第30話 イントロ

「……しゃっせー」

 それなら言わない方が良いくらいの怠惰な挨拶を、コンビニの深夜店員、茶色い髪をした若者が呟いた。入店してきた客に目もくれず、ドアの開閉音にだけ反応して、彼は携帯電話の操作に忙しい。コンビニの店内には、深夜に似合わない陽気な音楽が流れていた。

 高橋はミネラルウォーターを手にとって、腹の具合や、自宅の冷蔵庫の中身を考えながら、ふらふらと歩いた。特に必要とも思えなかったが、ポテトチップスを選んだ。

 走光性の虫のようについ寄ったコンビニには、あまり用事は見出せなかった。

 そんな高橋へと、ようやく店員が目を向けた。ギョッ、だ。そりゃコンビニには、色んな客が来る。老若男女、十人十色の容姿がある。けれども高橋のいでたちは、常識の範疇からはみ出していた。只今逃亡中でして。そんな説明でもつけなければ、合点がいかない。

 店員はもう携帯電話なんかそっちのけで、高橋へと目をこらした。

 そうしていると、逃亡犯は見るからに「あっ」という顔をして、明確な足取りで雑誌コーナーへと移った。店員はカウンターのぎりぎりまで体を寄せ、首を伸ばして様子をうかがった。もしかしたら金も無く、切羽詰って万引きをするか、開き直って強盗に及ぶかもしれない、と恐怖と興味のない交ぜで、店員は露骨に監視をする。

 疑いの視線に気付きもせず、高橋は雑誌コーナーの端から端まで、多種多様な全ての表紙に、目を走らせていった。成年誌のコーナーは、別の意味で特によく見ていた。

 店員はそのうち、高橋の口元が、なにやらぼそぼそ動いていることに気が付いた。頭のなかでの呟きが、口の動きに現れているらしい。強盗の脅し文句の練習だろうか。幻覚との会話だろうか。やべえな。

 しかしそれは杞憂というもので、高橋の口はこう動いているのだった。

 ……剣道剣道、月刊剣道。



 遅い時間の電車は、閑散と空いていた。

 島村はがらんとした座席に腰を下ろし、夜の暗さで鏡になった窓を、見るともなく見ていた。ガタゴト揺れる電車には、誰かのため息の残り香のような、くたびれた雰囲気が漂っている。今日一日が終わるのだ。島村はあくびを一つする。

 こういうときに頭に浮かぶのは、これといった脈絡もない、ふわふわした感触の思い出や、カレンダーを破らなくてもいいくらいの近い将来のことや、好きな歌のワンフレーズや、友達とのお喋りや、ささいな悩み事だった。感情は少しも波立たない。

 そんな風に島村がぼんやりしていると、斜め前の座席の中年の男から、携帯電話の着信音がやかましく鳴った。男は、あ、いっけない、なんて可愛げもなく、険しい目で着信に応じる。

 ……ああ? なんだよそれ。……冗談じゃねえぞ、おい。お前の担当だろうが。……ったくよー、手間かけさせんじゃねえよ。

 不穏の裡に通話は終わった。すぐさまの舌打ちは、男によく似合った。足は貧乏ゆすりに忙しない。

 島村は一度だけ男を見て、すぐに目を落とした。イライラしている人は、見ていても楽しいものじゃない。大変そうだなー、とそれだけ思った。

 そこでふいに、島村は今夜が満月だったことを思い出した。車窓から見えるかな、と不自然にならない程度に顔を動かしたが、ビルに隠れているのか月は見えず、街の光点が横切っていくだけだった。中年の男は、今度は自分から電話をかけ、また何かまくし立てている。彼は満月など探さない。

 ……仕事、楽しい?

 ……超楽しい。

 そんな会話が、そしてそのときの映像が、島村の頭に浮かんだ。答えるのがすごく早かったよね、と思うと、笑ってしまいそうになる。まあ、うん、なんとかやってるよ。そういう答えが返ってくると思ったんだけどな。

 ……ん?

 思い出していた映像が、ぴったりと止まった。

 ……どこかで見たことがある?

 島村はよくよく高橋の顔を思い浮かべた。初対面、だったと思う。でもなんだろう、この感覚。腑に落ちないまま、島村はなんとなく、まだ通話を続けている男を見やった。やってらんねえよ、と愚痴をこぼして、男はまさにやってられなそうにネクタイを緩めた。島村はほとんど無意識に目をこらして、失礼なほど男を注視した。

 島村の頭のなかにあった高橋の映像が、ある箇所に焦点を合わせて、ぐんぐんズームした。そこは首元、ネクタイだ。「?」から「!」へ気持ちは動く。

 島村は立ち上がった。あ、立っちゃった。すぐに座りなおすのもおかしな気がして、まだ次の駅まで間があるが、ドアに向かって立っておくことにした。もう男の電話の声も聞こえなかった。

 あの変な色のネクタイ。

 それから何より、あの前衛的な結び方。

 まさか、と、でもでも、が島村の感情に細波を立てる。わくわくするような心地よさで。

 今度もし会うことがあったら訊いてみよう。……もし、会ったらね。


 電車は走り続け、ビルの森を抜ける。

 いつの間にか顔を出していた満月を、島村は見つめる。

 その表情が、笑顔のイントロのようになっていることを、島村は知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る