六之五

 枢智貴璃すうちきり上紐朗じょうちゅうろうの婚姻が決まったことを祝してという口実で、呂酸りょさん多嘉螺たからを屋敷に招いたのは、それからひと月後のことである。

「いやはや、多嘉螺たから様のお手並みには感服いたしました」

 喜色満面の呂酸りょさんに酒器を差し出されて、多嘉螺は酒杯で受けながら曖昧な笑みを浮かべた。

「大袈裟だ。結局のところ、私は何もしておらん。それは闇充あんじゅうがよく知っているだろう」

 多嘉螺に水を向けられて、闇充が困ったように笑う。

「何しろ待ちわびた文に書かれていましたのが、『余計なことは何もするな。島主には礼を損なわぬ程度に、ありのままであれと伝えよ』とのご指示でしたから。上紐朗じょうちゅうろう様にはなんと申したものか、正直なところ頭を抱えました」

「それはいらぬ気苦労をかけたな」

 小さく笑い返して、多嘉螺が酒杯にひと口つける。彼女に合わせるようにして、呂酸も闇充も共に酒を呷る。

 空にした杯を逆さに振りながら、呂酸は酒精混じりの息を心地よさげに吐き出した。

「なんにせよ、貴璃きり様と上紐朗様の婚姻が決まってひと安心。お陰でりんに工房を築く目処も立ちました。これは我らにとっても大きな前進です」

 先日、宮城で大々的に催された桃園の会には、びんの王族から高官、そして地方の有力者たちが集まって大いに賑わった。王族の重鎮たる渓口けいこう公の息女・枢智貴璃すうちきりと、今や旻の海運の拠点・鱗を預かる島主・上紐朗は、その場で初めて顔を合わせた。

 そしてふたりは、目を合わせた瞬間に想いを通わせた――とは、後に巷で面白おかしく広められた風聞だ。

単慶たんけい様から聞いたところによると、実際には貴璃様から上紐朗様へ、間に人も挟まずに声をかけられたそうです」

 呂酸の言う通りであれば、枢智貴璃の振る舞いはよほど大胆なものと、皆が驚いたことだろう。なにしろ王族貴人の女性が初対面の男性に向かって自ら声をかけるなど、常ならばありえないのだ。上紐朗もさぞ面食らったに違いない。

 もっともその場に居合わせるのは両名の婚姻を望む者ばかりだったから、すぐさま上紐朗に枢智貴璃の名を知らせる声があった。

 相手がまさか問題の花嫁と知って、上紐朗はさらに驚いただろう。

「貴璃様の夢中の君とは、聞いてみれば、闇充の文に書かれた上紐朗様に似通うところがなくもない。であれば上紐朗様がよほど非礼を働かぬ限り、上手くいくのではないかと思った。それだけのことだ」

「蓋を開けてみれば、周囲が無駄にやきもきしていただけということですかな。成り行きに任せることも肝要だと思い知りました」

 呂酸はどこまでも上機嫌だ。鱗に造船工房を建設することが、それほど大事だったということである。多嘉螺には表情が読み取りにくい闇充の黒い顔にも、安堵がありありと浮かんで見える。ふたりがこの婚姻を心から歓迎してるとわかって、多嘉螺の口角も思わず弛む。

 夜深くまで盛り上がった酒宴は、やがて如朦じょもうが多嘉螺を迎えに来たところでお開きとなった。屋敷の表まで出てきた呂酸と闇充に見送られながら、多嘉螺はふわふわとした足取りで家路に着く。

 その後を影のように寄り添いながら、如朦が続く。

 今宵は月が雲間に紛れて、顔を覗かせたり隠れたりと忙しい。今は薄雲の向こうから透かした柔らかい月光が、静まりかえった街中を歩くふたりを淡く照らしている。

「多嘉螺様は、心からおふたりの婚姻を願われたのですか」

 如朦が何気なく発した問いに、多嘉螺は振り返らぬまま答えた。

「工房を築くためには、おふたりが結婚してもらわねば困るから? そんな俗な望みを、心から願えると思うのか」

「いいえ」

 如朦の短い返事を聞いて、多嘉螺は少しばかり安堵する。そして半身を振り返りながら、徐々に雲間から顔を覗かせつつある月に照らされた、彼の穏やかな顔を見返した。

「私が願ったのは、貴璃様が夢中の君に出会えますように。それだけだ」

 あの深窓の姫君が島主に目を向けるよう、いざなうような台詞は囁いた。龍神と絡めた忠告など、我ながらあざといと呆れもする。

 だがそのいずれも所詮は小細工、多嘉螺の本心が語らせた言葉ではない。

 心底から願ったのは、枢智貴璃が幼い頃から繰り返し夢見たという、憧れの男性との出会いだ。

「幼い頃から夢に見続けるという、彼女が羨ましく思えた。それ以上に、そこまで想い続けたという夢中の君に、引き合わせたいと願った」

「鱗の島主様こそ、貴璃様の夢中の君に相応しいと?」

「そんなことは知らん」

 にべもなく言い放って、それから多嘉螺は、ふと足下に視線を落とした。

「貴璃様が島主の中に夢中の君の面影を見出せたのであれば、それで十分だろう」

 自分は何もしていないという台詞は、多嘉螺の本心だった。枢智貴璃と上紐朗は、ひとたび出会ってしまえば惹かれ合うだろうという予感があった。

 自分の願いがふたりを結びつけたとは、信じていない。

「私が願ったためなどと申せば、烏滸おこがましいもいいところだろう」

「誰が信じまいと、多嘉螺様はこの常夢とこゆめの世に願いをあらわす者。そのことは私がよく存じております」

 一歩踏み出した如朦が、多嘉螺のおもてに慈しむような視線を注ぐ。細い目の奥に覗く瞳を、多嘉螺はしばし魅入られたように見返していたが、やがて耐え切れぬようにして顔を背けた。

「代わりに私は、眠りの果てに夢を見ることもかなわぬ」

 そう言って多嘉螺は、如朦に背を向けたまま歩き出す。

「貴璃様が夢に見続けた、夢中の君。そして今まさにお前が夢に見る、この果てしない常夢の世」

 何気なく、両の手を天に向かって伸ばす。夜空を覆っていた薄雲はいつの間にか晴れて、中天には煌々と輝く満月が白い光を放っていた。

 円の縁をなぞるように細い指先を緩やかに曲げてみれば、多嘉螺の手の内にちょうど月が収まったかのように錯覚する。

「夢が織り成す世界というものを、私も目にしてみたいのだ」

 そして足を止めた多嘉螺は、再び背後を振り返る。

 相も変わらず穏やかな面持ちの如朦は、眉先を微かに下げて、どこかしら申し訳なさそうな顔で口を開いた。

「夢とは、それを見る人の生き様や存念から生み出されるもの。夢見る人には思いもよらぬように見えても、実のところは当人の無意識から生じている。長い歳月をかけてこの常夢の世を眺め続けてきた私には、そうだろうとしか申せません」

 どれほど夢の中に未知の世界を期待しても、結局は全て当人に帰結する。

 だから夢を見ることに焦がれても、詮無いことだ。

 如朦の言うことは、その通りなのかもしれない。だとしても――

「それは私が夢を見ない理由にはならないぞ、如朦」

 月光を背に受けながら、多嘉螺は口に出さずにいられなかった。

「であれば、夢見と引き換えにこの世に願いをかなえるという変怪へんげもまた、そなたの意識せぬ本心から生じたということだろう」

 そこまで言われることは、如朦にとっても予想外だったのだろう。軽く目を見開いた彼は、立ち尽くしたまま口を噤んでいる。

 彼には答えようもない。そんなことは重々承知しているつもりなのに、その夜の多嘉螺は、繰り出す言葉が止まらなかった。

「如朦。そなたはどうして、この常夢の世に私を生み出したのだ」


(第六話 了)

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