けて消えていく。
滝のように降り注ぐそれらの向こう側へ行こうと、偽天使が再び動き出す。
そこへ――。
「間に、合っ、たぁあああああッ!!」
フィオナは最後の一歩を跳躍した。
偽天使は地上3メートルほどまで降りて来ていた。それくらいならば余裕で辿り着ける。
宙を飛翔しながら左右の剣を振るうためにくるりと体を回転させて。
「――はぁああああああああッ!!」
剣舞姫スキル――【終閃の舞】
幾撃もの斬撃を繰り出す。
オーラの刃は偽天使を背中から容易く斬り裂き、バラバラにして吹き飛ばした。
宙へ散った偽天使の体が浮遊し、一点に集まって行くのを邪魔することも見ることもしない。偽天使が当然のように復元するだろうことは、最初から分かっていた。
フィオナは着地すると結界の残滓が生み出した光のヴェールを潜り抜け、エヴァの前に立つ。
そうして、ニッと笑みを浮かべた。
「助けに来たわよ。約束通りね」
「フィオナ……!!」
呆然とした顔で見つめ返すエヴァから視線を逸らし、背後を振り向く。
エヴァの周囲には他に8人の護衛がいる。たとえ自分がやられても、他の誰かが駆けつけるまで耐えてくれるだろう。
――いや、耐えてくれるのは間違いない。
そのことをフィオナはもう「知って」いる。自分がここに辿り着いた時点で、エヴァを覆う黒い靄が晴れていくのを確認したからだ。
あとは、自分のことだが――。
(私には……ない?)
不思議と、自分に纏わりつく靄は見えなかった。
もしかしてと思い、遠く、空を見上げる。
そこには今までに見たこともないほど必死の形相を浮かべて宙を駆ける、アーロンの姿があった。
だが、その距離は遠く、到底間に合いそうもない。偽天使も体の復元を終え、すでにこちらに近づいて来ていた。どうやら自分たちを見逃すつもりはないらしい。事前調査の報告では生き延びるために逃げることを最優先していたというのに、不自然なことだった。
しかし、その謎に思考を巡らせる時間はない。
(そっか……)
閃きのように思い至る。
この絶望的な状況にある自分に靄が見えないのは、もしかしたら、死が確定しているからかもしれない、と。
【予見】の未来は覆すことができる。しかし、そのために著しく視界を塞ぐような黒い靄が見えていたら、逆に危険だ。だから本能が、見えなくしているのでは、と。
以前から思ってはいたのだ。もしも自分が死ぬ時に、おどろおどろしい黒い靄に包まれていたら、嫌だな、と。
だから、死ぬ時は見えないのでは、と――フィオナはそう思った。
そう思って、遠くのアーロンを見上げて笑う。あの必死な表情が、自分のためのものだと、分かったから。それが嬉しかった。
(死ぬつもりは、ないわよ)
剣を構える。
すでに間合いの内にある偽天使が、右手を振り上げた。偽天使の両腕は剣のように変化しており、さらになぜか、黒く変色している。
偽天使が右手の剣を振り下ろす。フィオナはそれを、剣を斜めにして受けた。
――【パリィ】
剣に纏わせたオーラに偽天使の一撃が衝突し、ギャリンッと凄まじい音を立てた。
「――――ッ!!?」
受け流す。受け流した。だが、あまりにも重い一撃に体が僅かに流される。【パリィ】で弾き返すどころか、受け流した剣の柄から、手を離さなかったのが奇跡だ。まるで超重量の物体を高速で叩きつけられたかのような一撃だった。
「まだ――ッ!!」
流れるように偽天使が左の剣を振るう。
宙を泳ぎそうになる体を必死に引き留めて、今度の一撃も剣で受ける。金属が削られるような大きい音。【パリィ】。どうにか受け流した。
「あっ――――」
だが、その代償は致命的だった。
凄まじい衝撃を受けて体の軸がブレる。重心が崩れる。地を踏み締める感覚が失われて、体が宙を泳ぐ。つまりは転びそうになる。
自分が転んでいく瞬間が、ずいぶんとゆっくりに感じられた。偽天使はすでに次の一撃を振りかぶっている。姿勢の安定していない自分に、これは受けられない。
――――詰み。
もしも。
もしも【終閃の舞】を使っていなかったら、積み重なったバフによって強化された体だったら、こうはならなかっただろう。しかし、偽天使を斬り裂いて復元するまでの僅かな時間を稼ぐような攻撃は、【終閃の舞】を使わなければ不可能だった。エヴァを助けるには、そうする必要があったのだ。
だからこの結果に、悔いはない。
フィオナは自分へと振り下ろされる偽天使の剣を見つめて。
――――嘘だ。
悔いはないなど、真っ赤な嘘だった。
(もっと一緒に、居たかったな――)
●◯●
フィオナ・アッカーマンはアーロン・ゲイルの指導の下、その実力を大きく向上させた。
それは間違いなく「成長」だ。
そして「成長」は、ジョブの力を解放する条件でもある。ただし、特定の固有ジョブが要求する成長度合いは、通常なら辿り着けないほどに高い。それは神代の英雄たちの真の技を受け継ぐに足る能力を求めているからだ。
十分な才能と神代の英雄たちに匹敵するほどの成長。
この両者が揃って、初めて固有ジョブは真の力を解放する。
剣士系固有ジョブ――『剣舞姫』
文字によって記録された歴史上、そのジョブを「最後」まで成長させた者はいない。
だが、その瞬間、自身へと振り下ろされる偽天使の剣を見つめるフィオナの左手、その甲に、黒い紋様がすうっと、一瞬にして、浮かび上がった。
それが意味するのは成長の限界――『限界印』
ただし、フィオナのそれは才能の限界を示すものではなかった。
『剣舞姫』というジョブに設定された、最後のスキルを修得した証だった。
(あ――――)
スキルを修得する時は、いつもそうだ。
知らないはずのスキルの名前、知らないはずの知識、知らないはずの技術。それらがあたかも天からもたらされた啓示のように、気がつけば自分の中にある。
フィオナはこの瞬間、修得したばかりのスキルが、どんな力を持つスキルなのかを理解していた。
だから、悟る。
自分に「靄」が見えていなかったのは、単に死の危険がなかったからだと。
刹那を細切れにしたような意識の中、フィオナは使った。
スキルを。
それは動く必要すらない。ただ、意識で願った。
『剣舞姫』最終スキル――――【神降ろし】
神よ来たれ、と。
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