サユの抜け殻

文月瑞姫

 エビの抜け殻がまるでガラス細工だというツイートが流れてきました。見ると、目のあった場所から足の先端、触覚までも透明な原型を留めており、確かに精巧なガラス細工のようで、水から揚げられたばかりのそれはなんとも艶めかしく映りました。

 そのツイートを見たとき、私はかつての悪事を思い返して、くすりと笑ってしまいました。


 あれはもう随分と昔の話です。同じ大学の同じサークルに、サユというひとがいました。本名はさゆりか、さゆみか、さきえだったか、確か「さ」で始まるということだけは覚えていますが、それすら定かではありません。彼女と私は互いに親友と呼び合える仲でしたが、それでも名前を憶えていないのには仕方のない事情があります。

 彼女は二年で退学したのですが、それを機にインターネットの住人になってしまったのです。そこでのアカウント名がサユで、他の呼び方は許されませんでした。

 リアルでは本名で呼んでいたはずですが、次第にサユと呼ぶようになり、逆にサユと呼ばないのが落ち着かなくて、本名を忘れてしまったのです。インターネットの住人としてはサユこそが本名でしょうから、あるいは本名で呼ぶ習慣を失っていないとも言えるでしょう。


 さて、そんなサユの話ですが、私とサユは本当に仲が良かったのです。仲が良すぎたと言っても良いでしょう。それが災いして、ある日こんなDMが送られてきたのです。


「サユとしてはもう別れたつもりだろうけど、俺はきちんとしたい。最後に会って話をさせてほしい。頼む」と。


 これが何故私に送られてきたのか、最初はしばらく戸惑いました。間違いですよ、というのは憚られたのです。これは単に私の性分ゆえなのですが、分からないことがあると分かるまで考えたかったのです。

 間違いなのは当然ですが、十分待っても訂正がなかったことから、単純な送り先間違いとは思いづらい。となると、私のアカウントをサユのものだと勘違いしていることになります。そんなことがあるか? と思った先で、自分のプロフィールを見たところ、「なるほど」と声に出ました。

 その頃、ほんの悪戯か、ペアルックのつもりか、私はサユのアカウントを表垢と、サユは私のアカウントを裏垢として表記していました。きっと彼はサユからブロックされていて、やっとの思いで連絡が取れそうな先を見つけて勢い任せに送信してしまったのでしょう。

 そうだと分かった時、私の中で、ただの悪戯心とは言い難い、もっと固執的な、邪な考えが蠢いていました。だって、サユに彼氏がいたなんて知らなかったのです。親友のサユが、私に一言も話さない彼氏の存在。そんなものを認知してしまって、「ズルい」と思ってしまったのです。私よりもサユを知っている人間がいる。私よりもサユに近い人間がいる。そんな事実が許せなかったのです。


 だからでしょうか。ふと、思いついてしまったのです。親友より彼氏より、サユに近い存在になってしまいたいと。


「少し離れて考えたかっただけだよ。本当は今夜こっちから連絡するつもりだったんだけど、わざわざ来てくれてありがとう」


 サユらしい言葉ってどうだろう、こんな感じかなって、何回か書き直して送りました。これを打っている最中は何も気付かなかったのですが、私の口内は涎で一杯になっていました。ふふ、へへ、と笑いながら、涎を垂らし続けていたようです。その理由を何か他人事のように考えた私は、今まさにサユという存在を喰らおうとしているからだと理解し、涎を深く飲み込みました。

 相手が私だと知ることもなく、彼は喜んでいました。死んだのだろうと諦めていた人間が本当は生きていた時のような、心の底からの歓喜を見せていました。私も釣られて笑います。

 連絡先のブロックを解除してほしいとも言われましたが、「自戒として残したい」なんて言えば、彼はすんなり受け入れるのでした。きっと彼としては、また話ができる、またやり直せるという巨大な希望の前では、他の何が無くとも良かったのでしょう。


 その日から彼と会話を重ねつつ、ツイートもサユに寄せるように心掛けていました。好都合なことに、サユはネットゲームにでも没頭しているのか、しばらくツイートの一つもありません。何なら、このままサユという存在が消えてくれたら良いな、なんてことも思っていました。悪意の類ではなく、ただサユという概念を脱ぎ捨てて、私のために置いて帰ってはくれないかと、そんな妄想に浸っていただけです。

 事実、数日もしたらサユは平然と帰ってきましたし、私も平然とサユに話し掛けていました。案の定、ネットゲームに籠っていたそうで。恐らく彼氏と別れたことが原因でしょうが、若干雰囲気が変わったように見えて困ったものです。彼氏と別れなかった世界のサユは、きっと今のサユとは違う存在だから。


 同時に、彼についても調べました。彼のツイートから「彼女」とか「大学」とか「友達」、「仕事」、「職場」、「サユ」といった単語で検索を掛け続け、断片的な情報を手繰り寄せたのです。

 新宿のIT企業で働くエンジニアで、恐らく27歳。誕生日は9/7。東京大学から院を出て就職。趣味はネットゲームで、サユと同じゲーム。恐らくそこで知り合った。交友関係は、付き合う相手を選んでいるのか比較的狭い。倹約家な一面が見え、綺麗好き。週末はジムに通う健康志向も見えるが、宅配のピザを隔週で頼んでいる……

 恋人の存在は、サユがそうだったように、全く表に出していません。サユと付き合ったのは恐らく二か月前。「こんな日が来るなんて思っていなかった」なんて、幸せそうなツイートを見つけたから。更に言うとそれ以降、女性フォロワーとの接し方が微妙に遠くなっているようにも思えます。露骨ではないし、サユと付き合っていた事前情報がなければそんな風には見えなかったでしょう。

 人柄というのは断片的な情報からも伝わるもので、意外と好印象でした。サユが選んだひとですから当然でしょうが、非常に理性的で聡い人間に思えました。そう、私はこういう男が好みなのだ。


 「ねえ、サユ」と声を掛けてみると、サユは「何?」と淡白な返事をします。彼氏を失い、以前見ていた温厚さを失い、まるで別人になったよう。「ごめんね」と一言掛けました。「何が」と聞かれますが、答えません。

 サユの名を借り、サユだったものを演じて、言わばサユの抜け殻を着ている私は、どうにも美しく思えました。サユのことは親友にして憧憬の対象でしたが、もはや恋をしていると言っても間違いではなかったように感じます。でなければ、ここまでサユを演じようだなんて思わなかったでしょう。そう、きっと私はサユが好きだったのです。


「今度、仲直りも兼ねて会いたい」


 彼はそう言いました。これはまずいな、と思ったのですが、どうやら二人は会ったことがないらしいのです。インターネットの住人は会ったこともない人間と交際ができるのかと、驚きこそしましたが、サユならば不思議ではないとも思いました。

 サユは自らの容姿や年齢といった身体情報を開示していませんし、変装の必要すらないと思えば、気楽に了承してしまいました。


 その日、万が一にもサユに会ってしまわないよう、サユに尋ねておきました。今日は出掛ける予定があるかと。すると、どうにも彼女は実家に帰っているらしいのです。一週間は帰らないそうなので、その手の事故は避けられそうです。

 彼は文面から感じられる程度には理知的なひとでしたが、同時に情熱的なひとでもありました。待ち合わせ場所で私をサユだとすぐに理解し、第一声より先に抱きしめられたのです。「ずっと、会いたかった」なんて言葉を吐かれながら、返事ができずにいました。私の口内は涎で一杯で、口を開くことも難しかったのです。

 それから街を歩きつつ、「サユは食べたいものある?」「サユはこの辺りよく来るの?」「サユってリアルだとそんな感じなんだね」なんてサユの話を延々と聞かれるので、「ファミレスが良い」「違うと思うよ」「そうだよ」と、サユのことを答えていました。


「この後、予定とかある?」

「ないよ。どうして」

「私の家、来ない?」


 どうしてそんなことを言ったのか、まるで分かっていませんでした。でも、それがどういう意味を持つのか、全て分かった上で言いました。二人でサユの家まで歩く道中、繋いだ手が汗ばんでしまって、少し緩めたい気持ちで一杯でした。でも、彼の手は私の小さな手には余って、離そうにも離せないように感じられたのです。


「ここ。二階だから」


 サユのアパートが見えて、少し手を離した時、風がひどく冷たく感じられました。手のひら一杯の汗を服の裾で拭って、そのままの手で鉢植えの下に置いてある鍵を拾い、玄関を開きました。片付けをしたいからと彼を待たせて、サユの家に踏み入れます。まだ、サユがリアルの住人だった頃、何回か遊んだ家でした。


 「寒い」。声に出して言いました。夏場の銀行のような、急な温度変化に体が驚いていました。クーラーを点けたまま出て行ってしまったのでしょうか。いいえ、そうではないとすぐに分かりました。

 クーラーに限界まで冷やされた部屋で、サユは眠っていました。ブルーシートの上で、両手をお腹に乗せて眠るサユが、いいえ、サユの抜け殻がそこにあったのです。


「サユ……?」


 私の口から出た言葉なのか、分かりませんでした。振り返ると彼が、音もなく近づいていたのです。


「君も、サユなんだろう」


 彼は口角を引かれるように歯を見せて、歯間から息を漏らすように笑っていました。


「僕も、サユなんだ」


 彼は私に掴みかかり、手首を折らんばかりに力を入れ、私をベッドに押し倒しました。強引に唇を奪われる最中、私は横目で、サユのことを見ていました。目を半分開いたまま、天井を見つめ続けるサユは、どうにも美しく映りました。もう二度と動かない、二度と喋らない。そんなサユの抜け殻は、サユだった手を、足を、髪を、全て失うことなくそこに落ちていたのです。

 私は自分が犯される最中、ずっとサユを見ていました。サユの抜け殻があまりに艶めかしくて、ずっと涎が止まりませんでした。私は、本当にサユになったのです。サユ、サユ、と呼ばれながら犯される自分がどうにも美しくて、尊くて、儚くて、終にサユとして愛されていることを心から悦んでいました。何なら、サユの抜け殻を被った私も、そこに落ちているサユの抜け殻も、本質的には同じではありませんか。サユという精神体を失って、サユという概念だけを着た人間が二人、この部屋に落ちているのです。私はやっとサユになれたのだと、サユは私なのだと、そして、サユに犯されているのだという全てが、私にはどうしようもなく愛おしく思えたのです。


 事を終えて、私たちはサユの片手ずつを握って、川の字に寝そべりました。


「僕がサユなんだ。君がサユだと思って会話していた人間は、僕なんだ。サユを殺してから、僕は幸せだった。皆が僕をサユだと思って話し掛けて来る。誰もが僕をサユだと思っている。サユが死んで、僕がサユになったんだ。僕が、サユになったんだ」


 彼は語りました。


「私がサユなんだよ。彼氏である君が、私をサユだと思って接していた。私をサユと呼びながら犯してくれた。サユとして愛されて、私は幸せだった。私がサユなんだ」


 私も語りました。


 それから、何日もそのまま過ごしていました。サユの抜け殻が腐っていって、誰かがその臭いか何かで通報して、ここに警察が来るまでの間、私たちはずっとそのまま過ごしていました。警察に名前を聞かれて、自分の本名がどうにも思い出せなくて、口一杯の涎を飲み込みながら「サユです」と答えました。

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サユの抜け殻 文月瑞姫 @HumidukiMiduki

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