第36話 噂をすれば
店を出てすぐに、高橋と十三号は別れた。
高橋は酔っているものの、へべれけの千鳥足でもなく、ただ赤い顔でバスに乗っていった。
〈そうか、高橋は帰ったか〉船長はフッと息をついた。〈よし十三号、今日はもう任務はない。我々も休む。お前も好きにしろ〉
〈了解した〉
明日の出社まで自由時間になった十三号は、足の向くまま歩きはじめ、夜の闇へと消えていった。ロボットよ、どこへゆく。
さてさて、しばらくバスに揺られていた高橋は、いつものバス停で降車した。
夜道を歩いて家路を辿る。高橋はなんとなく空を見上げた。欠けた月が曖昧な輪郭で浮かんでいた。満月じゃないのかよ、と高橋は思う。
道は段々住宅地になって、蛍光灯の切れかけた街灯や、夜更かしの窓明かりが、見慣れた夜として続いていた。半分眠ったような意識で、高橋は小さな公園を過ぎようとしていた。重力が弱まったような酔い心地に、高橋は気まぐれな口笛を吹いた。自分でもなんの曲なのか分からない。掠れたメロディーに、足音の伴奏。
そのとき突然、後ろからポンッと肩に手を置かれた。誰だって驚くだろう。高橋だって驚く。「ピュッ」と唇が可愛い悲鳴を上げた。高橋はねじ切れるんじゃないかというような速度で、首を後方に回した。
そこにいたのは、なんと長谷川だ。当然のように厚化粧だぞ。
「ちょっと顔かしな」
長谷川はスケ番のようなことを言って、すぐ横の公園を顎で示した。目が据わっているのはアルコールのせいらしい。
「は、長谷川さん。……カツアゲっすか」
思いついた冗談を口にしてみたが、長谷川はそれを無視して公園へ入っていった。
夜の公園には背の高い水銀灯が一つ、白い光を寂しく広げていた。
長谷川は不規則な足音でブランコに近寄ると、しんどそうにそこへ座った。高橋はその横に、所在なさ気に突っ立っている。
「あ、あの……」
高橋がおずおずと言うと、長谷川は手にしていたビニール袋から、缶ビールを取り出した。五百ミリリットルの缶だ。カシュッ、と良い音でプルタブを開け、豪快に呷った。おそらくすでに酔っているのに、まだ飲み足りない様子だ。
ビールを半分ほど飲んで、
「なんなの、あいつ……」
長谷川は囁き声で言った。
「え?」
すると長谷川は、残りのビールも飲み干して、空になった缶を適当に放った。カラン、カラーン、と乾いた金属音がした。拾うのは高橋だ。ったく、なんだよ、と呟きたくもなる。
高橋がゴミ箱に空き缶を捨てると、「なんなの」と長谷川は再び言って、
「あんたの後輩の山田、あいつ、なんなのよ」
「ああ、山田」
高橋が、そう言えばこの長谷川と山田は、いつかの合コンのときにこっそり抜け出していたな、と思い出して、ちょっとニヤッとすると、長谷川に眼光鋭く睨まれた。
「そう、その山田よ! なんなのあいつ、信じらんない! 今までわたしにあんなことした人いなかったんだから!」
昼間、ここで遊ぶ子供たちよりも大きいであろう声で長谷川は言った。高橋が「ちょっと声が……」と言いかけると、長谷川はここが憤懣のやりどころとばかりに、ブランコをこぎはじた。こんなにブランコをこぐ大人、中々見ないよ。
長谷川の憤りは、以前のタクシーの件からきていた。あそこまで露骨に擦り寄ったのに、ああもあっさりと帰られた経験は(それも軽くあしらわれた感じに)これまでの長谷川にはなく、それははじめ屈辱に感じられてしょうがなかったのだけれど、時を経る毎に、悔しさ歯がゆさ、やるせなさ、そして仕舞いには、愛のある張り手をされたようにも思われてきて、今となっては山田に対し、愛憎入り混じったアンビバレンツな感情となってしまっているのだった。わたしのことを大切に考えてくれたの? ってなわけだ。
「あんた」長谷川はザザッとブランコを止めた。「山田と仲良いんでしょ」
「ああー、まあ仲良いっていうか、話はするけど」
「教えなさいよ」
「教える、って何を?」
「山田のことに決まってるでしょ」
長谷川はものを頼んでいるとは思えない態度で言う。
「え~、本人と話せばいいじゃん」
なんだか知らないが、めんどくさそうだ、と高橋は思う。
「分かんないのよ」
「え?」
「分かんないのよ、あいつ。こないだからずっとあいつのこと調べてるんだけど、全然なんにも分かんない。ねえ、例えばあいつってどこに住んでんの?」
急に素直になった顔で訊ねられて、高橋も考えた。調べてる、という言葉の恐ろしい意味も素通りしてしまった。
「言われてみれば、知らないな」
「でしょ。こないだの夜なんて、あいつ、どうしてたか知ってる? バス停のベンチに座って、夜空なんて見てんのよ。そんでバスが来ても乗らないの。ずーっとそうしてるから、わたしの方が疲れて、帰っちゃったわよ」
「なにそれ」
「こっちが訊きたいっての。そんな感じで、いくら調べてもあいつの趣味とか生活とかが、まったく分かんないのよ」
長谷川の愚痴のような言葉を聞いて、高橋は軽く笑った。一朝一夕で山田と付き合えると思ったのか、未熟者め、と言ってやりたかった。
「あんたなら分かるでしょ。いっつも一緒にいるんだから。教えなさいよ」
「いや、そんなにいつも一緒じゃないって」
「一緒でしょ。今日だってあそこの工事現場に二人でいたじゃないのよ。それに仕事終わりにはご飯も一緒だった。どんな話をしたとか、そういうことでいいから教えなさいよ」
そこでようやく高橋は、長谷川がしていることに気が回った。
「ちょ、ちょっと……」頼りない声が出た。「ずっと尾行してんの?」
「尾行って」長谷川が鼻で笑った。「なに二字熟語を使って本格的なことにしてくれちゃってんのよ。……ただ後ろからついてって、ずっと見てるだけよ」
「それそれ、それを尾行っつーんだよ」
高橋の頭に、さっきの店のテレビで見たストーカーのニュースが思い浮かんだ。確かにお目にかかりたいって言ったけど、関与はしたくねえよ……。高橋は頭を掻きむしって、うつむけた顔をしかめた。そしてとりあえず抵抗してみた。
「なんで山田なんだよ、どうせあいつ、女にあんまり興味ないと思うけど」
「うるさい、あんたの知ったことじゃないのよ」
なんて言い草だ。しかし酔いも手伝ってか長谷川は、自分の主張しかしない。
「あんたは山田のことを調べて、わたしに報告すればいいの」
と駄々をこねるように言い、長谷川は再びブランコをこぎはじめた。これほど険しい表情でブランコをこいだ人は、今までいなかったんじゃないだろうか。鉄のこすれる音が、呪いの言葉のように反復していた。「教えなさいよ」「ヤだよ」この言葉も繰り返された。
しばらくして足でブレーキをかけた長谷川は、ふらりとブランコから腰を上げ、蹌踉と高橋に近寄ってきた。怖いって。
「な、なに?」高橋は後ずさる。
すると長谷川が、両手を高橋の両肩に置いた。しばし見つめ合う二人。もし通りかかる人があれば、ケッ、イチャつきやがって、と唾でも吐き捨てそうな場面だが、その直後に、そんな雰囲気を一変させる出来事が起きた。
長谷川が嘔吐したのだ。高橋の足下へ。
どうやら酒を飲んでブランコに乗ったことで、頭のなかがかき回され、気分が急激に悪くなったらしい。なるほど。……いやいや、そんなメカニズムはどうでもよく、びっくりしたのは高橋だ。足下では吐瀉物が気味の悪い音で飛び散り、靴などにも飛沫がかかっているが、長谷川に両手で肩をロックされているから、飛び退くわけにもいかない。あああ、と諦めとも嘆きともつかない声が、力なくもれた。
長谷川は一しきり嘔吐し終えると、ゲホゲホと咳をしたあと、顔を上げた。目は血走って潤み、吐いたばかりの口を拭おうともせず、
「教えなさいよ」
「……教えるよ」
超怖えんだもん。
高橋が迫力に負けて頷いたのを見て、長谷川は高橋の肩に置いていた手を離した。そして、約束を取り付けた安心からか、ようやく体調の方に気が回り、「ああ、気持ち悪い……」と濁点だらけの声で言った。
そこで高橋は、内ポケットからハンカチを取り出す。以前、あれほど探しても見つからなかったハンカチを、あれ以来持つようにしているのだ。
「ほら、とりあえず口拭けよ」
やさぐれた感じに差し出すと、とくに遠慮した様子もなく、長谷川はそれを受け取った。ためらわずに口を拭いはじめる。ズビーッと鼻までかんだ。
「教えるのよ……」
しつこっ。
言いたいことだけ言って強引に要求を通した長谷川は、挨拶もそこそこに、高橋に背を向けた。やっと解放された、と高橋はため息をついて、その背中を見送る。長谷川は一歩進めば右によろけ、一歩進めば左によろけ、ゾンビでももっとしっかり歩くと思われるほど、足取りが不確かだった。ついにはジャングルジムにもたれてしまった。
高橋の頭には、その夜何度目かの、ったく、なんだよ。
早足で長谷川に近寄ると、
「なあ、そこの通りまで送るよ」
しかし、長谷川の反応はない。
「なあって」
長谷川の肩をつかんでぐらぐら揺すると、長谷川は崩れるようにその場にへたりこんでしまった。赤い顔、瞑った目、鼻からは寝息。むにゃむにゃと動く口は、山田への睦言か。
……困るよ!
高橋は心のなかで叫んだ。
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