第4話 タイトな路地とネクタイと
まだ夜の明けきらない午前五時。十三号は自転車に乗っていた。よくあるシティサイクル、俗に言うママチャリのカゴには、朝刊がぎっしりと詰まっている。十三号はほんの数日前から、この地域の新聞配達をしているのだった。十三号の記憶性能をもってすれば、配る家を覚えることなんて、文字通り朝飯前だった。風貌こそママチャリに似合わないものの、その覚えのよさを認められて、もう付き添いもなく、一人での配達を任されていた。
夜明け直前の清澄な空気のなか自転車をこいで、十三号は新聞を配って回った。ロボットが新聞を配っている、ということが、一番のニュースじゃないのか。まあ、それは置いておくとして、静かな路地に、キコキコと自転車の音がなる。
やがて十三号は、一棟のアパートの前に自転車を停めた。高橋の暮らすアパートだ。必要なだけの新聞を抜き取り、十三号はアパートに入っていった。
二階にある高橋の部屋の前で足を止める。高橋は新聞をとっていないから、新聞配達員に用などないのだろうが、ところがどっこい、今朝はこっちに用があるのだ。
〈よし十三号、部屋の前に着いたな〉
十三号の頭のなかに、船長の声が響いた。
〈ああ〉
十三号は応答する。十三号には、実際に言葉に発さずとも宇宙船と交信できるシステムがあるので、もし傍から見てる人があったとしても、十三号は黙っているようにしか見えなかっただろう。
〈慎重にやるんだぞ、十三号〉
〈わかっている〉
十三号はポケットから、テレビには映せない何やら細長い棒状の物を取り出して、姿勢を屈め、それを鍵穴に突き入れた。もし傍から見てる人があったとしたら、これはもう完全に泥棒の姿だが、十三号の仕事は非常に素早かった。あっという間に鍵が開いた。良かった、ボロいアパートで。
まるでその部屋の住人であるかのような振る舞いで、十三号は高橋の部屋に侵入した。
高橋の部屋は、目を背けたくなるような乱雑さではないものの、やっぱり男の一人暮らし、生活感が溢れに溢れていた。しんと静まり返った室内を、十三号は土足で進んだ。
狭い部屋のベッドの上に、あられもない姿の高橋が寝ていた。見ていてあまり楽しいものではない。
十三号の目は部屋に転がっているものを、ピピ、ピピ、と認識していき、やがて枕元に置いてある目覚まし時計を見つけた。時計の針は、午前五時三十分を指していた。ザ、早朝。
その目覚まし時計を手に取り、十三号は裏面のツマミを操作した。もうこれで、目覚し機能は作動しない。ついでに高橋の携帯電話にも手を伸ばして、アラームを設定していないことを確かめた。つまりもう、高橋の眠りは何者にも邪魔されない。目覚まし時計をオフにする、という、この単純ながらも社会的に致命的な行為。よく眠れ、高橋。
仕事を終えた十三号が、さっさと部屋を去ろうとしていたところ、ふと壁にかかったダーツに目がいった。それは十三号の頭のなかの高性能コンピューターのちょっとした気まぐれ。十三号はダーツの矢を抜き、部屋の最も遠い位置から、何気なく矢を投げた。トスッ、小気味良い音で、矢はド真ん中に突き刺さった。
これの何が面白いのだ? とばかりに十三号はノーリアクションで部屋を出ていく。
それから数時間後。もうすっかり朝だ。いつもの高橋なら、とうに会社に向かっているはずの、そんな朝。しかし今朝は目覚まし時計が鳴らず、すやすや眠ったままの、そんな朝。
宇宙船のなかでコーヒーを飲んでいた船長は、時間を確認して、十三号にゴーサインを出した。
〈わかった、実行する〉
高橋のアパートのすぐ前で待機していた十三号は、そう応答して、高橋の部屋に向かった。知り合いでもない男の部屋の前に、この数時間で、もう二度も訪れている。
部屋の扉の前に立った十三号は、呼び鈴を連打した。人間には真似のできないような、高速の連打だ。そのうちボタンがめり込むんじゃないか、というほどの。
やがて船長から通信があった。
〈よし十三号、もういい、高橋は起きたようだ。その場を離れてくれ〉
十三号は憑き物が落ちたように手を止めて、颯爽と立ち去った。さっき不法侵入をしたうえに、今度はピンポンダッシュ。悪戯では済まされない悪行だが、良心の持ち合わせのない十三号は、平然としていた。
さて、鳴り続ける謎の呼び鈴に起こされた高橋は、ベッドのなかでうつらうつらしていた。寝ぼけた頭で、毎朝思うことをそのときも考えていた。
……んもう、なんだよ、もう朝かよ、うっそだろ~。
呼び鈴が鳴っていたような気がしたが、どうやら何かの間違いか、直前までの夢だったらしい。そう説明をつけなければ、あの連続的な音は腑に落ちない。
高橋はアクロバティックな伸びをして、そのついでといった感じに、枕元の目覚まし時計に手を伸ばした。手探りでそれを引き寄せる。
……あと一時間くらい眠れる時間だったら嬉しいなぁ。
淡く、都合のいい期待を胸に、高橋は目覚まし時計を顔の前に持ってきた。
「んあ?」
これが高橋のその日の第一声。間抜けな声に遅れること約三秒、高橋は跳ね起きた。眠気眼に目覚まし時計を押し付けても、見間違いなんてことはない。実は日曜日なんじゃないか、本当は時計の故障なんじゃないか、そんな風な理由を一瞬のうちに考えたが、そんなことよりも合点のいく心当たりが、高橋の頭のなかを埋め尽くした。すなわち、寝坊。携帯電話がそれに同意した。
その様子を宇宙船から眺めている船長は、「よしよし、慌てろ慌てろ」と悠長にコーヒーをすすりながら呟いていた。
言われるまでもなく大慌ての高橋は、ゴミ箱を蹴飛ばしテーブルに足をぶつけ、すっ転びそうに部屋の中を右往左往して、とにかくスーツに着替えた。たまたま手に取ったネクタイは、毒ガエルのような目に痛い柄で、それがまた、何というか前衛的な結い方になったが、気にもしていられない。本来なら今ごろ、バスに乗っていなければならない時間なのだ。
靴を履くのももどかしく感じながら、高橋は部屋を飛び出した。玄関の鍵が開いていた不思議など、微塵も考えなかった。ネクタイをなびかせ通路を急ぎ、階段を一段飛ばしで駆け下りる。残念ながら、トーストはくわえていない。
早くもぜえぜえと肩で息をして、高橋がアパートの前までくると、そこに一台のタクシーが停まっていた。渡りに舟ならぬ、遅刻にタクシーだ。高橋は瞬間的にすがりつきかけたが、すぐに懐具合が気にかかった。それはもう心細いのだ。その財布は「シータクで出勤かよ、偉そうに」とぶつくさ文句を言っている。それでも高橋が、ぐずぐずと決めかねてタクシーに目をやると、運転手と目が合った。運転手は帽子を目深にかぶり、風邪でもひいているのか、口にはマスクをしていた。
〈十三号、とにかく高橋をタクシーに乗せろ〉
〈わかっている〉
高橋はやっぱり出費が惜しく、一か八か、上司が急に休んでいて遅刻しても怒られない、という奇跡に賭けることにした。それで遅刻がなかったことになるわけではないが、怒られなきゃそれでいいのだ。
そうして高橋がバス停へと走り出そうとすると、それを見計らったように、タクシーのドアが開いた。さらに、ウィーン、と窓も下りた。なんだかウエルカムな雰囲気。
「乗ったほうがいい」運転手はぶっきらぼうに言った。「急いでいるなら乗るべきだ。タクシーは早い」
夏は暑い、夜は暗い、と言うような調子で、運転手は言った。その斬新な誘い文句に、というよりは運転手の異様な迫力に押されて、高橋は恐る恐る、タクシーの横まで近づいた。少し怪訝な顔で、窓から運転手を覗き見た。
「乗らないと大変なことになるんじゃないか」
運転手は道の先を見つめながら、言葉とは裏腹に、泰然と呟く。
「まあ、遅刻は大変なことですけど……」
「地球が滅びる」
「え?」
運転手が壮大なことを言ったようだが、聞き直しても、もうそれ以上なにも言わなかった。冗談なら笑って言ってくれないと分かりにくいよ、と高橋は思う。
運転手は不気味だし、出費も痛いのだが、結局高橋はタクシーに乗ることにした。悩んでいる時間はもうない。始業まであと、十分を切っていた。どう急いでも遅刻は遅刻だが、それでも早いほうがいいに決まっている。もし上手くいけば、会社には来てたけどトイレに行ってました、へへ、みたいな顔もできる。高橋はタクシーに乗り込んだ。高橋にとっては「やむなく」だが、船長にとっては「まんまと」だ。
〈よし、乗ったな。行け十三号!〉と船長ははしゃぐ。〈発っ進!〉
高橋が乗り込んだ途端に、足を挟んでやれとばかりにドアは閉まった。高橋がシートにもたれるが早いか、タイヤの悲鳴も高らかに、タクシーは急発進で走り出す。高橋は短くうめいて、目を白黒させた。
住宅街の細い路地を、タクシーは猛スピードで走った。かつてこのタイトな路地で、これほどの速度を出した車があっただろうか。いや、あるまい。これからもあるまい。
前方にはやや大きな道との丁字路が見えてきた。こちらの信号は今、黄色になったところだった。これほどの速度を出す無謀なドライバーが、イエローストップなどするわけもなく、速度もそのままに右折を試みる。タクシーは後輪を滑らせ、火の出そうな音を立てながら右に折れた。ドリフトだ、ドリフト。高橋は遠心力で左にふっとんだが、運転手は手際のいいハンドルさばき、的確なシフト操作で丁字路を抜け、さらにアクセルを踏み込んでいた。狂気の運転だった。高橋は何度も、「ちょっと運転手さん」とか「あの」とか「その」とかを言いかけたが、その度に追い越しの車線変更をされ、右に左にと吹き飛ばれるのだった。
そんな高橋が青ざめた顔で窓を見やると、今タクシーは、本来高橋が乗るはずだったバスを追い越したところだった。そのバスが、どんなにのんびりと平和に見えたことか。
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