2.金魚
友人は右肩のうしろに金魚の刺青をひとつだけいれていた。なんで金魚なのかと訊くと「可愛かったから」という簡素極まりない答えが返ってくる。図版をめくっているときに見つけて、一目惚れだったそうだ。たしかに見せてもらったそれは丸々としたフォルムで、大袈裟すぎないひれやしっぽもあいまって、なんとも可愛らしい金魚ではあった。
友人はその右肩の金魚をたいそう可愛がっていて、暑くないか寒くないかといつも気を配り、寝る時は金魚が自分の体の下敷きにならないよう、いつも右側が上になるように横向きになっているのだと言った。
初夏のある日、友人は金魚の刺青をもうひとついれた。
「金魚って群れる魚らしくてさ、一匹だと寂しいと思って」
そう言いながら肩に増えた刺青を見せてくれた。今度の金魚は少しだけ身が細くて、なんだか泳ぐのも速そうに見えた。
「おお、今度の子はなんだかシュッとしてるね。イケメンだ」
私の感想に、友人は満足げに頷いた。二匹の金魚はまるで最初からそうなると決まっていたかのようにごく自然に寄り添いながら、友人の肩を泳いでいた。
二匹の金魚は仲睦まじく暮らしていたようだが、梅雨があけた頃に友人に会うと、ずいぶん気落ちした様子だったので驚いた。あとからいれたほうの金魚が突然死んでしまったのだそうだ。
「環境に馴染めなかったみたいなんだ。気をつけていたつもりだったんだけどなあ」
刺青の金魚が死ぬ、というのがどういうことなのかさっぱり分からなかったが、見せてもらった右肩からはたしかにシュッとしたほうのイケメン金魚が消えていたし、残った金魚もこころなしか元気をなくしているように見えたし、何より友人がすさまじく落ちこんでいたので、私は必死に話を聞いて励ました。その甲斐あってか友人は寂しげではあるものの、いくらか笑顔を取り戻して帰っていった。
最初の金魚まで死んでしまったという連絡がきたのは、それから半月後のことだ。
「やっぱり寂しかったんだろうな。俺、なんにもできなくて。悪いことしたなあ。伴侶を作ってやろうとか、安易に考えるんじゃなかった」
電話から聞こえる声は細く震えていて、さすがにこれはまずいと思った。すぐにでも会って慰めてやりかったが、あいにく遠方への出張中で、駆けつけることもできない。連絡だけは絶やさないようにしながらもどかしい数日を過ごし、出張から戻るとその足で友人の家に走った。
息ぎれしながら玄関までたどり着いたが、迎えに出た友人は意外にも元気そうだった。わけを訊くと「実は」と恥ずかしそうに言いながら背中を見せてくれた。きっと数日前には空っぽだったであろうそこには、細かい点がたくさん浮いていて、何かと思ってよく見てみれば、無数の細かい点のひとつひとつが小さい魚のかたちをしている。
「卵を産んでたみたいなんだ。今朝から少しずつ稚魚が出てきて、今はこんなかんじ」
大事にしていた金魚の忘れ形見だ。背中に腕をまわして愛おしげになでる仕草は、とてもやさしい。
「すごいね。たくさんいる。まだ産まれるのかな」
「卵はもう少しあるみたいだから、もう少し増えると思う」
たしかに、じっと見ているうちにもどこからか稚魚が現れて、背中に散らばる稚魚の密度が増してきた気がする。稚魚たちは背中全体に広がり、自由自在に泳いでいる。そうしているうちに、それぞれの個体がだんだんと大きくなり、金魚と分かるかたちになってきた。猛烈な勢いで成長しているのだ。
小さな金魚たちは見る間に大きくなりながら広い背中を行き交い、群れをなして渦をつくり、縦横無尽に泳ぎまわる。ふと見ると、その群れの中央に、いつの間にか友人自身の姿があった。彼もまた金魚の姿になって、背中の水槽をすいすいと泳いでいる。見失わないように目を凝らしてその姿を追いかけたが、あまりにもたくさんの金魚が重なり合って動きまわるので、いつの間にか見失ってしまった。言葉を失くした私の目の前で、金魚たちの泳ぎは大きな渦となって眼前いっぱいに広がる。その渦は私の視界を埋め尽くし、すべてを押し流し、世界を飲みこみながらさらに勢いを増していった。
文月 傘立て @kasawotatemasu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。文月の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます