第6話 手を掴む

 島村咲子は快速電車の通過を待っていた。その次の電車に乗ったとき、一番乗りをして、できれば素早く空いた座席を見つけたいので、ちょうど白線の位置、先頭に立っていた。半分くらい開いた目を斜め下に落として、今日一日の仕事の段取りなどを考える。

 昨日、隣の市で剣道の大会が行われていて、島村はその取材に忙しかった。家に帰ってからも、取材メモの整理やなんかで、結局眠ったのは、夜遅くになってからだった。だから寝不足だった。

 会社に着いたら、あれをしてこれをして、そうそう、あれを忘れないようにしなきゃ。そんな風に考えるも、今ひとつ、頭のなかがまどろんでいる。それに加えて貧血気味なのか、こうして立っているのも、少ししんどかった。目を瞑ると、上半身が揺らめいた。

 ああ、危ない危ない。寝ちゃダメだよ。

 島村は深呼吸して、目を瞬いた。五秒後。まぶたが勝手に下りてくる。ホームのざわめきも、どこか遠くに聞こえる。間もなく快速電車が、のアナウンスも子守歌のようだ。

 島村はとうとう睡魔に負けて、目を閉じてしまった。項垂れた頭に引きづられるように、上半身が前のめりになり、島村の体はホームから落ちそうに……。


 高橋友彦も快速電車の通過を待っていた。彼は白線のだいぶ後方にいて、人々の背中を眺めていた。考えるのは、今日これから会社で起こりうる、あらゆる叱責のパターンの想像だった。島村が真面目に段取りを考えるのと違って、なんと情けないことか。

 普通に考えて、怒られるよなぁ。

 怒られないパターンの想像には、かなりの無理がある。例えば会社が無法者に占拠され、社員のみんなが拘束されているとして、全員を縛ったからと無法者が安心しきったところへ、遅刻の救世主、堂々と登場。華麗な大立ち回り。よくぞ遅刻してくれた。

 はっ。ねえって、そんなこと。

 高橋は内心で笑い、今日は残業すればいいか、と諦めとともに思う。今日は朝からどうもついてない。目覚まし時計は鳴らないし、変なタクシーには乗っちゃうし、多分怒られるし、散々だ。アンラッキーだ。バッドデイだ。高橋は大きく息を吸い込んだ。

 快速電車の通過のアナウンス。

 高橋は視線を前方に据えた。まばらな人影の間を縫って、最前列に立っている人の背中が見えた。なんとなく、目をそこに固定していた。

 その人の頭が、突然揺らいだのだ。「?」と高橋は目を細めた。

 するとその人影は、支えを失ったかのようにバランスを崩した。気でも失ったのか、ゴールテープを切る短距離走者の姿勢で、前のめりに倒れようとしている。

 それは瞬間の出来事だった。

 記憶のどこに仕舞ってあったのか、高橋の頭には、ある映画の一場面が思い浮かんでいた。荒れた海を疾駆する船、その甲板で捕らわれたヒロイン、そして傷だらけの主人公。銃声、うめき声、スローモーション。海へと落ちていこうとしたヒロインの手と、駆けつけた主人公の手。ギリギリで繋がった、その手と手。

 高橋は駆け出していた。遮る人を肩で突き飛ばし、呼吸も忘れ、必死に手を伸ばした。快速電車は轟音の反響でホームに進入してきている。

 高橋がその手を掴んだ瞬間に、快速電車は通過していった。風に揺れる、高橋のネクタイ。なびく髪。高橋は力の抜けた感じのその人を、引っぱって立たせてやる。周囲には「おお……」といった感心と、無関心とが、半々くらいにざわめいた。

「大丈夫ですか?」

 実のところ、今ごろになって心臓がバクバクしていた高橋だが、殊更に何気なく言った。

「……ええ、大丈夫です、すみません。ちょっと貧血らしくて」相手はそう言ったあと、ハッと気がついたように頭を下げた。「ありがとうございます。ああ、なんて言っていいか……」

「いえ、別に」

 何度も頭を下げられて、高橋は困惑した。人に頭を下げられることに慣れていないし、まして沢山の人の目があるなかだし、そしてなにより、頭を下げるのが自分よりだいぶ年配のおじさんなら、それも当然のことだった。そう、高橋が助けたのは年配のおじさん、もちろん男性なのだ。くどいようだが、おじさんなのだ。

 高橋のとった行動は、かなりのファインプレーだったのだが、おじさんが倒れきらないうちに助けたことで、一見するとあんまり目立たない「小さな親切」のようで、周囲の数人の感心を得たのみに終わり、そう大きな騒ぎにはならなかった。未然に防がれた出来事は、賞賛を浴びにくい。

 おじさんが何度も礼を言い、高橋が「いえいえ」と恐縮するのを繰り返すうち、次の電車がやってきた。おじさんは今日の用事を取りやめて、電車に乗らず、このまま帰るらしい。お大事に、と言うほかない。

 そして高橋は電車に乗った。島村は隣の車両に乗ったようだった。ほどなくしてドアは閉まり、電車はつつがなく走り出す。当たり前の光景だった。とくに何も指示を受けなかった十三号は、ホームに佇み、黙って電車を見送った。

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