第五話 森羅万象に宿りし神が都を騒がす話

五之一

 呂酸りょさん闇充あんじゅうを伴って帰宅した際、呂家の人々は彼を見て、大いに腰を抜かした。

 ただでさえりょうでも抜きん出た巨躯である上に、全身を漆黒の肌が覆う、魁偉としか言いようのない容貌である。いくら呂酸が請うたとはいえ、彼の家人や郎党たちにとっては青天の霹靂だ。初めて闇充を見た彼らが恐れおののいて遠巻きにしたとしても、責められるものではないだろう。

 とはいえ呂酸も多忙の身であるから、常に闇充と家人たちの間に入ってもいられない。そこで代わりに両者の間を取り持ったのが、こうであった。

 蛤は、さんの浜で片隅に追いやられながら、その日の糧を得るのが精一杯だった身の上である。それが南天一の大国・びんという異国に連れられ、その都・稜でも屈指の大商人の屋敷に引き取られるなど、彼女自身が想像を絶する激変の只中にあった。

 あまりの環境の変化に身も心も翻弄されながら、だが己にとっての大事とは何かを、蛤は本能的に理解していた。それはつまり、闇充と引き離されないことである。

 既に闇充は南天の言葉を解し、通訳の必要はないのだ。ならばせめて、闇充の身の回りの世話役として認められないことには、いつ放り出されるかわからない。

 そういうわけで蛤は常に闇充の側を離れず、彼と呂家の取り次ぎ役を積極的に務めた。もっともろくな礼儀作法も知らない彼女だから、周囲に呆れ返られるような失敗も少なくなかった。だが己の倍もする黒い巨漢の周りで必死に飛び回る蛤の姿は、呂家の人々にも何らか訴えるものがあったのだろう。彼らが闇充と、そして蛤を見る目からは、いつしか恐れや険しさが削ぎ落とされていった。

 やがて闇充自身の思慮深い人柄や知性が知られるようになるにつれ、呂家の家人も郎党も、徐々に彼を認めていった。その頃には蛤も闇充の世話役だけでなく、呂家の下女としての仕事も任されるようになっていた。

「この前、井戸の水を汲もうとしたら、中に魚が泳いでんのを見たんです」

 屋敷の家人たちが夕餉を終えて、下男下女たちもようやく食にありついていた時のこと。蛤は焼き魚の切れ端を箸で摘まみ上げながら、ふとそんなことを口にした。

「綺麗な井戸には変怪へんげが棲むって聞いたこたああるけど、あし・・は初めて見ました」

井魚せいぎょだね。何しろ呂家の敷地にあつらえた井戸だから、井魚の一匹や二匹、いてもおかしくないよ」

 井魚とは、井戸の内に棲まうとされる変怪へんげである。井魚が棲む限りその井戸の水は清浄を保たれる、ありがたい存在と伝わっている。

「ちらっと見かけた気がしただけですけど。間違って桶の中に入りやしねえか、冷や冷やしました」

「そんなことになったら大変だ。井戸の外に出た井魚は、びっくりして死んじまうっていうからな。おまけに井戸水まで腐るっつうし、間違って夕餉の肴に出されでもしたらかなわねえ」

 下男のひとりがおどけて、何人かが思わず笑う。その中で、蛤だけは釈然としない面持ちでいた。

「やっぱりみんな、井魚って知っとりますよねえ。そこは蘇沙そさも稜も変わりねえ。だってのに、闇充はなんだか妙なこと言っとったなあ」

「へえ。あの闇充さんが、そんな変なこと言うようには思えんけどね」

 今では下男下女の間にも、闇充の人柄は十分知れ渡っていた。無論遠い異国の出というから、南天の常識に疎いところはままある。だが突拍子もないことを言い出すような男ではないというのは、呂家の人々の共通認識だ。

「それが、井魚を変怪というのは、ぴんと来ねえとか」

「ぴんと来ねえってどういう意味さ。変怪じゃなけりゃなんなんだい」

 蛤の言葉に、周囲も首を傾げる。

「そもそも南天で言う変怪ってのは、闇充の故郷くになら、ええと、なんじゃっけ。神獣じゃねえくて」

 人差し指で何度か額を突いていた蛤は、やがて思い出したらしく顔を上げた。

「『神』じゃ」

「かみ?」

 訊き返されて、蛤は大きく頷いた。

「そう、そう。南天の言葉なら、神って呼ぶのがぴったりじゃと言っとりました」


 ***


「神ってなあ、なんだ」

 濁酒を満たした碗を片手に、老人が皺だらけの顔を訝しげにしかめて問う。その向かいに腰掛ける男は、自らの碗に酒器を傾けながら答えた。

「俺に聞くなよ。下女たちの噂が、たまたま耳に入っただけさ」

変怪へんげは変怪だろう……そもそも神ってのはどういう意味だ」

 南天北天における『神』とは、超常であるとか畏怖すべきとか、そういった事象を形容する言葉として用いられてきた。その最たるものが神獣という単語だ。

 変怪へんげを『神』という一文字に呼び換える以前に、この土地ではそもそも名詞として使用されることがなかったのだ。であれば老人が首を捻るのも道理であった。

「まあ、なんとのう言いたいことはわかるがな。人には理解しかねる、不可思議なものをまとめて指す言葉のつもりってとこか」

「でも、それなら変怪でいいだろう」

「神なんて字を充てるってこたあ、ただ不気味とか迷惑なだけじゃなく、畏れ多いとか敬うべしものって意味合いもあるんじゃねえか」

 老人は自身で口にした台詞に、思った以上に得心したらしい。何度もしたり顔で頷いてから、碗の中の濁酒を呷った。向かいの男は納得したという面持ちには程遠いが、「そういうもんかねえ」と呟いてから、酒を啜る。

 老人と男は、りょうの市場街区にある、露天に並べられた数本の長机のうちの一本を挟んで腰掛けていた。ここは市場にごまんとある屋台の料理やら酒やらを持ち寄って飲食するための、言うなれば屋外の大食堂である。ちょうど日が傾きつつある頃合いもあって、ふたりの周りにはふたりと同じように酒に顔を赤らめたり、夕餉を掻き込む人々で溢れていた。

「それにしてもそんな面白えことを言い出すのは、もしかしたら例の黒いのかい」

 口元についた酒を手の甲で拭う老人の言葉に、男は頷いた。

「普段は大袈裟なほど馬鹿丁寧だし、そのくせ仕事の覚えも滅法早えから、言うことはねえんだがな。たまに突飛もねえことを言う」

「まあ、あのなりでなんだかんだ呂家に馴染み、俺たちも随分と見慣れたから、今さら突飛のひとつやふたつでどうこう言う奴もいねえだろう」

 呂家の主人が黒い巨漢を従えて練り歩く姿は、稜の城中でも話題となった。闇充あんじゅうの容貌は人々にも相当気味悪がられたが、連日のように城内のあちこちを歩き回られれば、気味悪いなりにも慣れてくる。その内に恐怖より好奇心が勝る者が話しかけてみれば、闇充という男は意外なほど折り目正しく、口にするところも極めて思慮深い。

 呂酸りょさんにしてみれば、極力彼と共にあるところを見せつけて、闇充を稜の民に認めさせようというつもりだったのだろう。そして彼の目論見通り、闇充は城中でも一目置かれる存在となりつつあった。

「それにしても変怪を敬って神と呼ばわろうとか、なんでそんなことを思いついたのか。一度聞いてみてえもんだ」

 老人はそう言って碗を口元に運んだが、中身は既に空であった。すると向かいの男が酒器を差し出しながら言う。

「案外、あいつの故郷くにじゃ、神獣の代わりに変怪をありがたがったりしてるのかもしれねえぜ」

「変怪じゃねえだろう、神だよ、神。それにしたってあっちゃこっちゃにありふれて、どの神を敬えばいいものか、困っちまうじゃねえか」

「違えねえ」

 老人も男も、揃ってがははと笑った。

 ふたりとも相応に酔いが回ってる上、周囲には大勢の客が溢れて賑やかしい。彼らの声は喧噪に負けぬよう端から大きく、ためにその会話を耳にした者も少なくなかった。

 もっとも酔客の戯言だろうと思って、大半は聞き流したであろう。

 ただ幾人かの同席客の中には、ふたりが席を立ってからも会話の内容を記憶に留める者が、ないわけではなかったのである。

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