第2話 彼と彼女

 高橋友彦、二十七歳。あまり大手でない建築会社で働いている。三階建てアパートの二階に一人で暮らし、波風の立たない地味な日々を送っている。

 高橋の朝は、たまらない眠気との戦いからはじまる。睡魔は「寝てようよ」と囁き、常識は「いや、起きねば」と詰め寄る。布団のなかで葛藤するうち、常識が根負けして、「そう? 寝てる?」とくじけて、寝坊してしまったことも、一度や二度ではない。

 それでもともかく起床して、スーツを着、高橋は会社へ行く。朝食は抜き。バスに乗り、二十分くらい街中へ向かったところが、彼の職場だ。

 書類を作成したり、電話をかけたり、得意先へ出向いたりと、高橋は大過なく仕事をこなす。目を見張る成果は上げないものの、致命的なミスもおかなさない。必要なのはきっちりした真面目さなのだ。才能は求められず、高橋友彦でなくては、ということもない。

 高橋はそれでも、今の仕事が好きだった。

 建築会社に勤めているからといって、街のなかで伸びていくビルや、新しくできた家屋を見て満足感にひたるような、そんな職業的な感慨はあまりなく、単に一つ一つやるべきことを片付けていくという、いわば純粋に、働くことに満足しているのだった。中々感心じゃないか、高橋。

 そうして高橋は、日が暮れたころに仕事を終える。

 たまに同僚や上司と酒を飲みに行くこともあるが、そうでないときには、真っ直ぐに家に帰る。別に何をするでもない。コンビニの弁当を食べ、缶ビールを飲む。テレビを見て笑ったりなどする。夜が更ける。

 時々、将来のことを考える。

 友人のなかには、すでに結婚して子供がいる者もある。そんな話に接したとき、高橋は「すげえな」と思う。なんか大人みたいじゃん、と。二十七歳も、立派な大人だ。だけど高橋には、今ひとつそんな実感がない。誰かと結婚することや、子供が生まれることや、家庭を築いていくなんてことが、この先の自分にあるのだろうか、と考えると、心細くもなる。

 そんなことを考えた夜は、殊更苦く感じるビールを飲んで、さっさと寝てしまうのだ。

 これの繰り返しが、高橋の毎日だった。

 高橋は頭のどこかで思う。

 足りないものはなんだろう?



 島村咲子、二十五歳。出版社勤務。六階建てマンションの五階の部屋で、一人暮らしをしている。平穏に、ゆっくりとしたペースで、毎日を過ごしている。

 目覚まし時計に起こされた彼女は、ぼんやりしたまま台所に行く。そしてそこで、味噌汁を作るのだ。島村はおばあちゃん子で、そのおばあちゃんの教えが習慣になっていて、毎朝、味噌汁だけは作るようにしている。

 朝食を済ませた島村は、身支度を整えて仕事に出かける。地下鉄に乗って三駅先、少しくたびれたビルのワンフロアが、彼女の職場だった。

 出版物というのは非常に多岐にわたるものであって、大抵の事柄には、それ用の専門誌があるものだ。かゆいところに手が届くのは当たり前で、どこがかゆい人用だよ、この孫の手は、というような月刊誌が出ていたりもする。

 島村の勤める出版社の刊行物が、まさにそうだった。月刊バンジージャンプや、月刊工業機械など、隙間すぎる月刊誌を発行していた。毎月書くことがあるのだから、驚きだ。

 島村が携わっているのは、唯一売れ筋の「月刊剣道」という雑誌だった。どこかで行われた大会を取材し、インタビューをまとめて、記事にする。それが彼女の仕事だった。

 島村は仕事にやりがいを感じていた。

 取材をするのも面白いし、自分の書いた記事が、それがどんなに短文でも、出版物として刊行されるのは、誇らしく思えた。

 仕事が差し迫っていない限りは、島村は大体いつも、定時で帰ることにしていた。自宅最寄りのスーパーで買い物をして、暗い部屋に帰宅する。鍵を開けて、玄関の扉を開く瞬間。その瞬間は島村にとって、これこそが寂しさだ、という風に感じられるのだった。

 眠るまでの時間、島村はインターネットをしたり、友人とメールをしたり、自分の会社からは決して出版されることがないオシャレな雑誌を読んだりする。

 インターネットでは知らない誰かの面白い話を見つけることがある。友人からのメールに笑うこともある。オシャレな雑誌の素敵なバッグに惹かれることもある。

 だけど、心のどこかに、なにかがもやもやと積もるのも感じる。涙に変わるほど苦しくなく、ため息が出るほど憂鬱でもない。仕事をしたり、笑ったりすれば、簡単に忘れられるわだかまり。でも、拭い去れない空虚感。

 そんなときに島村は、そっと深い呼吸をする。

 島村は思う。

 足りないものはなんだろう?



「それは恋だよ」

 地上のはるか上空、静止軌道上に浮かぶ宇宙船のなかで、船長は腕を組んで呟く。

「恋。それは人間にだけ許された、心の甘いつながり。愛という糸を手繰りあう、美しき現象。愛してる、アイラブユー、ウォーアイニー、ジュテーム。……ジュテーム、ジュテーム、五劫のすりきれ、つって。ふふふ」

「なに言ってるんですか?」

「うおっ!」

 ふいの声に、船長は帽子を飛び上がらさんばかりに驚いて振り向いた。

「な、なんだサヨコ君か。君、足音ないな、忍者か」

「いいえ」

「知ってるよ、ふん」

 船長はずれた帽子を整え、椅子の背もたれに寄りかかった。サヨコも所定の席に座った。二人して、モニターに映る地上の様子を眺める。そこには、高橋と島村の生活圏内にある、あらゆる監視カメラの映像がずらりと映っている。コンビニエンスストアのものや、犯罪防止のための街頭カメラなど、そこにカメラがあれば、宇宙船の科学力をもってして、ハッキングが可能なのだ。もちろん、衛星軌道から見下ろす目もあるので、屋外であれば、カメラが無くても二人の動向を追うことができる。見たいのにカメラが無い、という困った場合には、十三号が出向いて、スパイさながら、そこに高性能のカメラを仕掛ける。高橋と島村の部屋に仕掛けたものがそれだ。

 たくさん並ぶモニターの一つに、街中を歩くスーツ姿の高橋がいた。一仕事を終え、会社に戻る途中らしい。イッチョマエの社会人っぽく歩いている。また別のモニターには、定食屋で昼ごはんを食べる島村がいた。同僚と笑いながらも、焼き魚を素晴らしくきれいに食べていた。さすがおばあちゃん子だ。

 しばらく監視を続けていた船長は、「ふあーあ」と大あくびをして、

「早くくっつけよ、んもう~」

「ですからわたしが以前から言ってるじゃないですか。船長のやり方は迂遠です」

 サヨコは船長から少し離れた持ち場から、鋭く声を投げた。そんなことだから、と言葉が続きそうだった。

「分かってるさ。しかしサヨコ君、あまり強引なことはいけない。二人が勝手にくっつくのが一番なのだ。自然だし、スムーズだし……何より我々も楽だし」

「船長、楽がしたいんですか?」

 サヨコが訝しげに船長を見やった。船長は鼻息を一つ飛ばして、

「当たり前だろう。仕事なんて楽な方がいいに決まっている。いいかサヨコ君、私は出来れば、働かずに給料をもらいたい」

「船長……」

 かわいそうなものに向ける声でサヨコは呟き、なにやら分厚い書類を取り出して、わざわざ歩いて船長の前にバサリと置いた。それは、今回二人が携わる任務のあらましをまとめた書類だった。

「読めば?」

「敬語敬語、サヨコ君、せめて敬語」


 地球よりはるかに科学の進んだその星は、地球人の距離感から言えば、無限の彼方にあった。まったく別次元の世界と考えてもいいかもしれない。

 これまた地球人から見れば、未来的に完成されたその星で、住人たちはおおむね平和に暮らしていた。優れた科学技術は、エネルギーや土地を原因とした争いに、涼しい解決をあたえた。奪い合う必要がなければ、戦争なんて起こらないのだ。

 自分たちの星を開拓しつくし、発展しつくした住人たちは、海外旅行の気軽さで宇宙へ出かけるようになった。手近な惑星は観光地になり、少し離れた惑星に文明を見つければ、惑星間の貿易も行われるようになった。その星の住人にとって、宇宙こそが、最後に残された秘境だった。

 テレポート技術が発明されてからは、それはいっそう加速した。結成された探検隊は、様々な銀河へ飛び、多種多様な文明と出会った。真っ赤な空の下で暮らす、金属質の生き物の星。強酸の深海に文明を築いた水棲生物の星。バーチャルな世界を完成させ、全員がデータとして生きることを決めた星。

 そしてあるとき探検隊は、美しい星を見つけた。その星は、青く輝いていた。探検隊の一同は、不思議な郷愁を感じた。うっとりした隊員の一人が、望遠鏡から地上を見下ろし、こう感嘆した。まるで以前の我々の星ではないか。

 住人の姿、文明の方向性、自然環境。それらは科学技術が高度に発展する以前の、彼らの星にそっくりだった。都会から田舎に帰ったときの懐かしさ。それを何倍にもしたような郷愁に、彼らの心は打たれた。

 すぐにでも地上に降りて、文化交流をしたかった探検隊だが、望遠鏡に映った別の地域を見て、浮かんでいた笑みを消した。

 そこでは、探検隊から見れば拙い武器を使っての、醜い戦争が行われていた。銃弾が飛び交い、爆撃の雨が降り、ミサイルが空を駆け巡る。自然環境も捻じ曲げられていた。このままでは、いずれ取り返しのつかない事態になるのは明らかだった。

 すっかり失望しかけた探検隊だったが、やっぱりどうしても、自分たちに似ている存在を見捨てることはできなかった。たくさんの資料を集め、なんとかしてやろうと心に決め、ともかく一旦、自分たちの星へと帰っていった。

 その後、彼らの星では会議が開かれた。会議で有力だったのは、「我々が科学力をもたらせば、争いは収まるのではないか」という案だった。しかし地球人の性格を調べてみると、異星人なるものは侵略者に決まっている、と疑い深い意見をもった者ばかりなことが分かった。異星人はまだまだ、サイエンスフィクションの域を出ないのだ。

 会議が低調になったところで、素晴らしい性能のコンピューターが使われることになった。こう、ハードディスクとかCPUとかが、なんというか、すごいのだ。地球にまつわるデータが、そこに投げ込まれた。コンピューターは超高速で演算し、これから地球が辿るあらゆる未来を導き出した。トーナメント表を逆さまにしたような枝分かれだ。地球を待つ未来は、どれもこれも絶望だった。大抵は戦争が原因だった。戦火、戦火、戦火。

 しかしたった一つだけ、奇跡の生き残り、極楽から垂れた蜘蛛の糸のような、生存の未来が残されていた。

 その未来では、ある一人の天才的な物理学者が存在していて、新しいエネルギーが発明され、それにより環境資源を奪い合う戦争が収束するのだった。

 では、その人物が生まれる未来とはどんな未来か。

 コンピューターが提示したのは、一組の男女。天才物理学者の父となり母となる、ミラクルな組み合わせ。タカハシトモヒコと、シマムラサキコ。この二人が結婚する未来だ。

 会議室は安堵に包まれた。

「なーんだ、いけるじゃん。この二人、結構近所に住んでるみたいだし、まだ若いし、いけるいける。楽勝じゃん」

 みんなそう考えた。

 事が意外に簡単そうなので、手の空いている者がその仕事を担うことになった。かわいそうなので、部下を一人だけつけて。

 出発前、壮行会のようなものが行われ、上役が激励した。

「諸君の健闘を祈る!」

「あ、はいはい」

 温度差はあったものの、そうして一艇の宇宙船が飛び立っていった。

 かくして作戦は開始されたのだった。

 地球を見下ろすアダムスキー型の宇宙船。一組の男女に愛をお届けするキューピットになった(つもりの)船長は、あるときうっとり、自身の乗りこむ宇宙船をこう呼んだ。

 恋愛衛星。

「はあ?」

 とサヨコは眉を、それはそれはひそめていた。

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