第28話 36℃の会話

 大通りが交差するところに、その歩道橋は架かっていた。上空から見下ろすと「ロ」の字のようになった、大型の歩道橋だ。辺りには大手居酒屋チェーンや消費者金融の看板が、立ち並ぶ建物を彩っている。ビルには不規則な点描の窓明かり。歩道橋の下を、散漫に車が過ぎていく。

 島村はそんな歩道橋を歩きながら、隣の高橋を気にかけずにはいられなかった。高橋はわずかながら、片足を引きずるように歩いている。さっき、この歩道橋の階段を上っているときに、自身から落ちた葉っぱを踏んで足を滑らせ、すねをしたたか打ってしまったのだ。弁慶だって泣くところ、泣き出さなかっただけ偉いぞ、高橋。

 びしょ濡れになり、葉っぱや木屑にまみれ、とうとう片足まで痛めてしまった高橋。店を出たときには、あんなに普通だった高橋は、今やそんな有様なのだった。

 そうして島村がチラチラと様子をうかがっていると、

「島村さん、雑誌の編集者さんなんだってね」

 と高橋が鼻をすすりながら言った。

「あ、うん」

「すごいね、なんか」

 そう言われて、島村はなぜだか下を向いてしまう。「すごくなんかないよ。仕事に振り回されちゃって、ホントに全然、まだまだっていうか……」

 語尾をフェードアウトさせてしまった。別に謙遜したわけでもなくて、本当にまだまだ、人様にすごいなんて言われて、それに堂々と首肯できるほど、自信が身に付いていないのだ。今日だってちょっとしたミスをしてしまい、その手直しに追われてしまった。食事に行く前にしていた作業がそれで、明日もまだ、作業は残っている。小さな憂鬱だ。

 そんな島村へ、高橋は「何ていう雑誌?」と訊ねた。

「言っても知らないと思うよ」島村は苦笑する。

「わかんないよ~、俺こう見えて、結構コンビニで立ち読みとかするから」

 こう見えても何も、コンビニで立ち読みしてそうな顔の高橋は言う。

「えっと、月刊剣道」

「月刊、剣道……」高橋は目をパチクリさせた。

「ね、知らないでしょ?」

「……し、知ってるよ、あれでしょ、剣道に特化した月刊誌だよね」

「うん、それは誌名からわかるよね」

 これまで、生来の人見知りもあって軽口をひかえていた島村だったが、ここでようやく、すんなりとツッコミの言葉が出た。それも笑いながら。自分でも、おや? と思うほど。

 高橋は、望んでいたツッコミを引き出せたのが嬉しいのか、ヘラヘラと笑って、

「ごめん、本当は知らないんだ」

「謝るようなことじゃないよ、ほとんどの人は知らないから」 

 交差点の信号の色が変わる。赤から青へ。柔らかい夜風が吹いて、車の音が少し静かになった。二人はゆっくりと歩く。

「高橋さんは、仕事楽しい?」

 島村がうつむいて言った。

「超楽しい」即答だった。高橋は夜でもはっきりわかるくらい、明るい顔をしていた。「俺さ、絵に描いたみたいな平社員でさ、やってる仕事も大したことないんだけど、なんつーのかな、上手く言えないけど、その、なに? ほら、その~、ねえ? うん、とにかく楽しいよ」

「ホントに上手く言えなかったね」

 二人はくすくすと笑いあった。

「島村さんは? 仕事楽しい?」

 訊ねられ、島村はちょっと考えた。今日のミス、残してきた仕事、そんなことが思い浮かんでしまう。明日もきっと忙しい。……それでもやっぱり、

「うん、楽しいよ」

 そう答えて、顔を上げた。うんうん、そりゃいい、といった感じに、高橋は頷いていた。

「まだまだだけどね」と島村は付け加えた。

「まだまだ」高橋は独り言になってもいいような声で、「これからだよ」

 それで話題は途切れてしまい、二人はまた黙って歩いた。沈黙だけど、さっきまでとはちょっと違う。ギクシャクした雰囲気は夜風に流れていって、静けさもBGMにできるような、呼吸の楽な空気だった。

 島村は、ふっと息をついて空を見上げた。そして「あ」と呟いた。その声に、高橋も反応する。「ん?」。島村の方に目をやると、島村はいたずらっぽく笑って、人差し指を一本、顔の前にかざす。その動きに釣られるように、高橋は「おおー」と、少し間の抜けた声をもらした。

 それから二人は歩道橋をおりて、駅へと歩いていった。挨拶の延長のような会話が、足音のリズムと同じように、ゆっくりとしたペースで交わされる。盛り上がりもなく、大笑いもドラマもない、体温くらいの温度の会話。

 駅前に到着する。

「バスに乗るんだ?」と島村。その恰好で、と言外に。

「そうだよ。……あ、これどう? 乗ってもいいと思う?」

 高橋は試着室でするように、全身を見直した。この短時間では服も乾かず、まだいくつかの葉っぱも付着している。なんだかサバイバルな見た目なのだ。

「いいんじゃない? 乗っても。気になるんだったら立ってれば?」

「ああ、そうだよな。立ってるよ」

 でもさ、誰かに何があったか訊かれたら困るよね、なんて言いながら、二人はそこで別れた。

「んじゃあね」と高橋。

「うん」と島村。

 またね、じゃないし、おやすみ、でもない。

 そうして立ち去りかけた島村が、ぱっと振り向いた。

「風邪、ひかないようにね」

 笑ってそう言った島村の顔を、ヘッドライトが照らした。

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