プラスティック・ラブ
津道あんな
『プラスチック・ラブ』
呼び出された居酒屋に向かうと、杏子さんは既にでき上がっていた。
杏子さんは先輩の隣に座ろうとした僕の腕を掴み、自分の隣のスペースを叩いた。腕から伝わる恐らく胸であろう柔らかい感触を早く振りほどきたくて、言われたまま杏子さんの隣に座ったのに、杏子さんは先ほどよりもぐっと身体を寄せてきたから意味はなかった。たじろぐ僕を見かねた先輩が「杏子」と嗜めるように声をかけてくれ、杏子さんはやっと離れてくれた。
「顔赤くしちゃって。あー可愛い」
カラカラと笑う杏子さんの目元も赤い。ここまで酔った杏子さんを見るのは初めてで、僕はどう振る舞えば良いのか分からなかったから先輩の様子を伺って、すぐに諦めた。
先輩も酔っていた。酒にではなく、杏子さんに酔っている。
普段は高学歴と高身長イケメンなルックスを鼻にかけたような態度を取る癖に、今、杏子さんを見つめる視線は優しさと愛おしさを煮詰めたような甘いものだった。
先輩のギャップに胸やけしそうになりながら通りかかった店員にウーロンハイを頼む。
「アンタみたいなクズの下にこんなピュアな子が来るなんてね。コイツみたいになっちゃだめよ?」
杏子さんの細い指先が僕の頬を撫でるのが分かった。慌てて距離を取るも「おい」と僕に向けて苛立ちを含んだ声が飛んできた。再度僕で遊ぼうとする杏子さんの隣から抜け出して先輩の隣に座り直して、漏れそうになる溜息を運ばれてきたウーロンハイで流し込む。
僕は一体何を見せられているんだろう。
先輩と杏子さんを初めてみたのは半年前の深夜だった。残業が長引きそうだったのでコンビニに夜食を買いに行った帰り道、数時間前に退社した先輩を見つけた。
飲み過ぎて吐いている先輩だったらまだ良かったのに、僕が見たのは路地裏で女性と抱き合いながらキスをしている先輩だった。一寸の隙間でさえも距離があるのがもどかしくてどうしようもないくらいにきつく抱き合って、お互いの熱を交換しあうようなそんなキスを先輩はしていた。
誰かのそういうシーンを僕は見たことがなかったから、僕の方が恥ずかしくなってきて顔が熱くなるのが分かった。こちらが照れてしまう情熱的な情景にしばらくぼんやりしていたものの、はっとして、何も見なかったことにしようと踵を返したときだった。僕のコンビニの袋がかさりと音を立てて、弾かれたようにして顔をあげた先輩と女性と目が合った。仕方なく「お疲れ様です」と小声で挨拶をすると、女性は足取り軽く僕の方に歩み寄って僕の手を取った。
「ひょっとしてアンタの下に配属された新卒ってこの子?」
「そう」
「……ふーん。顔赤くしちゃって可愛いね。私コイツの同期の杏子っていうの。また会おうね」
顎で先輩を指しながらそう言って立ち去ってしまった先輩と杏子さんに僕は度々呼び出されるようになった。居酒屋に呼ばれて御馳走になって、手を繋いで帰る二人を見送る。
二度目に呼び出されたときに
「あの、先輩たちは……お付き合いされているんですよね?」
ときいた僕を杏子さんはお腹を抱えて笑った。
「本当にくそ真面目だね。キスもセックスも誰とでもできるでしょ」
そのとき先輩はどんな顔をしていたのか覚えていないけれど、きっと寂しそうな顔をしていたんじゃないかと思う。
「杏子、それで終わりにしておけ。流石に飲み過ぎだ」
「えー。OL最後の日くらい飲みたいじゃない?」
僕が来てから更に三杯のグラスを空けた杏子さんから先輩はグラスを取り上げる。
手持ち無沙汰になったらしい杏子さんはかざすようにして左手を眺めはじめた。杏子さんの薬指にはダイヤらしい宝石がついたシルバーのリングが収まっていたが、僕には見覚えがなかった。
「え、杏子さん会社辞めるんですか?」
「新卒くんに言ってなかったっけ?今日付けで辞めたの。寿退社で、来週から旦那と中国行くの」
「……おめでとうございます」
「ありがと~。休みのとき遊びに来なよ。君だったら案内してあげる」
曖昧に笑って返事を誤魔化してウーロンハイを口に運ぶ。横目で見た先輩は優しい顔をしているけれど、僕は知っている。先輩が安っぽいグラスを拳が白くなるまで握りしめていることを。
プラスティック・ラブ 津道あんな @colorsofloooove
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます