第七話 変怪は天高く舞い神獣は常夢を廻る

七之一

 桓丘かんきゅうの外れの竹林で、少年と問答を交わしたことがある。

 少年は、この世は神獣が見る常夢とこゆめであるということわりに拘っていた。神獣の安眠を保つべく、世の安寧に努めることこそ、この世の人々が成すべきことだと信じていた。

 だから彼は、少年に、よく語って聞かせたものだ。

 この世が神獣の夢見る世界だとしても、それがいったい人々にとってなんだというのだろう。神獣はこの世をただ眺め続けることしかできない、まったく無力な存在であると。たとえ世の人々が苦しみ、苛まされ、阿鼻叫喚に陥ろうとも、黙って指を咥えながらその様を目に焼きつけることしかできないのだと。

 そんな神獣に慮る、いかほどの必要も有り得ないのだと。

 やがて少年が姉王を弑し、びん王位を簒奪したと聞いても、彼の胸中を過ぎったのはさもありなんという思いだけであった。ただりょうの都を訪ねるのは、新たな旻王が薨じるまで控えることに決めた。

 かつて竹林で出会った青年が、老いもせず当時の姿そのままに現れては、旻王もさすがに驚くだろう。

 桓丘を発ち、りんからげんの国に渡り、北天の地を当てもなく彷徨い続けた。彼がようやく稜を訪れたのは、旻王・枢智黎が薨去して間もなくのことだから、およそ四十年ほどの歳月を北天で過ごしたことになる。


 ***


 彼がかつて訪れた頃のりょうは、まだびんの都に定められる前のことであった。以前から経済都市として栄えた城市であったが、久方ぶりに目にする稜の絢爛ぶりは、彼の記憶をはるかに凌駕していた。

 城郭はひと回り以上の規模に拡大され、川港には軍船の代わりに商船がひしめき合い、城門の内は賑わない街区の方が少ない。昔年の面影を活気と喧噪で幾重にも上書きしたような稜を見て、さすがに感慨深いものがあった。

 十万人以上が暮らすという大都市に見違えた稜を、彼はこれという目的も無く歩き回った。

 様々な店が軒を連ねる大路を、人混みの間を縫うようにして歩いた。横道に逸れて、子供同士が石蹴りして遊ぶ傍らを歩いた。中心から外れた裏通りでは、胡散臭い雰囲気を漂わせた輩がたむろする横を歩いた。

 住人たちは誰も、彼の姿を見かけてちらりと振り返ることはあっても、声をかけることはない。

 そういうものだと、彼も心得ていた。

 誰とも口をきかぬままに歩き続けていた彼は、いつしかひとつの屋敷の前にたどり着いた。

 屋敷はさほど広くはない。だが塀の上から梅や桃の木が覗くから、中庭を備えた貴人の屋敷と窺える。一見して特に目を引くところはないはずなのに、どういうわけかその屋敷には、城中のどの建屋とも異なる違和感があった。より正確にいえば、屋敷に誘われているという感覚があった。そんな思いは、悠久の時を生きてきたつもりの彼にも、初めてのことであった。

 気がつくと彼は屋敷の門をくぐり、邸内に足を踏み入れていた。

 出迎える者も、咎める者もない。初めて訪れる邸宅のはずなのに、彼の足取りに迷いはなかった。小さな池のある中庭を囲うように巡らされた廊下を進むと、本邸の奥に離れの一室が見えた。

 おもむろに引き戸を開ける。板敷きの室内はがらんとして、何もないに等しい。

 殺風景な部屋の中央に、脇息に凭れる、妙齢の女性の姿があった。

 黒く艶やかな髪は丁寧に結わき上げられて、その先を翡翠をあしらった櫛が止めている。絹地の袍を纏い、その上から被るはおりもまた絹仕立てであるところから、相応の地位にある貴婦人と見える。

 そしてくっきりとして整った、美貌と呼ぶに十分な目鼻立ち。

 だがそれよりも何よりも彼の目を引いたのは、女性の瞳に揺蕩たゆたう、胡乱とも眠たげとも見える目つきであった。

「よく来たな。そこに座れ」

 女性は彼の出現に驚くでもなく、まるで当たり前のように目の前に座するよう告げた。言われるままに彼が腰を下ろすと、女性は多嘉螺たからと名乗った。

「気がついたら、この部屋にこうしてひとりでいたのだ」

 それ以前のことは何も知らない、覚えていないと、多嘉螺は言う。

「私ひとりでは何かと不便だし、何より退屈極まりない。だから誰か、私の話し相手になる者が欲しいと願った。そうして現れたのが、そなただ」

 なるほどと、彼は思わず微笑した。

 自分は多嘉螺に願われて、この屋敷に誘われてきたのか。それは不思議なことに違いなかったが、彼にはまったく不快ではなかった。

 それどころかこうして彼女と共にあることが、極めて自然であるようにすら思えた。

「畏まりました。では私でよろしければ、多嘉螺様の話し相手をお務めいたしましょう」

「よろしく頼むぞ。だがその前にそなた、名を何という」

 当然の問いであるはずなのに、彼は即答できなかった。

 彼には他人から与えられた名前というものがなかった。それではあまりにも不都合だから、やむを得ず自ら名乗った名前ならばある。だがその名前も長いこと用いないまま既に幾歳が経ち、そもそも人から声をかけられることが久しぶりであった。

「なんだ、そなたは名無しか」

 曖昧な笑みを浮かべたままでいる彼を見て、多嘉螺が言った。何気ない言葉は、案外とその通りかもしれない。

「ならば私が、そなたの名を考えてやろう」

 言うなり多嘉螺は細い顎先に指を当て、考え込むような仕草を取った。が、それも束の間。すぐさま顎から指を外した彼女の口の端に、閃いたとばかりに笑みが浮かぶ。

「そなたの顔はまるで、おぼろのように靄って見えるぞ。だから私はこれからそなたのことを、如朦じょもうと呼ぶ」

 それは彼が、初めて人から名を授けられた瞬間であった。

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