第27話 お世辞

 島村は歩きながら、ちらちらと何度も高橋に目をやった。気になるのだ。愁眉とかホの字とか、もちろんそういったことではなく、なんたってズブ濡れなのだから。高橋からは歩くたびにグシュッといった音が聞こえていた。見るに見かねて「ホントに大丈夫?」と言ってみたが、高橋からはなぜだか照れたみたいな調子で、「うん、濡れたシャツが張り付いて寒いし、気持ち悪いし、こけたときに打った腰がちょっと痛いけど、大丈夫」と言葉が返ってきた。

「ああ」島村は、大丈夫じゃないよ! とツッコミたかったが、それは飲み込んで、「な、なんだろうね、水」

 そしてまた沈黙。二人の横をタクシーが走り抜けていった。そのタクシーの運転手は何やらご機嫌で、かと言えば後部座席の乗客の女は苦虫を噛み潰したような顔をしているのだが、そんなことを二人は知らない。

 タクシーが過ぎると、車の通りは絶えてしまって、がら空きの大通りは森閑とした。点々と連なった街路灯、続く青信号、その先には歩道橋が見えている。

「うちの山田とさ、そっちの、えっと、鈴木さん? は知り合いなんだね」

 高橋は毒ガエル色のネクタイを緩めて、スーツの袖で顔を拭う。

「そうみたいだね」

「俺ちょっとびっくりしたよ」高橋と島村は、少しだけ目が合った。「いや、うちの山田さ、なんつーか、変わりもんっつーか、真面目なヤツでさ、女の子の知り合いなんていないと思ってたんだ。いいヤツなんだけど」

 高橋は思い出すように、うっすらと笑う。島村もそれに釣られるように笑って、

「でもなんか、モテそうな顔だったよ。山田さん」

「顔はねえ」ニヤニヤと高橋は、「そうなんだよ、モテそうでしょ。でも、な~んか変なんだよね。気に障るとかじゃ全然ないんだけど、な~んか変でさ」

 高橋に十三号をこう評され、船長は「それ見たことか」と顔をしかめたものだ。

「こないだもさ」と高橋は楽しそうに山田のエピソードを物語る。

 それは先日の、接待の席上での出来事だった。高橋と十三号は、個室のあるやや高級な居酒屋で、得意先の中年をもてなしていた。接待に臨むにあたり、高橋は十三号へと、口すっぱく指示を与えていた。とにかくお世辞を言って、ヨイショするんだよ、と。そう指示をしておかないと、いきなり契約書などを提示しそうだからだ。十三号は指示のとおり、不慣れなお世辞を連発した。「その腕時計は高いものですね」とか、「ゴルフの腕前がプロのようだとうかがっています。一度ご一緒したく存じます」とか、仮にご一緒したらコテンパンにするであろう十三号だが、とにかく心にもなく相手を持ち上げた。真面目な顔で言うのが、相手のお気に召したのかもしれない。相手はまんざらでもない風にニヤけて、君はお世辞が上手いなぁ、ふふ。

「そしたら山田がさ」

 そこまで言ったところで、突然高橋ははね飛ばされた。リアクションの声はなく、微笑みの顔が残っている。勢いそのまま、島村にぶつかり……。

 しかしぶつかりかけた高橋は、火事場の馬鹿力的に体をよじり、島村を回避した。濡れた体が触れて迷惑をかけてしまうことを避けたかったのだ。島村は目を円くしていた。

 なんとかして足を伸ばし、つっぱりたかった高橋だが、勢いはそれを上回る。足よりも先に上半身が動き、もうどうしようもなかった。大した抵抗もできず、車道と歩道の境にある植え込みへ、頭から突っ込んだ。バキバキと枝の折れる音、騒ぐ葉、「ごっ!」という、意味の無い声。そのあとは、再びの森閑。

 困ったのは島村だ。初対面で、バケツの水を被ってしまった男性が、今、植え込みに突っ込んでしまっている。見えるのは、ほぼ足だけ。謎の状況だ。混ざりすぎた感情は透明になるものらしい。

 ぶつかったものは何か。その考えが頭に浮かんで、島村は道の先を見た。短時間で、もうだいぶ遠ざかったランナーの後姿が小さく見えた。ぶつかったことなど気付かぬ風に、軽快に走っていた。そして目を足下にやると、植え込みの高橋。

「え、え~っと……」

 島村はおろおろと呟いた。


 今度も船長は、腹を抱えて笑っていた。へそで茶が沸きそうだ。

「……」これはサヨコの沈黙。

「おや? 笑ってるの私だけじゃない? どうしたサヨコ君。笑おうよ」

「……はは、は」

「失笑じゃないか」

 高橋がバケツを被ったときには、あれほど大爆笑していたサヨコだが、今度の作戦失敗では、もう笑い声を上げなかった。こうも失敗が度重なっては落ち込んでしまい、つまらない気分に支配されたのだった。ため息直前のような湿った雰囲気が、メインコントロール室に満ちた。意気消沈だ。

「まだ監視を続けますか?」

 サヨコは投げやりな口調で訊ねた。

「……ああ、一応二人が別れるまでは続けよう」

 さっきまで笑っていた人とは別人のように、船長の声にも張りがなくなっていた。

「そうですか。もう何事も起きそうにありませんが」

「うむ。高橋と島村が、自力で仲良くなってくれればいいが……期待はできないな」

 船長は大あくび。


 抜け出すときにも、植え込みの枝や葉は、やかましく音を立てた。スーツかシャツかネクタイか、どこかが尖った枝で傷ついたに違いない。

 高橋は「ふんっ」と鼻息も力強く、なんとか立ち上がった。濡れた体で植え込みに。その結果は、付着した葉、へばりついた木屑。植え込みから復帰した高橋は、急ごしらえの迷彩のような恰好だった。ネクタイを一度解いて、体を何度もはたき、それから再び、いい加減にネクタイを結った。

 なんと言ったものやら、という感じの島村に気がついて、高橋は面映そうな顔で、口を開いた。

「そしたら山田がさ、そうでしょう、って言うんだよ」

「え?」

 なになに、なんの話? 島村は一瞬、高橋が何を話しているのか分からなかった。頭の打ち所が悪かったの? とすら思ったほどだ。

「お世辞が上手いねえ、って言われて、そうでしょう、って返事しちゃダメだよな」

 へっへっへ、と笑う高橋を見て、島村は何度も瞬きをした。だって本当はそれどころじゃないのだ。今、植え込みに突っ込んだよね。それへの憤りとか感想はないの? もしかして、無かったことにしようとしてるの? そんな風に思っても、高橋は笑っている。

「あの」笑い声の止み間に、島村は言葉を差し込んだ。「大丈夫? ケガとか……」

「ああ、うん、だいじょぶ。お世辞ってことを認めちゃダメなのにさ、山田はさ」

 お世辞の話、長っ。

 そうして高橋が、照れ隠しなのか何なのか、お世辞談義を訥々と語りながら、体を道の先に向けたのを合図に、二人は再び歩き始めた。高橋がクシャミを一つやる。

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