文月
傘立て
1.黄昏
「黄昏とか黄泉とかさ、なんで黄色くないのに黄って字が入ってんだろうな?」
静寂を破って話しかけられた。マグカップを置いて本から顔をあげると、ベッドを背もたれにして床に座った先輩が窓の方に顔を向けていた。脚を投げ出しただらしのない姿勢で、火のついていない煙草を指先で弄んでいる。
「なんですか急に。知らないですよ」
「……だよなあ」
口にはしたもののたいして深い疑問ではなかったらしく、だよなあ、の声からはすでに興味の色は失せている。要するに退屈なのだ。夕暮れどきの窓の外の暗がりを見て、黄昏の漢字の意味なんてものに思いをめぐらしかけるぐらいには。
退屈はこちらも同じなので、本を置いてスマホで調べてみることにした。退屈を紛らわす程度の調べものであれば、情報は簡単に手に入る。検索結果の羅列の上で少し指を滑らせるだけで、それらしい記事が見つかった。
「ああ、これですかね。黄泉のほうは中国の五行思想がもとになってるみたいですよ。死者の国が土の下にあって、五行で黄は土を表すから、この字らしいです。黄色とは関係ないようですね。黄昏のほうは説がいくつか出てくるから正解が分からないけど……、夕暮れの最後の色が黄色だとか、黄は太陽のことでそれが暮れるから黄昏だとか」
「夕暮れの最後って、黄色?」
「どうでしょう。あんまり空の色をちゃんと見る生活をしていないので」
外はちょうど黄昏どきだ。半開きのカーテンに細く切りとられた空は、部屋の奥からはただの暗い紺色に見える。今ベランダに出て遠くの空を見れば、正解を得られもするのだろうが。
黄昏。誰そ彼。声には出さず口の中で反復する。世界が夜に置き換わる前の一瞬。すれ違う人の顔も隠す夕闇の時間。黄昏の闇はカーテンの隙間から部屋の中まで浸食しているようで、目の前の先輩の表情もなんとなく見えづらい。きっと色々なものの形や境界があやふやになる時間帯なのだろう。
「先輩、コーヒーでも淹れましょうか」
自分の分のマグカップしか出ていないことに気づいて、慌てて申し出る。うっかりしていた。いつもはそんな失礼なことはしないのに、今日に限ってどうしたのか。先輩は小さく声をもらして笑い、「いや、いいよ。煙草吸ってくる」と立ち上がった。
煙草と灰皿を掴んでベランダに出ていく先輩を、手を振って見送った。いつもの習慣で、通ったあとの掃き出し窓はきっちり閉められる。捲られたあとのカーテンは静かに揺れてもとの形に戻った。先輩が出ていった窓をぼんやりと見つめる。なぜ先輩がいるのにお茶も出していなかったのだろう。いつから先輩がこの部屋にいたのかも、どういうわけか思い出せない。今日は朝からずっと一人で部屋にいて、誰とも会うつもりはなかったはずだ。部屋に迎え入れた記憶もない。なぜさっき話をしていたときに先輩の表情が見えにくいなどと思ったのだろうか。たしかに黄昏どきだが、暗いのは外だけで、部屋には本が読める程度の明かりがついているのに。先輩の挙動におかしいところはなかった。掃き出し窓を開ける音も、背の高い後ろ姿も、丁寧に窓を閉める手つきも、見慣れたいつもどおりの光景だった。──見慣れた、いつもの。
あの日と、同じ。
はっとして立ち上がり、ベランダの方へ駆け寄った。鍵を開け、勢いにまかせて窓を開け放つ。片足で踏みこんだベランダには、先輩の姿も、灰皿も、煙草の匂いも残っていない。取り込み忘れた洗濯物だけが、夕闇の中で風に揺れている。
なぜ忘れていたのだろうか。先輩をベランダに行かせてはいけなかったのに。また私は間違えたのだ。なまぬるい風が吹いた。私がここに移り住むより少し前の三年前のあの日、五階建てのマンションの最上階にあるこの部屋の住人だった先輩が、煙草を吸うと言ってベランダに出た直後に柵を越えて身を投げたのも、今日と同じように暗い黄昏の時間だった。
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