四之五

「そなたが龍の名づけ親とな」

 如朦じょもうの存在など、せいぜい超魏ちょうぎの伝説を賢しげに語る程度と見做して、端から眼中になかったのだろう。思わぬ告白に、兆薫ちょうくんの顎肉が目に見えて震えた。

「主人を庇おうとして軽々しく口を挟むものではない。邪教を唱える罪は、そなたが思うよりもはるかに重いぞ。浅はかに振る舞えば、必ずや後悔することになる」

 兆薫に指差されて罵られても、如朦はにこやかな笑みを浮かべたまま動じない。

 多嘉螺たからとしては、如朦の言うことはまったくその通りなので、否定のしようもなかった。とはいえこのままでは、如朦が神官たちの槍玉にあげられてしまう。

 それ以上に、如朦の発言が浅慮の上などと誤解されるのが腹立たしい。

 お前たちが束になっても、如朦の足下にも及ばないというのに。だがそれを口にすれば、かえって如朦の言葉がますます真実味を帯びる。

 口にしたくとも言い出せない、多嘉螺が歯痒い思いをおもてに出さぬよう押さえつけていると――

「如朦殿は、私が見る限りではりょうでも希有な博識。即ち南天一と申しても過言ではない。その如朦殿の言葉が、どうして思慮を欠いたものでありえましょう」

 思いがけず如朦を褒めそやしたのは、単慶たんけいの凛とした声だった。

 単慶は多嘉螺の前ににじり出て、兆薫を真っ直ぐに見返している。その言葉は、多嘉螺が常々口癖のように語り聞かせている内容そのままであった。多嘉螺は微妙な表情で単慶の横顔を見返し、如朦は少々苦笑気味に微笑んでいる。

 そしていよいよ顔を赤黒くして、まるでおこりにでも罹ったのかと見紛う兆薫は、今度は如朦を真っ向から睨みつけた。

「そこまでの賢人であればなおのこと、災いをもたらす変怪に龍なる名を与え、人心を惑わした罪は重い。いわんやその龍を畏れ崇める人々まで生み出そうとは、夢望宮のみならず天下の安寧を損なう企みと言わざるを得ん」

 宴席に紛れた、衆目を避けての詰問であることを、兆薫は最早忘れてしまったのか。彼はその場でがばと立ち上がると、如朦を見下ろしながらその顔を指差した。

「如朦とやら、そなたの振る舞いは神獣を貶めんとする行いと承知の上か」

 すると如朦は、それまでの穏やかな笑みをすうっと掻き消して、凪のない湖面のように静かな眼差しを、兆薫に向けた。

「兆薫様、あなたこそご自分の不明を恥じなさい」

 朴訥として見える青年の口に似合わぬ、痛烈なひと言。怯むよりも、ただ目を丸く見開いて驚く兆薫に、如朦は告げる。

「そもそもこの世は常夢とこゆめ、全ては神獣の微睡まどろみの内。つまり龍の出現も、それを崇める人々が現れることも、ことごとく神獣の深慮に基づく業であると、なぜ思い至らぬのでしょう」

 如朦の声音は、大きくはない。だが兆薫の呵責の声に驚かされて、今や宴席に参加する人々の大半が息をひそめて、彼らに注目している。

 今や雲漂うんぴょう殿の内に、如朦の穏やかな反駁は朗々と響き渡った。

「この雲漂殿をそのままに残すよう伝えた超魏太上は、かつて仰ったはずです。神獣とは、夢に見るこの世を眺むるのみ。営々と紡がれる人々の生を慈しみ、その死を哀惜をもって見送ることしかかなわぬ、己の非力を嘆き続ける身であると。神獣を慮るというのであれば、闇雲に祀り上げるばかりではない、ただこの世のあらゆる事象をあるがままに受け容れることこそが肝要であると」

 淡々とした声が、会場の隅々にまで届く。列席者は誰もが固唾を呑んで如朦の言葉に耳を傾け、中にはおおと唸る声さえ上がった。

「それこそが真に神獣の意を汲むということ。その意も解さぬままに崇め奉られることは、神獣も本意ではありません」

 語り終えた如朦を、兆薫はただ苦虫を噛み潰したような顔で見返すほかなかった。

 彼の言うことはまさしく、かの超魏が後人に厳しく言い伝えた、神官には必須の心得ばかりであった。超魏の言葉を敷衍すれば、龍の出没やそれに伴う事象にいちいち右往左往するべきではない。

 いわんや兆薫たちのように多嘉螺を難詰するなど、もっての外ということにほかならない。

「……なぜ、そなたが超魏太上の遺訓を知る。どこぞで神官の教義でも盗み見たか」

 苦し紛れに兆薫が口走った言葉に、如朦の眉がぴくりと動いた。やおら、彼もまたその場から立ち上がる。多嘉螺や単慶が見上げる中、如朦は半歩踏み出して、兆薫に顔を寄せた。

「超魏太上がどうしてこの建物に限りそのまま保つよう厳命されたか。それは、太上が神獣の現身うつせみと会した場であるからでしょう」

 耳元で囁かれる言葉に、兆薫が再び目を見開いた。その顔には、驚愕以上の畏れがありありと浮かんでいる。

「太上は神獣の現身と言葉を交わした確かな証しとして、ここを末永く保つよう言い遺された」

「……もしや、もしやそなたは」

「雲漂殿という優雅な名も、わざわざ現身の名になぞらえてつけたもの」

「そ、その名を、二の真名を唱えることは、何卒ご容赦くだされ!」

 既に兆薫の顔には、余裕の欠片もなかった。それどころか神官帽を被る頭から首筋まで青ざめて、卒倒しかねない勢いである。如朦は彼を宥めるかの如く、「そう恐れることはありません」と言って、その肩にそっと手を置いた。

「『ひょう』とは、現身が自ら名乗った、所詮は仮初めの名。この世を泡と帰す真名には程遠い」

 如朦の声は、一段と低い。

 静まりかえった雲漂殿の中でも、その声を聞き取れた者はどれほどいただろう。

 ただ、彼がどこまでも穏やかな口調で語り終えた途端、兆薫はついに力尽きたかのように膝をつき――

 そして雲漂殿に息せき切った人影が転がり込んできたのは、ほぼ同時のことであった。

「龍が!」

 叫びながら駆け込んだのは、まだ若い神官であった。慌てふためいた彼は、宴席に立ち込める異様な雰囲気にも気づくことなく、張り裂けんばかりの声で告げた。

紅河こうがに、龍が現れました!」

「なんだと!」

 列席者の面々が、一様に色めき立つ。彼らは次々に立ち上がって、酔いも、如朦と兆薫の対峙も頭から吹き飛んだとばかりに、若い神官に詰め寄った

「紅河のどこだ! 港から見て、上流か、下流か」

「港から溢れている船はどうなる」

「停泊中の船も危ない。早急に積み荷を下ろすのだ!」

 やがて誰かが宴席から飛び出すと、その後にひとりまたひとりと、後はもう雪崩のように退席者が続く。兆薫たち神官も、龍の出現に腰を抜かして青ざめている。

 動揺が広がる中、単慶はこの機を見逃さない。混乱に乗じて、急ぎ立ち去るべし。そう判断した彼が、多嘉螺と如朦に声をかけようと振り返ると。

 いったいいつの間の出来事だろう。単慶が目を向けた先にはもう、ふたりの姿は影も形もなくなってしまっていた。

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