四之三

 大勢の客人を迎える広間の名は、雲漂うんぴょう殿という。

 夢望宮むぼうきゅうは本殿も含めてところどころに改修が入り、その度に外観も多少の変化を遂げている。だがこの建物だけは超魏ちょうぎの時代から変わらぬまま形を留めるという、歴史的な建造物でもある。

 広間には太上神官が上座に座し、その前にずらりと並ぶ左右の膳列に、各国の使節団たちの席が配される。太上神官の少々聞き取りにくい、長口上の挨拶の後、列席者はめいめいに杯を掲げて乾杯した。

 最初は厳かな雰囲気で始まった宴は、だが徐々に盛り上がるにつれて、出席者たちはめいめいに座を組んで飲み交わし始めた。大いに笑声が湧く集団があれば、額を付き合わせて論争に夢中になる人々から、酔いに任せて舞を披露する者まで現れる。祈願祭前の宴席は、各国各都市の面々が立場を取り払い、夜を徹しての無礼講が通例である。

 もっとも多嘉螺たからには、彼らと積極的に交わろうというつもりが端からない。彼女は旻の使節団にあてがわれた席の末で、如朦じょもうとふたり黙々と箸を上げ下げし、時折り酒杯を呷るのみであった。

 やがて彼らの前に、自席を離れた単慶たんけいの長身が現れた。

「多嘉螺様、どうか機嫌を直してくだされ」

 単慶は多嘉螺の前に腰を下ろすなり、申し訳なさそうな顔を見せた。対する多嘉螺の顔は、あからさまな退屈を隠そうともしない。

「どうぞお構いなく。この通り、宴を楽しませてもらっております」

「そのお顔を見て楽しまれているなどと言おうものなら、私の正気を疑われます」

「とんでもない。先ほどのげんの皆様の舞など、本物の白野びゃくや人もかくやと思わせる、素晴らしいのひと言でした」

 今宵の宴で玄の使節が披露したのは、想像上の白野人を題材にした演舞だったのである。全身純白の毛皮を頭から被った演者が、長剣をまるで手足のように自在に操る、一同から拍手喝采を浴びるほど見事な舞であった。

 ただ、多嘉螺が心の底から肩透かしを味わったのは、言うまでもない。

「それを言われると心苦しい。確かに玄が白野人を伴うと伺ったはずなのですが、どこで聞き間違えたのか」

 すっかり興味を失った多嘉螺を、単慶が弁解を交えつつなだめすかす。彼女の隣に座する如朦はしばらく黙って酒杯を傾けていたが、多嘉螺の態度があまりにすげないのを見かねて、とうとう単慶に助け船を出した。

「いつまでもふて腐れているものではありませんよ。元のお話からして尾鰭がついていたというなら、単慶様を責めても仕方ないでしょうに」

「私は別にふて腐れてなどないぞ。ただがっかりしているだけだ」

「同じことでしょう。そんな顔をしていると、単慶様がお困りになるだけです」

 なおも如朦が多嘉螺を嗜めると、とうとう己の失態を認めて頭を下げたのは単慶であった。

「いや、如朦殿。多嘉螺様が失望されるのも無理はない。そもそも真偽を確かめ損ねた、私が迂闊だったということです」

「ほう、いったい何を確かめようというのですかな」

 突如三人の頭の上に降りかかった声は、どことなく間延びして聞こえた。多嘉螺がおもてを上げると、単慶の背後に中年の神官の姿がある。

 恰幅の良い体型が纏った紫色のはおりには、多嘉螺も見覚えがあった。

「これは兆薫ちょうくん様」

 振り返った単慶が、慌てて拳を組んだ両腕を前に掲げた。彼に倣って、多嘉螺も如朦も同様に礼を示す。兆薫は「そう畏まられますな。今宵は無礼講、おもてをお上げくだされ」と鷹揚に答え、そのまま単慶の隣に腰を下ろした。

「先ほどから単慶様が難しい顔をされてると思い、つい様子を見に参ったのですよ。いかがなされました」

「いや、お恥ずかしい。兆薫様から伺った白野人の話を、どうやら私が聞き違えていたらしく。こちらの多嘉螺様は本物の白野人に会えると楽しみにしていたので、すっかり落胆させてしまいました。ひたすら詫びていた始末です」

「それはそれは」

 兆薫は口元に袖を寄せながら、同情するように相槌を打つ。なるほど、単慶に白野人の噂を伝えたのはこの神官だったか。だとすれば彼にはひとつ訊いてみたいことがある。多嘉螺はそれまでの不機嫌を瞬きひとつで振り払い、艶然とした笑顔を浮かべてみせた。

「兆薫様、お初にお目にかかります。私、りょうの多嘉螺と申します。この度は単慶様のご厚意で、耀ようの祈願祭に参詣する機会を頂戴しました。今宵こうして杯を交わすのも何かの縁、どうぞ今後ともよしなに」

 そう言って多嘉螺は、両手で抱えた酒器を兆薫に差し出した。

 若干酔いが入った頬には、うっすらと朱が差して熱を持っている。桜色に染めた多嘉螺の顔に微笑まれて、兆薫は一瞬魅入られたような間を開けてから、ようやく「多嘉螺様のお噂はかねがね」と声を返した。

「なんでも天下の珍奇を手広く集める、稜では名うての蒐集家とか。これほど美しいご婦人とは思わず、つい見とれてしまいました無礼をお許しください」

「神官様というわりには、随分とお上手ですこと」

 兆薫が手にした杯に酒器を傾けながら、多嘉螺が心持ち顔を寄せる。

「兆薫様は夢望宮でも要職にある方と聞き及んでおります。それほど高位の神官様であればご存知でしょうか。実はたまたま小耳に挟んだのですが」

 兆薫という名を、多嘉螺はつい先ほど知ったばかりである。だがはおりの色から目星をつけて持ち上げてみれば、そう間違えることもない。案の定、兆薫は上機嫌で振り返りつつ、訊き返してきた。

「はて、なんの話でしょう」

「なんでも、かの超魏ちょうぎ太上はかつて、神獣の現身うつせみと対面したことがあるとかなんとか。兆薫様は聞いたことがございますか」

 兆薫が片眉を跳ね上げて、そのままの表情で横を見た。彼の視線の先にある単慶は、目を逸らしつつ片手で酒杯を啜っている。

 兆薫は小さくため息をつき、注がれた酒にちびりと口をつけてから、言った。

「面白い噂ではありますが、寡聞にして存じませんな。おおかた城内の庶人たちが、酒の肴に拵えたものでしょう」

「兆薫様はご存知ありませんか」

 神官のすげない反応に、多嘉螺は軽く肩をすくめた。

 彼女の隣では、如朦が手にした杯に酒を満たしている。

 如朦は杯を口元まで運びながら、唇に触れる寸前で手を止めた。そのまましばらく何やら考え込むように瞼を伏せていたが、やがておもむろに口を開いた。

「……神獣の現身は、耀の無血開城を決めた超魏太上の苦渋を慮って、いっそ真名を唱えよと囁きかけたのです」

 如朦が唐突に口にした台詞に、兆薫がぎょっと目を丸くした。

 多嘉螺も単慶も、驚いた風に如朦を見返した。

 神獣の真名を唱えよとは、つまりこの世を泡と化せという、破滅へのいざないに等しい。いかに無礼講とはいえ、夢望宮で口にするには憚れる内容である。

「神獣自身が乱世に倦んでいたのやもしれません。ですが超魏太上は断固として撥ねつけました。天下万民の安寧を祈願すべき太上神官が、この世を掻き消そうという誘いに応じるとでも思うてか。すると神獣はそのような口をきいたことを恥じ入り、そのまま姿を消しました」

 そこまで言って、如朦はおもむろに酒杯を呷った。彼がひといきに杯を空ける様を、多嘉螺は初めて目にした。

「超魏太上の剛毅を伝える伝説です。兆薫様も、そう目くじらを立てずともよろしいのでは」

 兆薫はなおも目を剥いていたが、如朦の穏やかな微笑を見返す内に落ち着いたのか、深々と息を吐き出した。

「……超魏太上は耀の歴史を変えた当事者として、良くも悪くも様々な噂を立てられやすい。だがいずれも真偽は定かではなく、定かならぬ噂が真として広まることは、いたずらな偶像化を招くのみ。正しい信仰には程遠いのです」

 夢望宮の、それも高位の神官にとっては、超魏の伝説が野放図に生み出されるという事態は、たとえそれが好意的なものだとしても好ましくないということだろう。兆薫の立場を考えれば理解できることではあるが、だとしても多嘉螺にはいささか面白みに欠けた。

「超魏太上の時代に比べれば、今は天下の乱れも収まり、安心して日々を過ごせるようになりました。人々は飢えることも減り、それどころかより奢侈や珍奇を求める余裕も生じた」

 そう言って兆薫は、多嘉螺に横目でちらりと視線を投げかけた。

「それ自体は真にめでたいが、一方で神獣への崇敬は日に日に疎かになっているのではないか。我々神官はそのことを懸念しています」

「嘆かわしいことですね。神獣がなければ、私などこの世にあるはずもないのに」

 多嘉螺が笑みを浮かべた唇に指を当てる。兆薫はただ薄い目で見返して、彼女の仕草に直接は応えない。

「たとえば先代旻王は祈願祭にはご自身が欠かさず参詣されたのに、当代陛下の参詣は即位後の一度のみ。耀を庇護する旻王陛下からしてその有様では、庶人が神獣を軽んずるのも無理ないことやもしれません」

「兆薫様、それはいささか口が過ぎます」

 単慶が、さすがに聞き捨てならないといった面持ちで割り込んだ。

「夢望宮の参詣こそ遠のいてはおりますが、その代わり稜の大廟堂が主催する祈願祭参詣は欠かさず、また最大限の支援も行っております。いかに兆薫様とはいえ、陛下の信仰を疑うような言動は慎まれよ」

「なるほど、ここのところ稜の大廟堂が夢望宮をしばしば下に見るのは、陛下と昵懇であることを笠に着た思い上がりであると。さすが都の廟堂主は、強きにおもねることを恥とも思わぬらしい」

 おっとりした物言いながら、兆薫の発言はあからさまな毒に満ちている。さらに反論しようとして単慶は、ふと周囲の気配を察して口を噤んだ。

 気がつくと彼らの周りには、多くの神官たちが押しかけていた。

 多嘉螺、如朦、単慶の三人は、いつの間にか神官たちに取り囲まれている。

「皆様は、ここ最近の天下を騒がす、龍なる変怪へんげをご存知でしょう」

 今や兆薫は、詰め寄せる神官たちを代表するかのように、三人に向かって語りかけた。

「災いを振るう龍に恐れおののいて、都では神獣を差し置いて龍を崇める人々まで現れたと聞きました。それが真とすれば超魏太上の噂どころではない、邪教の火種と言えましょう」

「そのような噂こそ、稜に棲まうこの私が、寡聞にして存じ上げませぬ」

 多嘉螺は欠伸を噛み殺す代わりに、そう答えてから酒杯を傾けた。長い話に飽いたといわんばかりの態度に、兆薫は頬を一瞬ひくつかせて――次の瞬間、暗い光が宿る目で多嘉螺をめつけた。

「これは異なことを仰る。変怪を龍と名づけたのは、多嘉螺様と聞き及んでおりますよ。それはつまり、龍をもって神獣に取って代わろうという、あなたの企みではないのですか?」

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