第5話 保険会社の広告

 危険極まりない追い越し、度重なるドリフトの末、ようやくタクシーは停車した。

 高橋は五歳くらい老けたように見える顔で、ぐったりとしていた。仕方がないこととはいえ、彼に落ち度はないのにこんな目に合って、なんだか不憫だ。ドンマイ、高橋。

「到着だ」

「へ?」

 まだ頭の整理のできない高橋は、ぼーっと返事をするだけだったが、そんなことにお構いなく、さっさと降りろと言わんばかりにタクシーのドアは開いた。

「早く降りろ」

 ほら、やっぱり言われた。

「え? でもここ……」

「駅だ。駅に到着した」

 そうなのだ。てっきり自分の会社に向かってくれていると高橋は思い込んでいたが、そんなに都合の良いことがあるわけないだろう。運転手、つまり十三号があれほど車を急がせ到着したのは、高橋の会社からだいぶ離れた駅だった。見れば見るほど、駅だった。

「あの、ここじゃないんですけど……」

「ここでいい」まるで客のようなことを十三号は言って、「とにかく降りてくれ。そして駅を利用すればいいだろう。金はいらない」

 帽子とマスクで表情は隠れているものの、冷徹な視線とともにそう言われ、高橋は抗議の声を飲み込んだ。得体の知れない怖さなのだ。もしかして、寝坊するとこうなるぞ、と教訓を与えることに生きがいを見出した運転手なのだろうか。高橋は鼻白む。

 訳がわからないが、ともかく高橋はタクシーを降りた。即座にドアが閉まった。

「……なんだよ」

 短く呟いた高橋は、携帯電話で時間を確かめる。ああ、遅刻。自分の机の周辺で、「あいつは?」「遅刻だよ遅刻、なにやってんだよ」と詰る囁き声の交わされる場面が鮮明に描けて、電話をかける度胸も今はしぼみ、そのまま携帯電話をポケットに仕舞った。決定的シュートを外したサッカー選手のように、空を仰ぎ見た。

〈ふっふふ、すまないな高橋。こっちも仕事なのだよ〉

 宇宙空間から高橋を見下ろしながら、船長は勝ち誇る。

 いつまでも駅前でうだうだしてもいられないので、高橋はしょうがなく駅へと入っていった。地下鉄へと続く階段を下りていく。


 そのころ、高橋が向かっている地下鉄のホームには、島村の姿があった。次に来る電車に乗るため、ベンチに座って待っていた。寝不足なのか、控え目なあくびを一つ。

〈ようし、ここまでは完璧だ。おい十三号、お前も一応、地下鉄のホームに移動しろ〉

 タクシーは、まださっき停車した位置から動いていなかった。

〈わかった、移動する〉

 十三号は応答し、タクシーを降りる。そして着用していた上着を脱ぎネクタイを外し、丁寧に畳んでボンネットの上に置き、帽子とマスクをそれに添えた。アイドルが引退するときのような、儀式的な仕草だった。普通の高性能ロボットに戻ります。


 地下鉄のホームはピーク時を少し過ぎているからなのか、ぎゅうぎゅうの人ごみという感じではなかった、とは言え、閑散という言葉は使えない。サラリーマン、学生、お年寄り、などなど、老若男女が点在していた。

「しかしいつも思うのだが、地球人はよくこんな密集に堪えられるな」

 駅の監視カメラの映像をモニターに映して、船長は半ば呆れる。「これを異常と思わないのだろうか。他人と肩が触れ合う距離感での生活。なんて窮屈なんだ。どうしてそうも集まるのが好きなのか。社会的な動物として進化した生き物の習性の、」

「船長、高橋の姿が見えませんね。どこですか」

 サヨコは船長の話に割り込んで、手にポテトチップスの袋を持ちながら、口をもぐもぐさせて言った。

「なんだよ、せっかく真面目なこと言ってたのに。お菓子食べてんじゃないよ、サヨコ君。……高橋がどうしたって?」

「いません」

「いるだろう」

 ここに、と言って見た地点には、高橋はいなかった。「あれ?」とちょっと慌てた船長は、モニターに目をこらすが、そもそもあんまり鮮明ではない映像に、高橋の姿は見つけられない。いや待てよ、どこかにいるんだ、さっきまでいたんだ、人多いなもう、映像が荒い、お菓子をこぼすなよ、と船長は呟いたあげく、「見失った!」

 船長のみっともない大声は、メインコントロール室に反響した。

「あ~あ」

 相変わらずポテトチップスを頬張って、サヨコは不熱心に言う。

「船長」

「なんだね。今私は空前絶後に忙しい」

「わたしが仕事をするうえで、いつも目標にしている言葉があるのを知ってますか?」

 船長はサヨコの言葉を無視して、モニターに顔を押し付けるようにして高橋を捜している。サヨコは構わずに続けた。

「その言葉を今こそ言いましょう」サヨコはモニターの前に沢山並ぶ、色とりどりに輝くボタンをテキパキと操作した。そして言う。「こんなこともあろうかと」

 モニターの映像が切り替わった。それは地下鉄のタイルから百八十センチほどの高さの視界。徒然に電車を待つ人々、電光掲示板、無機質なホームの風景。さらには、足音やざわめきなども、スピーカーから聞こえてきた。

「十三号アイと、十三号イヤーです。わたしが組み込んでおきました。わたしが」

 説明しよう、なんて大仰なものでもない。名称の通り、その映像と音は、十三号の視界、そして十三号の聴覚なのだ。

 部下にフォローされた感じの船長は、なんとも複雑な表情で、

「でかした、サヨコ君……」

 別段嬉しそうでもなく、サヨコはポテトチップスをむしゃむしゃと食べていた。

「よ、よし十三号、高橋を捜すのだ。見つけたら目を離すな」

〈了解〉

 映像はまさに機械的な等速で、左右に動いた。ウィーンと音が聞こえてきそうだ。そして人々の顔を読み取り、高橋であるか否かを照合していった。

 その場から見える人たちのなかには、高橋はいなかった。十三号はサーチを続けながら、人の間を歩いた。十三号のハンサムっぷりに目を惹かれた人が数人いたが、どの人も高橋ではない。

 そうして十三号の目が、壁沿いのベンチに向いたときだった。ピピピ、とセンサーは反応し、ベンチに座る男の顔を青い枠で囲んだ。照合、枠の色が赤くなる、百パーセント合致、高橋発見、というわけだ。

〈見つけた、ベンチにいる〉

〈こちらでも確認できた。高橋に間違いない。よし十三号、そのまま監視を続けろ〉

 高橋は青いプラスチックのベンチに腰かけていた。もうやきもきと焦っていないところを見ると、遅刻の件は完全に諦めてしまったらしい。今やまことしやかな言い訳を考えるよりも、いっそ清々しく頭を下げるつもりなのだろう。ぼんやりとして、視線をどこへともなく漂わせている。よくよく見れば、高橋は寝癖のついた頭に、ヘンテコな結い方のネクタイという、絵に描いたような朝寝坊ファッションだった。つまり、ダサい。

〈十三号、アレだぞ、あんまり凝視するのも、アレだから、〉

 と注意しかけた船長を、サヨコの声が遮った。船長からマイクを奪い取ったのだ。

〈聞こえる? わたしわたし、サヨコ〉

〈あ、どうも、お久しぶりです〉

 船長はサヨコと十三号の会話を聞いて驚いていた。「サヨコ君には敬語なんだ……」

 そんな船長は置いておいて、サヨコは十三号に呼びかけた。

〈十三号、もう少し左の方を向いてくれる?〉

〈はい〉

 言われたとおり、十三号は首を左に動かした。きっちり十度の水平転回だ。それによって映し出されたのは、高橋の座るベンチのもう一端だった。そこには島村の姿があった。

 宇宙船のメインコントロール室は、俄かに沸いた。と言っても、沸いたのは船長一人だが、ともかく歓声が上がった。

「ヒュ~」吹いたつもりが鳴らない口笛。「サヨコ君、どうだこの映像。あの二人がこんなに近くにいる。ばっちりじゃないか」

 高橋と島村の距離は、空席三人分の空間。高橋と島村は二人とも、何に注目しているでもない自然な表情で、静かに座っている。島村があくびをすれば、高橋は寝癖の頭をかく。その二人が背を向ける壁には、生命保険会社の大きな広告が飾られている。十三号の見ているのは、そんな景色だった。

「船長」

「なんだね」

「浮かれるのは勝手ですけど、まだ何事も起きていません」

「むむ」

 高橋と島村は、目も合わせてなけりゃ、話もしていない。同じ時刻に同じ駅に居合わせた、という以上の関係性は、今のところ二人にはないのだった。

「「出会えばなんとかなる。運命ってそういうもんだろ」」サヨコは船長の口真似をした。「船長は以前そう言ってましたね」

「……」

 映像のなかの二人が待ち望んでいるのは、運命的な出会いや愛や恋なんかじゃなくて、もっと現実的なものだった。電車なのだ。二人の平凡な時間は過ぎる。

「なにやってんだよ高橋、そして島村~」船長は理不尽に憤った。「チャンスだろ高橋、そして島村~。すぐ横に出会いがあるんだぞ、話しかけろよ、ほら。出会えよ、出会え、出会え~!」

 時代劇の悪代官のようなことをわめくも、何事も起こらず、「間もなく快速電車が通過します、危険ですので白線の内側までお下がりください」と駅員のアナウンスが淡々と聞こえてくるだけだった。

 船長の祈りも虚しく、島村がベンチから立ち上がってしまった。快速電車の次の電車に、彼女は乗るのだ。とくにそれを気にする様子もない高橋も、遅れること数十秒、ベンチから腰を上げ、大きな伸びをして、ベンチの傍から去ってしまった。

〈ああ、せっかくのチャンスが……〉

 船長の呟きを聞きながら、十三号はさっきまで二人がいたベンチをまだ見ている。今はもう誰もいないベンチ。生命保険会社の広告。

 その広告には、こんな言葉が書かれていた。


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