三之四

「つまりそこの闇充あんじゅうは、とうに南天の言葉を解していたということか」

 多嘉螺たからは例によって脇息に肢体を委ねて、気怠そうにも胡乱げにも見える眼差しを向けた。

「天下の呂大人も、まんまと騙されたということだな。これはなかなかに痛快だ」

「そう苛めてくださいますな」

 呂酸りょさんは額に吹き出してもいない汗を拭う素振りで、ひたすら恐縮する。その後ろでは闇充とこうのふたりが、呂酸以上に畏れ入った体で平伏していた。

 りょうの城市の南面近く、宮城と庶人街区の境に近い一角に構えられた小ぶりな屋敷を、呂酸は闇充と蛤のふたりを伴って訪れていた。

「闇充様は、どこまで南天の言葉を解されているのですか?」

 その声を耳にして、呂酸はそういえばこの男がいたのだということに気がついた。

 多嘉螺の脇におとなしく控える如朦じょもうは、常に微笑を湛えながら、黙っている分にはまるで彼女の影のように存在感を打ち消している。だがひと言発すれば彼の穏やかな表情に、吸い込まれるように目を向けてしまう。

 それはどうやら闇充も同様で、彼は漆黒のおもてをそろりと持ち上げながら、大きな目で真っ直ぐに如朦の顔を見返した。

「ある程度の会話なら可能です。ただ読み書きはまだ難しい。南天は文字が複雑です」

「なるほど。闇充様にはこの地はまったく未知だというのに、わずか三年でそこまで流暢に喋られるとは、よほど優れた方ということですね」

 如朦は何度も大きく頷きながら、彼の細い目に浮かぶのは驚きではなく深い感心である。如朦の驚愕の表情を期待していた呂酸は、心中で秘かに舌打ちした。

「して闇充、そなたの故郷くにびょうとは、いかなる国だ」

 待ちかねたという口調で多嘉螺が尋ねた。それこそが本題だとばかりに、常なら重たげな彼女の瞼も、心なしか見開かれている。

「渺――本来の名は南天の人には発音が難しいので、このまま渺とします。私の育った土地は、緑の木々が広く繁る深い森と、広大な草原から成り立っています」

「ほう」

 闇充が厳かに語り出して、多嘉螺も呂酸も身を乗り出し、蛤も思わず面を上げる。如朦は相変わらず背筋を伸ばして座したままだが、その耳は闇充の低く太い声に傾けられていた。

「人々は木々の合間や巨木の上に家を設け、王は森を切り開いた広場に岩を積み上げた城を築きます。森を繁らせ、民にその恵みをより良く施す王が、国を栄え富ませます」

「森に基づいた国とは、南天や北天とはまったく様相が異なるな」

「人々は皆、私と同様に黒曜石の如き肌を持ちます。概ねの男はこの通りうなじに髪を束ね、女は一本一本を丁寧に編み込んで互いに美しさを競います」

「そなたのように黒い肌を持つ人々が集う土地か。理屈ではわかっても、なかなかに想像しがたい」

「それは訪れてみないことにはわからないものでしょう。この地に流れ着いて初めて蛤を見た時、私は彼女の砂色の肌に驚きました」

 多嘉螺は根が好奇心豊かであるために、常識の埒外にある事象も、大抵は受け容れる教養がある。しかし闇充も彼女に勝るとも劣らない、異なるものへ一定の理解を示すだけの素地がある。もしかすると闇充という男は、故郷では結構な知識階層ないしは貴人の類いなのかもしれない。

「渺では森が国の礎ですが、海に面した土地では漁や交易も盛んです。木材に恵まれているため、堅牢かつ快速な船を造る技術も進んでおります。私はそういった船乗りや大工たちを束ねる、海の民の長でした」

 やはり、と呂酸は思わず頷いた。

 逞しい膂力を振るう一方で、こうして多嘉螺の前で語る闇充の口に淀みはない。異国の貴人を前にしても堂々と振る舞える彼は、おそらく故郷では相応の立場にある者として人々を導いてきたのだろうと窺える。

「海の先には何があるのだろうという思いを、私は長年抱き続けてきました。そしてこれまでにない最大の船を造り上げた時、私は思いを思いのまま留めることができず、周りが止めるのもきかずに遠洋に繰り出しました」

 闇充の言葉は一言一句、呂酸にはいちいち共感できるものばかりであった。

 海の彼方にまだ見ぬ世界を思うなら、それがかなうほどの船を得たなら、どうして旅に出ないでいられようか。

「最初の一ヶ月は順調でした。途中では人の住まない島をいくつか渡りつつ、北へ北へと向かい……しかしそこから先は、行けども行けども海以外見当たらない。やがて水も食糧も尽き、船員たちも次々と斃れていく中――」

 眉間に深い皺を寄せ、太い唇の端が震えている。闇充にとっては辛い記憶に違いない。口を噤んでしまった彼を、多嘉螺も誰も先を促そうとしない。

 しばしの沈黙の後、闇充は伏せていたおもてを上げた。

「海面から天まで届くような化け物が、我々を襲いました」

「なんと」

 呂酸が思わず声を上げ、多嘉螺も整えられた眉を高く跳ね上げる。

「嵐を纏った大蛇の如きそれ・・を、私の船は避けようもなかった。それどころか船は徐々に引き寄せられて、近づくほどに強風が増す。積荷も船員も吹き飛ばされて、私の船はばらばらに砕け散ってしまいました」

 そこで闇充は再びひと息をついた。

 海上に現れた大蛇の如き化け物に、仲間も財も全てを奪われて、彼の苦渋はいかほどであろう。

「そして気がつけば、たったひとり浜に打ち上げられていたところを、蛤に拾われた。彼女は私の命の恩人です」

 闇充に振り向かれて、蛤がむず痒いような泣きそうな顔で、おもてを伏せた。

 浜で拾われてから三年、闇充はあえて南天の言葉を解さぬ振りを続けてきた。闇充の通訳という役割を失えば、蛤はまた村外れに追いやられてしまうことを案じたのだという。彼が蛤に感じた恩義は、それほど深い。

 だが呂酸は、闇充が蛤に見せた気遣いを脇に置いても、尋ねないではいられなかった。

「闇充、お前が見た化け物とは、あの絵に描かれた変怪へんげではないか」

 呂酸が指差したのは、脇息にしなだれかかった多嘉螺の背後、壁に掛けられた長尺の掛け軸である。

 そこには既に亡くなった絵師の揖申いしんが精魂込めて描き上げた、恐ろしくも神々しい変怪の姿があった。

「言われてみればあのような姿であったかもしれませんが……何しろあの時は私も混乱して、はっきりとは。あれはなんという変怪ですか」

「巷では龍、と呼ばれております」

 如朦の答えに、闇充が「龍」と繰り返す。

「条猪様の屋敷でも何度かその名を聞きました。そうか、あれが龍」

「ここ最近、南天の周りによく見かけるという変怪です」

 頷きながら、如朦が言う。

「南天を悩ます変怪の出没が、巡り巡って闇充様をこの地に遣わしたということになります。奇縁と言えば奇縁ですね」

「そういうことだ、闇充。そなたが私の元を訪れたのは、これはもはや神獣の思し召しと言って良い。かくなる上はそなたも我が屋敷の住人となれ。渺について、もっと私に語って聞かせてくれ」

 多嘉螺が嬉々として、闇充に手招きする。そこで呂酸が、慌てたように口を挟んだ。

「あ、いや、多嘉螺様。そのことについてなのですが」

 訝しげに見返す多嘉螺に、呂酸は両手を床について頭を下げた。

「聞いた通り、闇充は優れた船乗りにして、造船の知識も豊富。そして人の上に立つ器量があります。彼には是非とも、我が右腕として今後も船に携わることをお許し願いたく」

 既に多嘉螺からは、稀覯品を買い求めるための手付金まで預かっている。にも関わらず、肝心の商品たる闇充を引き渡すことが、呂酸にはどうにも惜しまれた。彼の知識、技能、そして何より未開の地を目指す情熱のどれも、呂酸にとっては喉から手が出る程欲しい。

 それは単に優秀な船乗りにして造船技師というだけではない。闇充という男の中に、呂酸は同志の姿を見出しつつあった。

 平身低頭する呂酸の頭を、多嘉螺が見るからにしかめ面で見下ろしている。商人が依頼人の注文品を手渡そうとしないのだから、当然のことだ。目を合わせずとも、彼女の目が冷ややかな怒りに満ちていることを想像して、呂酸のこめかみに脂汗が浮く。

 長く商いを生業としながら、呂酸がこんな理不尽を言い出すのは初めてのことである。今後の取引を打ち切られても致し方ないだろう。だが呂酸は多嘉螺に無茶を願い出た自分を、微塵も後悔しなかった。

 むしろここで闇充を手放せば、死ぬまで悔いることになるだろう。そう確信していた。

「よかろう」

 多嘉螺の艶のある声を、呂酸は聞き間違えたのかと思った。そろそろと視線を上げれば、多嘉螺の目には怒気よりも愉悦に満ちている。

「お許しいただけるのですか」

「ただしいくつか条件があるぞ」

「な、なんなりと」

 再び頭を低くする呂酸に、多嘉螺が愉しげな声音で告げた。

「ひとつは、蛤も共に引き取ることだ。そうでなければ闇充もそなたに仕えようとはせんだろう」

「それはもちろん」

「では次、こちらが肝要だ。そなたらは渺を目指せ」

 その言葉に、呂酸がはっとしたような面持ちで顔を上げた。

「渺を目指せるような船を造るのだ。そしてその船が完成した暁には、私たちを渺に連れて行け。手付金もそのために充てて良い。不足があればさらに出す」

 呂酸の後ろでは闇充が、黒々とした面立ちに驚愕を浮かべたかと思えば、やがて口元を硬く引き結び頷いている。蛤は闇充と多嘉螺を交互に見比べながら、泣き笑いのような顔を浮かべている。

「私は南天でも北天でもない、見たこともない世界を目にすることを望む。そのためにそなたらは存分に尽くせ」

 脇息に片肘を乗せたまま、多嘉螺の言うことは何から何まで、夢物語と一笑に付されてもおかしくない。

 だがその言葉こそ、今後の一生をかけて果たすべき大事であると、呂酸は胸に深く刻んだ。

「承りましてございます」

 呂酸は思わずぶるっと全身を震わせてから、今一度深々と頭を下げた。

 彼の返事を聞いて、多嘉螺が満足そうに笑みを浮かべる。その傍らに控える如朦は、まるでことの成り行きを見届けて満足したかのように、細い目を一層細めるのであった。


(第三話 了)

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