第26話 水の滴る男

 水音。

 突然のことに、高橋はなんにも反応できなかった。雨のポツポツを鼻先に感じたことなら何度もあるが、そんな程度じゃない。こんな局地的な雨があるものか。

 前髪から水が一滴、二滴と垂れたところで、「なっ!」と叫んだ。高橋は両腕、胸から腹、そして足と順々に目を落としていった。足はまあまあ大丈夫だが、上半身はびしょ濡れだった。顎から水が滴った。

 その様子を衛星の監視カメラと十三号アイに見ながら、船長とサヨコは大口を開けて笑っていた。船長などはモニターを指差して笑っている。

 上から水が降ってきた! と気が回った高橋は、素早く上を向いた。そこに、水に続いて降ってきたものがあった。バケツだ。

 バケツはこれまた見事に命中して、高橋の頭にすっぽり被さった。

「うわっ!」

 という高橋の声がバケツの内部で反響する。視界も遮られた高橋は、混乱もあってかバランスを崩し、見るも無残な尻餅をついた。勢いもそのままに、バケツで守られた後頭部を地面にぶつけた。ついさっきまでなんともなかった高橋だが、今はびしょ濡れになり、頭にはバケツ、体は地面に倒れている。

 船長とサヨコは大爆笑だった。呼吸が苦しくなるほどに、目に涙を滲ませ、抱腹絶倒していた。船長は息を弾ませてマイクを握り、十三号にナイスと伝えた。

 船長の呼吸が収まったところで、ようやく高橋も起き上がった。バケツをころんと転がして、「寒い」と感覚的な感想を言った。冷たい水が染みてくる。

 水が降ってきたとき、キャッと短い叫び声で飛び退いていた島村は、

「だ、大丈夫?」

 と高橋に近寄った。そして急いで、ポケットなどを探る。出でよハンカチ。しかし、探せど探せど、ハンカチは見つからない。持ってないんだもの。

 その様子に気がついた高橋は、片手をひらひらさせて、

「あ、いいよいいよ、俺持ってるから」

 と水の滴る顔に笑顔を浮かべて言った。「持ってるんだ、ハンカチ」呟きながら、ズボンのポケットやら上着の内ポケットやらに手をつっこむ。指に触れるのは、小銭やレシートや糸くずばかりだ。「……持ってるんだ」

 高橋もハンカチを持っていなかった。ちらりと島村を見ると、心配そうな顔。

「ハンカチは絶対に持ってるんだけど、あとでいいや」動機の分からない強がりをこぼし、「それより、駅に行かないと」と高橋は言った。

 そうだね、と笑いをこらえるような顔をして、島村も頷く。二人は路地を後にした。


「駅に行かないと、じゃないだろ高橋ぃ~」船長はモニターに向かって野次を飛ばす。「どこかで服を乾かしたいな。あ、そうだ、ホテルに行こうか。これだろ高橋ぃ~」

 船長が不満をこぼす間に、高橋と島村が路地を抜けて、大通りへ出てきた。もう少し歩いて大きな歩道橋を渡ってしまえは、もう駅はすぐそこになる。つまり、残り時間は少ない。船長はため息をついて、マイクを手にした。

「七号、出番だ。お前が頼りだぞ」

〈はい〉

「やることはわかっているな?」

〈はい〉

 返事をする七号は今、高橋と島村の後ろで、こっそりと隠れていた。さっきまでの服装とは違い、髪を束ねて帽子をかぶり、上下のジャージ、首にはタオルという、ジョギング中みたいな恰好に変わっている。この姿で二人の後ろから近づいていき、抜き去り際に高橋にぶつかり、そうしてその高橋を島村にぶつける、いわばビリヤードのようなことをしようというのだった。ビリヤードならお手の物なのだ。

 狙う展開はこうだ。

 ……突然謎のランナーにぶつかられて、高橋と島村は体を密着させる。うわっ。きゃっ。そして近距離で見つめ合う二人。一瞬のときめき。染まる頬。あ、ごめん。ううん。高鳴る胸。運命の予感。

「よし七号、そろそろスタートしてくれ。頼むぞ」

〈はい〉

 準備運動もなく、七号は走り出した。なんという美しいフォーム。

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