四之六
雪がちらつく
ただでさえ祈願祭を目前にして、詰めかけた参詣客で溢れ返っているところに、まさかの龍の出現である。
夜も更けて日中ほどの人混みではないにしろ、通りを真っ直ぐに歩くことはなお難しい。しかも祭の雰囲気に酔いしれる者と、龍の出現に慌てる者、殺気立つ者などが混然として、辺りは一様に渾沌としている。城内の警邏を担当する神官たちは騒擾の収拾に懸命だが、果たしていつ事態が収束するものか見当もつかない。
かつて
「如朦――それとも
如朦が
「昔の呼び名です。今まで通り、如朦とお呼びください」
「てっきり名無しと騙されたわ。兆薫といいそなたといい、私は騙されっぱなしだ」
多嘉螺はいささか拗ねた口調で言うと、如朦からぷいと顔を背けた。そのまま人混みの中を器用に進むので、如朦は困った顔で追いかける。
「縹という名は、己の真名さえ忘れた、私の自称に過ぎない。私以外から名づけられたことは、多嘉螺様から授かった如朦の名以外にございません」
「戯れにつけた名だ。後生大事にありがたがる程でもないだろう」
それ以上の会話を打ち切ると、多嘉螺は如朦を引き離そうとでもいうように歩みを速めた。
周りは混乱に冷静を欠いた人々ばかり、いつぶつかられてもおかしくないほどだが、彼女の行く先には不思議と人が遮らない。なので多嘉螺は足を止めることもなく、曲裾を翻しながら思うままに歩を進める。
その後に続く如朦はゆらりと頭を左右にしながら、人々の不意の挙動にも掠ることなく、人混みの間を縫うようにして多嘉螺を追いかけていく。
罵声や怒号すら飛び交い始めた人いきれの中、ふたりの距離は縮まりもせず、だが離されもしない。いつまでも果てることのないように思われる鬼ごっこは、先に多嘉螺が足を止めたことで終わりを見せた。
「如朦」
多嘉螺がとどまって振り返ったのは、夢望宮の正面を出て大路を真っ直ぐ歩いた突き当たりの、耀の城門の手前であった。
龍の騒ぎを受けてのことだろう、夜更けだというのに城門は大きく放たれて、川港まで行き来する人の出入りが激しい。その上に聳える城楼にはところどころに篝火が焚かれて、まるで夜闇を打ち払おうとでもいうように瞬いて見える。
三層に及ぶ城楼の窓からはことごとく、不寝番の神官たちが身を乗り出していた。どうやら
はるか高みに灯る城楼の明かりに照らされて、頭や肩に微かに白いものをちらつかせながら、多嘉螺の顔はいかにも不満げだった。
「兆薫の言い掛かりなど、適当にいなせば良かったのだ。あそこまで語ってやる必要などなかったのに」
何から何まで不愉快ばかりだった宴席で、ことさら腹に据えかねるのは、あの俗な神官に如朦の正体を見抜かれただろうことだ。如朦がどうしてあのような真似をしたのか、散々に兆薫をやり込めた自分自身を棚に上げて、多嘉螺には納得がいかない。
「何ほどのことでもありません。兆薫様とて仮にも神官、人に触れて回るようなことはないでしょう」
彼女の前で立ち止まった如朦は、そう言って常の穏やかな笑顔を浮かべた。
「本来の私は、この世に干渉するほどの力もない、ただ人々の行く末を眺めるのみの存在です。夢は決して夢見る人の思うままにならぬという
「それがどうした。私と共にある分には、その点を思い煩うこともない。そなたはかつてそう申していただろう」
だから如朦は彼女の傍らに、まるで影のように寄り添い続けている。ふたりが共することは、誰よりも如朦にとって必然なのだ。
「だがそなたの先ほどの振る舞いと、それがなんの関係がある」
「大いにあるのです。私が眺めるばかりの無力感に苛まれずに済むのは、多嘉螺様との関わりに限り、己の意思でこの世に臨むことができるからです」
そう言うと如朦は右手を、自身の心の臓の上にそっと置いた。
「であれば多嘉螺様を手助けしたいと心から願った私が、まさにそのように振る舞うことは、むしろ当然でしょう。私自身の力で私以外の役に立てるとは、長年この世を眺め続けるのみであった身にとって、この上ない悦びなのですから」
城門を行き交う人々の喧噪に包まれながら、如朦の声は多嘉螺の耳に不思議とよく響く。お陰で一言一句聞き違えることはなかった多嘉螺は、それ以上如朦を問い詰める気が失せてしまった。
代わりに袖先で口元を覆いながら、呟くように声を漏らした。
「相変わらずそなたの言うことは大袈裟だ」
そのひと言を聞いて、如朦がただ微笑む。
前後して、頭上から唐突な驚声が降り注いだ。
「おお!」
「龍だ、龍が飛ぶ!」
「龍が雲間へと吸い込まれていく!」
城楼に詰める神官たちが口々に叫ぶ声を聞いて、辺りの人々が何事かと顔を上げる。
多嘉螺も弾かれたように城楼を仰ぎ見たが、間もなくして神官たちの声が「ああ、もう見えない」「災いは去った」「龍は雲の上へ飛んでいったぞ!」という台詞に取って代わられると、その顔にはありありとした落胆が浮かんだ。
「
「……もしかして、龍を見ようとして
「ほかにいったい何があるというのだ。ああ、城楼に上がる伝手でもあれば良かったのだが」
あからさまに肩を落とす多嘉螺を、如朦はしばらく呆れたように見返していたが、やがて口元に小さな苦笑を浮かべながら言った。
「そう落ち込まれますな。多嘉螺様の願いは、いつかきっとかないます。それこそ私にも確信できる、この世の
(第四話 了)
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