五之二
巷では龍という
だが天下を驚かす龍は、むしろ変怪としては珍重といえた。そもそも変怪とは、
たとえば街中を歩いていると、不意に突風に煽られるということがある。その際、頭に被った頭巾の締めつけが緩かったりすると、そのまま風に攫われてしまったりもするだろう。そういうとき、人々は「
風鉤とは、風に紛れて人が身につけたものを掠め取り、どこぞに持ち去ってしまう変怪である。
市場からの帰途にあった
「くそっ」
摺苛は風が吹き抜けていった先に向かって毒づいたが、既に日も暮れつつある城内で、彼の頭巾がどこに飛んでいったかなどわかるはずもない。舌打ち以上は為す術もなく、そのまま逗留中の宿に戻った摺苛を待ち受けていたのは、主人の呆れ顔であった。
「おいおい、そのざんばら頭はなんだい。みっともねえ」
「風鉤の仕業だよ。頭巾を持ってかれた」
「きっちり結わかねえからだよ。この季節は風も強いんだから、風鉤にゃ気をつけるもんだ。あんた、よっぽどぼうっとしてたんじゃねえか」
摺苛は客だというのに、主人の口は滅法悪い。それもそのはず。彼は
摺苛が扱うのは、木彫りの像である。村では手先が器用で鳴らした彼は、とりわけ彫刻を得意とした。彼の彫る像は実際の人物や鳥獣をよく表していると評判で、村の廟堂を改修する際には門扉の装飾を手がけたこともある。そこで気をよくした彼は、特に上出来な木像を掻き集めて、稜で売り捌こうと考えた。
それが田舎者の浅慮であったと思い知らされるのに、三日とかからなかった。
稜には彼が彫るよりはるかに巧緻で美麗な彫刻が山とあり、摺苛が持ち寄った彫り物はただのひとつも売れることはなかった。打ちのめされた摺苛だが、尻尾を巻いて逃げ出そうにも、手元には帰りの船賃すらない。しかも村を出る際、故郷の村人たちからも多少の融通を受けている。
手ぶらで帰るわけにいかない摺苛は、今日も市場に出向いて店を広げ、結局山のような売れ残りを抱えて宿に戻った。昨日までの彼ならそのまま途方に暮れつつ、大広間に敷かれた
だがその日、乱れた髪もそのままに摺苛が向かったのは、宿の裏庭――といっても昼間はちょっとした作業場として用いられる程度の空間であった。
ここなら月明かりに照らされて、夜でも結構な明かりが採れる。幸い今夜は雲ひとつない。摺苛は持ち帰った包みを開くと、その上に木像の山が現れた。そのうちのひとつを手に取ると、今度は肩にかけた麻袋の中から工具を取り出した。
――神獣の代わりに変怪をありがたがったりしてるのかもしれねえぜ――
――変怪じゃねえだろう、神だよ、神――
市場から引き揚げる途中で耳にした、露天で飲み食いしていた二人組の会話が、摺苛の耳朶にこびりついている。
変怪をありがたがるだって? じゃあ、世に蔓延る変怪を彫ってみせればどうだ。
そんなもん気持ち悪がられるだけだから、今まで誰も彫ろうとはしなかったけど、じゃあ『神』と名づけて売り出せばどうだ。
常の摺苛であれば、そんなことは考えつかなかっただろう。だが彼は現に追い詰められ、なんとかして木像を売り捌かなければならなかった。
摺苛は手の内の木像をしばらく睨みつけていたが、やがておもむろに小刀の刃先を立てる、彼の目に一切の躊躇はなかった。
***
「都にお住まいの皆々様も、変怪に悩まされることは多々あるだろう。だけど知ってるかい? 変怪をこうして木彫りの像に象って、朝な夕なに『神』と崇めておけば、変怪がもたらす災いを防ぐばかりか、代わりに幸運が舞い込むんだよ」
それは摺苛の口から出任せ、ほとんど苦し紛れの謳い文句だった。
だがただの木像にももっともらしい効能があると聞けば、思わず手に取る者もちらほらと現れる。以前に流行った魔除けの絵札が、実は龍という変怪を描いたものと知る者もいただろう。もしかすると、市場の露天で交わされた老人と中年男の会話を聞き覚えていた者が、紛れていたかもしれない。
いずれにせよ摺苛は木像を売り捌いて、滞納していた宿賃に帰りの船賃、そして村人から融通された分の返済に足るだけの銭は手に入れた。もっとも彼の手元に残ったのはわずかだったので、村に戻った摺苛が以後、同じ商いに手を染めることはなかった。
ただ、彼が去った
どこぞの共同井戸の屋根に、『井戸の神』として
風の強い日には、家を出る前に
油壺の傍には
「なんだい、その気味悪いのは。もしかして変怪の像かい。おかしなもん置くね」
客に木像を指差されて、屋台の主人はにやりと笑い返した。
「知らないのかい。変怪もこうして像に彫り、神として拝んでおけば、商売繁盛って仕組みさ」
「そんな仕組み、初耳だ。だいたい神ってなあ、なんだい」
「迷惑千万な変怪どもから、災いを除いて幸運だけ受け取るには、連中もおだてる必要があるってことさ。その呼び名が神ってんだ」
神という呼び名は、稜の城中にひたひたと、だが確実に浸透しつつあった。
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