第五話 森羅万象に宿りし神が都を騒がす話
五之一
ただでさえ
とはいえ呂酸も多忙の身であるから、常に闇充と家人たちの間に入ってもいられない。そこで代わりに両者の間を取り持ったのが、
蛤は、
あまりの環境の変化に身も心も翻弄されながら、だが己にとっての大事とは何かを、蛤は本能的に理解していた。それはつまり、闇充と引き離されないことである。
既に闇充は南天の言葉を解し、通訳の必要はないのだ。ならばせめて、闇充の身の回りの世話役として認められないことには、いつ放り出されるかわからない。
そういうわけで蛤は常に闇充の側を離れず、彼と呂家の取り次ぎ役を積極的に務めた。もっともろくな礼儀作法も知らない彼女だから、周囲に呆れ返られるような失敗も少なくなかった。だが己の倍もする黒い巨漢の周りで必死に飛び回る蛤の姿は、呂家の人々にも何らか訴えるものがあったのだろう。彼らが闇充と、そして蛤を見る目からは、いつしか恐れや険しさが削ぎ落とされていった。
やがて闇充自身の思慮深い人柄や知性が知られるようになるにつれ、呂家の家人も郎党も、徐々に彼を認めていった。その頃には蛤も闇充の世話役だけでなく、呂家の下女としての仕事も任されるようになっていた。
「この前、井戸の水を汲もうとしたら、中に魚が泳いでんのを見たんです」
屋敷の家人たちが夕餉を終えて、下男下女たちもようやく食にありついていた時のこと。蛤は焼き魚の切れ端を箸で摘まみ上げながら、ふとそんなことを口にした。
「綺麗な井戸には
「
井魚とは、井戸の内に棲まうとされる
「ちらっと見かけた気がしただけですけど。間違って桶の中に入りやしねえか、冷や冷やしました」
「そんなことになったら大変だ。井戸の外に出た井魚は、びっくりして死んじまうっていうからな。おまけに井戸水まで腐るっつうし、間違って夕餉の肴に出されでもしたらかなわねえ」
下男のひとりがおどけて、何人かが思わず笑う。その中で、蛤だけは釈然としない面持ちでいた。
「やっぱりみんな、井魚って知っとりますよねえ。そこは
「へえ。あの闇充さんが、そんな変なこと言うようには思えんけどね」
今では下男下女の間にも、闇充の人柄は十分知れ渡っていた。無論遠い異国の出というから、南天の常識に疎いところはままある。だが突拍子もないことを言い出すような男ではないというのは、呂家の人々の共通認識だ。
「それが、井魚を変怪というのは、ぴんと来ねえとか」
「ぴんと来ねえってどういう意味さ。変怪じゃなけりゃなんなんだい」
蛤の言葉に、周囲も首を傾げる。
「そもそも南天で言う変怪ってのは、闇充の
人差し指で何度か額を突いていた蛤は、やがて思い出したらしく顔を上げた。
「『神』じゃ」
「かみ?」
訊き返されて、蛤は大きく頷いた。
「そう、そう。南天の言葉なら、神って呼ぶのがぴったりじゃと言っとりました」
***
「神ってなあ、なんだ」
濁酒を満たした碗を片手に、老人が皺だらけの顔を訝しげにしかめて問う。その向かいに腰掛ける男は、自らの碗に酒器を傾けながら答えた。
「俺に聞くなよ。下女たちの噂が、たまたま耳に入っただけさ」
「
南天北天における『神』とは、超常であるとか畏怖すべきとか、そういった事象を形容する言葉として用いられてきた。その最たるものが神獣という単語だ。
「まあ、なんとのう言いたいことはわかるがな。人には理解しかねる、不可思議なものをまとめて指す言葉のつもりってとこか」
「でも、それなら変怪でいいだろう」
「神なんて字を充てるってこたあ、ただ不気味とか迷惑なだけじゃなく、畏れ多いとか敬うべしものって意味合いもあるんじゃねえか」
老人は自身で口にした台詞に、思った以上に得心したらしい。何度もしたり顔で頷いてから、碗の中の濁酒を呷った。向かいの男は納得したという面持ちには程遠いが、「そういうもんかねえ」と呟いてから、酒を啜る。
老人と男は、
「それにしてもそんな面白えことを言い出すのは、もしかしたら例の黒いのかい」
口元についた酒を手の甲で拭う老人の言葉に、男は頷いた。
「普段は大袈裟なほど馬鹿丁寧だし、そのくせ仕事の覚えも滅法早えから、言うことはねえんだがな。たまに突飛もねえことを言う」
「まあ、あの
呂家の主人が黒い巨漢を従えて練り歩く姿は、稜の城中でも話題となった。
「それにしても変怪を敬って神と呼ばわろうとか、なんでそんなことを思いついたのか。一度聞いてみてえもんだ」
老人はそう言って碗を口元に運んだが、中身は既に空であった。すると向かいの男が酒器を差し出しながら言う。
「案外、あいつの
「変怪じゃねえだろう、神だよ、神。それにしたってあっちゃこっちゃにありふれて、どの神を敬えばいいものか、困っちまうじゃねえか」
「違えねえ」
老人も男も、揃ってがははと笑った。
ふたりとも相応に酔いが回ってる上、周囲には大勢の客が溢れて賑やかしい。彼らの声は喧噪に負けぬよう端から大きく、ためにその会話を耳にした者も少なくなかった。
もっとも酔客の戯言だろうと思って、大半は聞き流したであろう。
ただ幾人かの同席客の中には、ふたりが席を立ってからも会話の内容を記憶に留める者が、ないわけではなかったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます