第43話 「何かあったのか?」
「――お! 見えてきたぞクロエ! ネクロニアだ!!」
「ふんんッ、ふべぇッ! うッ、べえぇッ!!」
スラムの一軒家から遥か遠い荒野へと転移させられてから5日後、俺とクロエはようやくネクロニアが視界に収まる距離へと帰って来ることができた。
「よっと!」
「ふんぐぅううッ!!」
小高い丘の上に立ち止まり、5日振りのネクロニアを眼下に収める。
さすがに懐かしくは感じないが、ようやく帰って来れたという安堵があった。
「ふぅうっ、ふぅううっ……!! よ、ようやく、この地獄が終わるんですぅ……っ!!」
「地獄とは大袈裟だな。クロエはほとんど、俺に背負われてただけだろ?」
俺に背負われ、両腕を強く首に回しているクロエが、息を荒くしながら涙声で言う。
だが、そのセリフはどちらかと言うと、本来は俺が言うべき言葉じゃないか?
「も、もう二度とっ、アーロンさんに背負われて移動するのは御免ですぅっ!!」
しかしクロエは、真に迫った様子でそう言った。
というのも、ここまでの移動手段がクロエにとっては少々負担が大きかったらしい。
あの男どもに襲われた荒野。
俺は何処にある荒野か全然分からなかったのだが、幸いにもクロエが地理を把握していた。
転移陣に籠められていた魔力量から転移可能距離を割り出し、その域内にある荒野は一つしかなかったので、間違いなくここだ、というのがクロエには分かったらしい。
ネクロニア周辺三国の内の一つ、イーリアス共和国内にあるヘレム荒野。それが、あの荒野の名称だったようだ。
距離的にはネクロニアから馬車で一月といった距離にある。直線距離を進めばだいぶ距離は短くなるのだが、ヘレム荒野からネクロニアの間には険しい山が幾つかあり、普通に進むにはそれを迂回したりしなければならないため、移動するには一月という時間がかかるらしい。
「――でも仕方ないですねぇ。ここは諦めて、ゆっくり帰る他ないですぅ。もしくは共和国の首都まで行けば、飛行船に乗って帰ることもできますけど……どっちにしますかぁ?」
荒野でクロエに場所を聞いた時、陸路で帰るか空路で帰るかという選択肢があった。
当然、空路の方が移動速度は速いが、飛行船の発着場は一番近い場所で共和国の首都にあるのだとか。ちなみに首都はネクロニアとは反対方向だ。
おまけに聞いてみれば、空路とはいえ山岳付近の気流は激しく、飛行型魔物の生息地帯なども迂回しなければならないため、首都に向かうための時間のロスを考慮すると、どちらで帰ってもあまり大差はないのだとか。
1ヶ月。
ネクロニアを留守にするには、あまりにも長すぎる時間だ。
「おいおい、そいつは困るぜ。俺にも仕事があるんだがな……黒耀の注文だって溜まってるし、もうすぐ白銀の注文も入って来るはずだ。悠長にバカンスなんぞ楽しんでられん」
「黒耀……? 白銀……? えっと、よく分からないんですがぁ……アーロンさんの仕事って探索者ですよね……?」
俺は決めた。
最短距離で帰ることを。
「さっさと帰る。できる限り早く帰る」
「はあ……それは、分かりましたけどぉ、具体的にはどうするんですかぁ?」
不思議そうに首を傾げるクロエに、俺は答えた。
「俺がクロエを背負って、ネクロニアに向かって、真っ直ぐ走るんだよ」
「あの……真っ直ぐって?」
「真っ直ぐは真っ直ぐだろ。直線のことだよ」
「いえ、あの……途中に山があるって言いましたよね?」
「真っ直ぐ行く。山は越えれば良いだろ」
「えっと、でも……その山、魔物の棲み処なんですよぉ? ワイバーンの生息地もありますしぃ……無理では?」
「ワイバーンか……じゃあ、問題ねぇな」
迷宮の魔物と違って野生の魔物は生存本能が強い。自分たちには手に負えないくらい危険だと判断すれば、襲って来ることもなくなるだろう。
そもそも、今さらワイバーン程度に後れを取るわけがないのだ。何も問題はない。
――というわけで、俺がクロエを背負い、最短距離でネクロニアを目指すことになった。
俺は地上を【瞬迅】で移動し、山を越える時は【空歩瞬迅】で空を移動した。
クロエはそんな俺に全力でしがみついていたが、【瞬迅】によって繰り返される激しい上下運動と、強力な慣性に耐えきれず、何度か振り落とされそうになったことがあった。
まあ、クロエは魔法使い系のジョブだし、鍛えてもいないから身体能力はそんなに高くないからな。無理もない。
「しかし、たった5日間とはいえ、色々なことがあったよな」
「全て記憶から消し去ってしまいたいですぅ……!!」
ネクロニアももう目前なので、背中からクロエを降ろす。クロエは地面に足をつけながら、情けない声を出した。
この5日間でクロエともだいぶ打ち解けた関係になれたと思う。
二人で丘を下りながら、旅行の感想を言い合うように言葉を交わす。
「あの樹海を移動した時は感動したな。迷宮の森とは違って生命力に溢れた森だった。やっぱり人間、たまには大自然で戯れることも必要だと実感したぜ」
「もう虫はこりごりですぅっ!!」
美しい自然。鬱蒼と繁る木々。森の中を吹き抜ける優しいそよ風に、たまにドデカイ虫の魔物。
「しかし、野営ばかりだったが、ストレージ・リングの中に保存食も野営道具も入っていたおかげで問題なかったな。ストレージ・リング様々だぜ」
「ちょっと異国の地で観光気分を味わいたいと考えていた私がバカでしたぁっ! この5日間、一度もお風呂に入れてないですぅっ!」
「何を言うか。綺麗な湖で水浴びもできたじゃないか」
山間にある幻想的な湖。大自然の中で服を脱ぎ、開放的な気分で湖を泳ぐ。なかなか経験できることではない。
「二度も男の人の全裸をっ! ばっちり見てしまいましたぁっ!! しかも私も裸を見られるしっ!」
「そういえばクロエも全裸を見られたんだったか。災難だったな」
湖の近くを根城にしている盗賊たちに襲われてしまったのだ。まあ、旅にはそんなスパイスがあっても良い……。
「水浴びしてたら盗賊に襲われるってどんな不幸ですかっ! 乙女の裸を何だと思ってるんですかっ!!」
「ちゃんと全員ぶちのめしてやったんだし、もう良いじゃん」
「全然良くないですぅっ!! 盗賊にもアーロンさんにも裸を見られるし、これじゃあお嫁にいけませんっ!!」
「大丈夫だろ。カドゥケウス家のご当主様が、ちゃんと結婚相手見つけてくれるって」
「そういう問題じゃないんですよぉっ!」
「え、なに? じゃあ、ゲロしたことと失禁したこと気にしてんのか? 大丈夫だって、誰にも言わないから」
「ああああああ~~~っ!! そのことは口にしないでくださいっ!!」
ポカポカとクロエが俺の肩を叩いてくる。どうもクロエにとって黒歴史になってしまったようだ。
何があったかと言うと、乗り物酔い……と言って良いのかどうか、俺に背負われて移動している間に酔ったクロエが吐いてしまったのだ。そして吐かれてしまったのだ……。
他にも、とある山岳地帯を棲み処とするワイバーンの群に襲われた時、恐怖のためかクロエが失禁してしまったこともある。俺の背中の上で……。
まあ、そんなことがあったので、途中で見つけた湖で水浴びすることになったんだが。
「ぅうううぅ~……っ!! 最悪ですぅっ……最悪な記憶ですぅっ……!! 私も記憶から消すので、アーロンさんも今回のことは記憶から消してください……っ!!」
と言われたので、誠実を旨とする俺は正直に答えた。
「それは無理だな。何があったのか、報告しなきゃならんし」
「ぁああああああああ~っ!!」
クロエが頭を抱えて発狂した。世界の終わりのように絶叫する。
大袈裟な奴だと思ったが、考えてみればクロエもお年頃の少女だ。大人にとっては些細なことでも、子供にとってはこの世の終わりのように深刻に悩んでしまうのは、良くあることだ。
ここは人生の先達として、思春期の少女を諭してやらなければいけない場面だろう。
「――クロエ」
「アー、ロン、さん……?」
俺はクロエの両肩に手を置いて、真正面から見つめると、真剣な声音で励ました。
「良いか? 良く聞け。たかが全裸を見られたり、ゲロを吐いたのを見られたり、他人の背中の上で失禁したとしても……それでも、人間の魂が汚れることなど、断じてないッ!!」
全裸? ゲロ? 失禁?
それが何だと言うんだ? そんなもので人間の尊厳が損なわれることなど、ありはしない。
俺だってクロエに局部やケツの穴を見られたかもしれない。だが、それが何だと言うのだ?
いや、そもそも気にする必要などないのだ。人間は全裸で生まれてくるし、ゲロも失禁も単なる生理反応に過ぎない。気にする必要など、どこにある?
「――な?」
「…………」
最後に優しく諭すと、クロエの全身から力が抜けて、彼女はその場に座り込んだ。
その表情は酷く虚ろに見えるが……これはきっと、俺の言葉に納得し、安堵したのだろう……そうに違いない。
――ともかく。
俺たちはネクロニアに帰って来たぞぉおおおおおおッ!!
●◯●
ネクロニアに帰還し、クロエをカドゥケウス家の屋敷に送り届けた。
そこでは行方不明になっていたクロエが帰って来たことで一悶着あったのだが、長くなるので割愛しよう。
道中クロエに聞いていたのだが、クロエが誘拐された時、護衛についていた者が三人、殺されてしまったらしい。一日目の野営の折、彼女は殺されてしまった護衛たちを思い出してか、静かに涙を流していたものだ。
「ジョン、マイク、ヒンミガルマクガンティ……」
と。
俺も空気を読んで、三人目の名前について問うのは控えておいたほど、沈痛な表情だった。
ともかく。
護衛を殺されて行方不明になっていたのだから、騒ぎにならないはずがない。カドゥケウスの屋敷では当主であるジルバ・カドゥケウス氏が顔を出し、直々に礼を言われた。
会うのは初めてだったが、高齢の爺さんだった。
とは言っても弱々しい印象とは無縁で、筋骨隆々とした体躯にピンと伸びた背筋の、老人離れした老人だった。唯一の老人っぽさと言えば、髪と髭が真っ白だったことくらいだ。
クロエを保護した経緯を軽く説明したら、お礼をしたいとかなり引き留められたが、エヴァ嬢たちにも報告しないわけにもいかず、ジルバ氏の申し出を断り、その場を後にした。
そうして次にやって来たのが、キルケー家の屋敷だ。
キルケー家にはクランに所属してから何度か足を運んでいるから、屋敷の使用人たちにも顔を覚えられている。そんな彼らが、俺の顔を見るなり死人と出会ったような表情を浮かべ、一時、屋敷内は騒然とした空気に包まれた。
それから程なく、騒ぎを聞きつけたのかエヴァ嬢がなぜかフィオナを伴って、奥からエントランスに現れた。
「――アーロンさん!? 無事だったのですね!!」
「アンタ、やっぱり生きてたのね!?」
「ま、見ての通りだ。……殺されかけたがな」
会った瞬間、微妙な異変に気づいた。
カドゥケウス邸でも薄々と感じていたことだが、俺やクロエが行方不明になっていたことだけでは説明しがたい異変。何か戦争を前にした兵士たちのような、殺気立った緊張感がカドゥケウス邸でも、ここでも漂っている。
それはエヴァ嬢とフィオナの顔を見た瞬間に確信に変わった。
何処となく、というか、明らかに表情が硬いのだ。こうして俺が無事に姿を見せたというのに表情が和らぐ様子もない。つまり、俺の行方が分からなくなっていたこと以外にも、何か問題が起きている――ということだろう。
それも、そこそこ大きい問題だ。
「んで……何かあったのか?」
エヴァ嬢はフィオナと顔を見合わせると、一つ頷き、こちらに向き直った。
そして、端的に問題を告げる。
「――スタンピードが、起こるかもしれません」
「…………」
思わず、俺は微笑んだ。
いや、微笑というよりは、冷笑とでも言うべきか。
ネクロニアにおいて、スタンピードとは人為的な理由でしか発生し得ない。そのことを、すでに俺は知っている。
だからこそ、呆れ果てた。
またか、と。
同時に、一瞬で怒りが沸点を突き抜ける。
またか、と。
俺がこの世で最も嫌いなのが、スタンピードだ。正確には、スタンピードを人為的に起こそうとする糞どもだ。
俺を殺そうとして、あれこれするのは、まだ良い。正面からぶちのめせば済む話だ。人質を取るという行為には思うところはあるが、それでもここまでの怒りは覚えないだろう。
だが、もしもまた、人為的にスタンピードが起こされようとしているならば、関わった糞どもは皆殺しにしないと気が済まない。
当然、抑えようもなく、殺気が溢れ出す。
直後、忙しそうに使用人たちが行き交い、騒然としていたエントランスが、一瞬にして静寂に包まれた。
「詳しい話を、聞かせてくれ」
エヴァ嬢が顔を蒼白にして沈黙している。口をパクパクと開閉させているが、声が出て来ないようだ。
隣でフィオナも、珍しく怒りを露にしている俺を見て、軽く目を見開いている。
誰も何も言わない。殺気を抑えなければと思うが、今の俺には難しい。
沈黙だけが支配するエントランス内に、直後、場違いに穏やかな声が響いた。
「お嬢さん二人が恐がっている。少し殺気を抑えたらどうかね、アーロン君?」
屋敷の奥から現れたのは、金糸で刺繍の入った白いローブを身に纏い、穏やかな笑みを浮かべた壮年の男だった。
『賢者』イオ・スレイマン。
なぜここにいるのかは分からないが、イオはこちらに近づきながら、声を出せないエヴァ嬢に変わって答えた。
「君のお望み通り、詳しい話をしようじゃないか。ただ最初に言っておくと、今すぐスタンピードが起こるというわけではないよ。安心したまえ」
「……そうか」
俺は深く息を吐き出した。
なぜスタンピードが起ころうとしているのか、その話を聞く必要がある。
俺の留守中に何があったのかを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます