五之四
龍という
といっても所詮は変怪。もたらされる被害は大だが、結局は天災のひとつと数えられていたところに、思いがけず神性が付与された。
それも最初は、追い詰められた田舎者の口八丁に過ぎなかったはずが、いつの間にやら大廟堂までがその神性を保証する始末。
こうして龍は、変怪から神に成り上がった。
***
その広場の一角に、常とは異なる人だかりが現れたのは、稜の城中に神像がすっかり行き渡ってしばらくしてのこと。人だかりの中心には、大勢を前にして声高く説く人影がある。
「近頃世間を賑わす龍とは、天下の乱れを案じた神獣が遣わした神にほかなりません」
いささか甲高く口上を唱えるのは、女の声であった。女は頭から首周りまで、すっぽりと長い頭巾で覆っている。中から覗く目鼻立ちは中年の婦人のそれだが、眉間に皺を寄せているせいか、やや表情がきつい。
「先代
女の周りには数名の男女が控えて、彼女の言葉にいちいち大袈裟に頷いている。それよりも何より人目を引くのは、彼らの前にでんと据え置かれた、立派な龍の彫像であった。
「人々が今の在り方を省み改めぬ限り、龍神はこの世を騒がし続けることでしょう。今こそ皆で龍神に祈りを捧げ、荒ぶる龍神を鎮めるべし」
数多生まれた神の中でも、とりわけ恐れられていた龍をひたすらに尊ぶ彼らは、自らの教義を『
龍神道の説くところは神獣ありきだから、決して神獣信仰に叛くものではなかったろう。あくまで神獣信仰の解釈のひとつというわけだから、西門の演説について報されても、
しかし龍という、目に見える驚異を祀り上げる龍神道は、沈阮の楽観をはるかに上回って勢力を広げていく。
当初数名足らずだった龍神道の信徒は、日を追うごとに十名二十名と数を増やしていった。そしてついには百を超えたという頃に、彼らは揃って大廟堂を訪れた。それもよりにもよって、稜の人々が貴賤を問わず大廟堂に押しかける、神獣安眠祈願祭の最中のことであった。
大廟堂の広場に集まる大勢を前に、
「畏れながら、大廟堂主様に直々に言上したき儀がございます!」
声の主は、西門で演説をぶっていた女だった。ざわつく周囲の注目を一身に集める女は、龍神道の教母・
「この祈願祭において龍を鎮めるべく祭祀を執り行うよう、大廟堂主様には何卒お願い申し上げます!」
齋晶の訴えに、沈阮は狼狽えた。彼は事前に周到な準備を巡らせることや計画の実行には長けていたが、あまりにも予想外の場面に出くわした場合には、頭の回転が働かなくなる
しかも神獣安眠祈願祭という折り、大廟堂には旻王も出席していた。王は本堂の横に建つ建屋の最上階から、この様子を眺めているはずだ。王の御前での思いがけない齋晶の狼藉に、沈阮は最悪の対応を選択してしまう。
「あの無礼者を、追い払え!」
大廟堂主の指示を受けて、神官たちが人混みを押し分けつつ齋晶の元に向かう。だが、彼女はたったひとりでこの場に乗り込んだわけではない。齋晶の周りは、百名以上の龍神道の信徒たちによって固められていた。
その結果、沈阮の、そして旻王の目の前で繰り広げられたのは、大廟堂の広場における大乱闘である。それも神獣安眠祈願祭の最中という、何を置いても前代未聞の事態であった。
乱闘は周囲の群衆にも波及して、収拾がつくまでに半刻近くを要した。龍神道の信徒は数名が捕らえられたが、その大半は混乱する群衆に紛れて逃げられてしまう。
そして神獣安眠祈願祭という、大廟堂主にとって晴れの舞台で散々な醜態を晒した沈阮は、顔を引き攣らせたままその場にへたり込むしかなかった。
***
「大廟堂主様が、春を待たずに交替するらしい」
戸を開け放った自室から、ちらほらと雪が舞う中庭を眺めながら、
彼の向かいに座する
「大廟堂主様というとあの、飛ぶ鳥を落とす勢いだった
呂酸の元を離れず、
「あんな騒ぎを起こしてしまっては、致し方無しか。神像の売買にまで手を広げて、勢いを増すばかりだったというのに。何が切っ掛けで足を踏み外すか、わからんものだ」
「人生一寸先は闇ということですね。私自身、己の身の上を振り返れば、他人事とは思えません」
闇充は大きな目を伏せつつ、そっと茶杯に口をつけた。ひと口おそるおそる啜ってから、太い眉を思わずひそめる彼を見て、呂酸が笑う。
「まだ茶の味には馴染めぬか」
「申し訳ありません。こればかりはなかなか……酒はむしろ、
「酒を気に入ったのは何よりだが、茶の方も顔をしかめない程度には慣れぬとな。お前にはその内、色々と仕事を任せるつもりでいる。そうなれば付き合いで茶を嗜む必要もあるだろう」
「心得ております」
最近の呂酸は、海を越えられるだけの、巨大な船を造り上げることに専念している。そして彼の計画では、造船の陣頭指揮を執るのは闇充であった。彼の故郷が造り上げたという船の再現が、計画の目指すところである。
「もっともいつのことになるやら先の見えぬ話だが。だからこそ残りの人生を賭けるだけの甲斐がある」
「設計については船大工とも相談を始めております。私の知識が果たしてこの南天でどこまで役立つかはわかりませんが、決して夢物語で終わらせるつもりはありません。是非とも旦那様には、海に浮かぶ船をご覧に入れます」
闇充の黒い顔には、静かな決意が漲って見える。最初は驚くばかりだった彼の相貌が、今の呂酸には何より頼もしい。
「進水式は盛大に執り行おう。神官にもしっかり祈祷させて……そういえばお前が遭難したのは、龍に出くわしたからだったな」
「よく覚えておいでで。といってもあれが本当に龍だったのか、私にも未だに記憶があやふやですが」
「大廟堂主様を交替に追いやった連中、彼らはなんでも龍を崇拝するらしい」
「
龍神道は祈願祭の騒動で、その名を稜の城中に知らしめた。同時に信徒の数もますます膨れ上がっているという。
呂酸はかつて龍の絵札を商っていたが、それはあくまで
そのために龍神道を奉ずる輩も、外から眺めるだけの余裕があった。
「彼らのように盲目的に龍を尊ぶつもりはないが、船が完成した暁には、龍神とやらにも祈りのひとつでも捧げようか」
「確かに。航海の無事を祈る相手としたら、龍は相応しい神といえましょう」
主人の言葉に頷きながら、闇充はそれにしても、と太い指を顎先に当てた。
「この稜に神なるものがこれほど溢れることになろうとは、想像だにしませんでした。あらゆるものに神が宿るとは、
「そういえば巷に神像が流行り始めたのも、お前が稜に来てからのことだな」
「来たばかりの頃は、神の代わりに
井魚は井戸の神なのだと木像を突き出されて、闇充は大いに面食らったものだ。
「まあ、良いではないか」
呂酸は笑って、中庭に目を向けた。視線の先では、はらはらと舞い散る小雪が、池の上に音もなく落ちては溶けていく。
「もしかすると、お前が稜を訪れたからこそ、この地にも神が生じたやもしれんぞ」
その言葉は実のところ、最も真実を言い当てるものだったろう。
だが呂酸も闇充もそんなこととはついぞ知らず、部屋の内にはふたりの笑声が聞こえるばかりであった。
(第五話 了)
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