第35話 ペコペコ
工事現場から出てきたときには、もう夕方になっていた。
高橋はオレンジ色に暮れなずむ空に向かって、大きな伸びをした。
「ああ~、しんどかった」
脱力してそう言って、「帰ろうぜ」と歩きはじめる。工事現場の看板を横切り、フェンスの前を歩きながら、高橋は十三号の方を見た。
「気にすんなって、山田」
十三号は微塵も気にしていないのだが、高橋には十三号の無表情が、少し落ち込んでいるように見えたらしく、そんなことを言って十三号の上腕のあたりを軽く叩いた。
「はい、問題ありません」
これもまた、高橋には強がりに聞こえる。
「お前のミスじゃねえんだからさ」
しばらく黙って歩いて、二人は横断歩道の赤信号に立ち止まった。
「それにしてもさ、あそこまで怒ってると思わなくて、ちょっとビビったよ。あの顔見た? 超怖かったよな。グーで殴られるかと思ったもん」
高橋の軽口に付き合わず、
「でも、高橋さんが頭を下げなくてもよかったと思います」
と、十三号はきっぱり言った。
「いいんだよ」高橋は前方の赤信号を見たまま、「一回ああいうの、やってみたかったんだ」
「ああいうの?」
「そうそう、ああいうの。先輩っぽかっただろ?」
十三号が見ると、高橋は眩しそうな顔で笑っていた。
信号が青に変わり、二人は横断歩道を渡りはじめた。そこで十三号は一度立ち止まり、後ろを振り返った。
「どうした?」と高橋。
「いえ」三秒ほどして、「なんでもありません」
「早く帰ろうぜ。そんで今日は飲みに行こうぜ。腹ペコペコだよ、ペコペコしてペコペコ」
下げた頭にはビールが沁みるんだ。高橋はそんなサラリーマンらしいことを言った。
毎度おなじみ、すっかり常連になっている安いことこの上ない居酒屋へ足を運んだ高橋と十三号だったが、世の景気が悪いからなのか、はたまた日中に頭を下げた人が多かったのか、あいにくの満席とのことで、仕方がないから二人は、街をぶらついた末、全然馴染みでない別の店へ入った、
その店は、どちらかというと食事をメインにしていて、大衆食堂と呼んだ方が正確かもしれない。いくつかの真四角なテーブル、壁に並んだ短冊状の品書き、神棚のように取り付けられてある古いテレビ、厨房にはいわくありげな料理人。大型トラックの運転手などがいれば似合いそうだ。
二人はそこのテーブルに席をとって、ささやかな晩酌をはじめた。店は空いていた。
昼間のことを話しているうちに、どうも酒が進んでしまい、高橋の顔はみるみる赤くなってきた。閑古鳥の店では馬鹿話で騒ぐこともためらわれ、高橋はしみじみと酒を飲み、どこかぼんやりとしている。話題が尽きてしまうと、頬杖の崩れた姿勢で、見るともなくテレビに視線を置く。ニュース番組をやっていた。
連続する銀行強盗、飲酒運転による交通事故とニュースは続き、「次です。逮捕されたストーカーの異常な動機とは……?」と次回予告のようなことをアナウンサーが言って、コマーシャルになった。ミクロの粒子で襟元の汚れも概ねスッキリ! チャ~ラ~チャッチャ……。
「治安」高橋が呟いた。「良くねえのかな、銀行強盗だってさ」ヒック、と酔いのシャックリ。
「相対的には良好ではないでしょうか」
店の雰囲気にそぐわない十三号の返事。相対的、という言葉が高橋に染み込むまでには、少々の時間がかかった。コマーシャルが終わったあたりで、
「ああ、そう言えば山田、大学は向こうの方の、どこだっけ? アメリカだっけ?」
サヨコの悪ふざけの設定では、十三号は泣く子も黙る海外の名門大学の卒業ということになっている。それも首席だ。マジかよ。
「ええ」
「あっちはどうなの? やっぱりヤバいことって多い?」
と問われても、十三号の頭に入っているのはデータだけで、実際に見てきたような具体的なことはなにも知らないのだ。しかし、十三号は頷いた。
「少なくありません」
「ふーん、怖えな」
テレビではストーカー犯の異常な執着っぷりが伝えられていた。日夜を監視と尾行についやし、その逐一を手帳に記していたという。おぞましきその手帳は、計十冊にもなっていたんだとさ。〈……ほう〉これは船長の感心の声。
「みんなピストル持ってるの? 大阪の一般家庭にタコヤキ器があるみたいに、当たり前に銃器があるって聞くけど」
「はい。全員が武器を所持しています」
「そうなんだ、怖えなアメリカ」
「人種のサラダボウルですから」
十三号が言うと、高橋は「おおっ」と反応した。
「久しぶりに聞いたよソレ。学生のとき以来かな。そもそもサラダボウルってなんだよ、ってずっと思ってたヤツだ。ベストか? その例え」
「様々な人がいて、だから揉め事も多くなってしまうのです」
「へぇ~」サラダボウルだと揉めるんだ、と高橋はやや的外れな感想を呟いて、「まあ確かに、アメリカの都会の方と比べると、こっちは治安が良いんだろうな。ほら、あんな風にストーカーだとか言ってるけど、実際には見たことねえもんな」
ホントにいるのかよストーカーなんて、一度お目にかかりてえよ。そう気楽に言って、高橋はあくびをした。
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