三之三
呂酸の持ち船は、南天でも最大級の規模を誇る。大きく広げた三枚の四角帆に風を受けて、船は海菖の沖を快走中であった。
左手の遠くに連なる海菖の断崖絶壁を眺める呂酸に、この船の船長が告げた。
「旦那、あの黒いののことですがね」
潮焼けして黒ずんだ自らの肌を棚に上げて、彼が黒いのと指すとしたら、ひとりしかいない。
「
闇充はやたらと船に興味を示していたのだが、最近は
「闇充に船内を見て回ることを許したのは私だ。船長には迷惑というなら、控えさせるが」
「いえ、そいつは大丈夫です。むしろあいつは、見かけの割には大層おとなしいし、時折りしつこくものを尋ねてくるのが鬱陶しい程度で」
ただ、と船長は言葉を足した。
「あいつの尋ねる内容が、どうにも素人とは思えねえんですよ」
それはどういう意味かと、呂酸が片眉をわずかに跳ね上げる。
「どうもあいつは、船の造りだとか
「ほう」
船長の言は、呂酸も薄々勘づいていたことであった。主人がさして驚きを見せないところから、そうと察したのであろう。船長は頷きながら言った。
「私が思うに、あの闇充って野郎は、元は船乗りか船大工に違えありません」
※※※
その晩、
船主に割り当てられた個室とはいえ、船という空間には限りがあるから、三人も入ればいささか窮屈になる。しかもそのひとりが闇充の巨躯ともなれば、三人はほとんど膝を突き合わせるようにして床に座した。
「旦那様の仰る通り、闇充は
座の中央に灯した油壺の明かりに照らされた、蛤が伏し目がちに答える。同時に闇充が、ゆっくりと太い首を縦に振った。
「やはりか。そもそも
渺なる国がどれほどのものかは知れない。ただ少なくとも、闇充が蘇沙の浜までたどり着く程度の、沖合に乗り出せるだけの船を持つということになる。
闇充の故郷は、存外
根拠は薄弱であるが、とりとめもない妄想は、呂酸の胸中に年甲斐もない好奇心を搔き立てる。
「ここはひとつ、渺という国の話を是非聞き出したいところだ。幸い、時間はたっぷりある」
呂酸の言葉の、詳細はわからずとも意味が通じたのだろうか。闇充はずいと身を乗り出して、今度は大きく頷いた。これは、夜を徹しても耳を傾けるに価する――という呂酸の期待は、だがなかなか目論見通りとはいかなかった。
何しろ通訳の蛤が、言葉を知らなすぎた。
呂酸の問いを訳するにも、闇充の答えを伝えるにも、適当な言葉が思いつかずに混乱してしまう。ひとつひとつの問答があまりにも時間を要するので、呂酸もさすがに匙を投げざるを得なかった。
「これは
闇充ももどかしいのだろう。残念そうに太い眉根を寄せている。そして蛤は通訳の役目を果たせなかったことを恥じているのか、それとも叱責を恐れているのか。俯いたまま顔を上げようとしない。
だが彼女はそもそも貝を拾って糊口を凌いできた、浜でも爪弾きだったという女なのだ。あまりに期待しすぎるのも酷というものであった。
明かりを灯す油壺の中身も、そろそろ乏しい。
「今夜はこれまでにしておこう。ふたりとも下がって良い」
呂酸に促されて、闇充と蛤が部屋を出る。
低い板戸を、頭を下げて潜り出た闇充は、だが甲板に出た途端に足を止めた。その大きな背中に立ち塞がれて、蛤が困惑した声で尋ねる。
「どうした、闇充。どいてくれんと、出れんよ」
蛤に背中を拳で軽く小突かれて、闇充はゆっくりと歩き出した。そのまま右の手摺りに掴まって、巨体を乗り出すように前を見る。
目の前に広がる海は黒々として、白波の一片も判然としない。いくら夜半とはいえ、これほど海が漆黒であるということはと天を仰ぎ見れば、煌々と輝いていたはずの三日月が見る見る黒雲に遮られていく。
闇充の太い声が何事か告げる。彼の言葉を聞いて、ゆっくりと呂酸に振り返った蛤の顔は、不安いっぱいに青ざめていた。
「旦那様、闇充が言うことには、間もなく嵐が来るそうです」
***
「帆を下ろせ! 積荷は荒縄で縛れ!」
甲板に飛び出した船長が、潮嗄れした声をあらん限りに張り上げる。闇充に問い質すまでもない。海と空の様子をひと目見れば、その言葉が正しいことは、彼も即座に理解していた。
黒雲の動きは速く、恐るべき勢いで空一面を覆っていく。気がつけば強風が吹きつけて、船の揺れも大きい。頬や手の甲には、大きな雨粒がいくつも当たった。対処の時間は、おそらく呂酸が思う以上に限られている。
「旦那は部屋に籠もってくだせえ!」
この状況に飛び込んでも、足手まといにしかならない。呂酸は身の程をわきまえて部屋に戻ろうとして――
「
「でも、闇充が!」
手摺りに掴まりながら蛤が指差す先を見れば、闇充はいつの間にか主甲板に下りて、帆を下ろそうとする水夫たちの列に加わっていた。
「おおおおお!」
闇充の声は急速に増す雨脚と猛風の中でも、ひときわ太く響いた。黒々とした二の腕の筋肉が盛り上がり、踏ん張る足下は大きな揺れの中でも根が張ったようにびくともしない。他の水夫たちが覚束ない足取りの中で、闇充はぐいぐいと力強く縄を引き、帆はするすると下りていく。
「助かるぜ、黒いの! 次は二の帆を頼む!」
船長の言葉に、闇充は頷きながら次の帆を下ろしにかかった。水を吸って重くなった帆も、闇充が加勢した途端に引きずり下ろされる。彼ひとりでいったい何人分の膂力を蓄えているのだろう。そのまま三の帆も下ろして、縄で括りつけていた闇充の手が、不意に止まった。
「こう!」
彼の視線の先には、今や大時化となった波が寄せて揺れに揺れる甲板上で、四つん這いになった蛤の姿があった。
「あ、闇充は、
蛤は自らを奮い立たせるように、闇充ににじり寄ろうとする。雨に打たれてずぶ濡れになった彼女の顔は、船酔いのせいかひどく顔色が悪い。
闇充が彼女の手を取ろうとしたその矢先、船の横腹に波が打ちつける音が響いた。同時に船体がぐらりと揺らぐ。
直後、巨大な波が手摺りを越えて、傾いだ甲板に降り注いだ。滝のように打ちつけられる水量に、小柄な蛤はひとたまりもない。
声を出す間もなく吹き飛ばされた蛤は、無我夢中で手を伸ばした。
だが彼女の指先は、手摺りにも届かないまま空を切る。
船外に投げ出されようとした蛤の、その手をがっしりと掴んだのは、闇充の黒く大きな右手であった。
左手は三の帆を縛る縄の端を握り締めたまま、手摺り柱の隙間から引きずり上げた蛤の身体を、闇充はそのまま太い腕の中に抱きかかえた。
「馬鹿者が!」
闇充が太い怒鳴り声を張り上げた。
周りの水夫や船長、そして船室から顔だけ覗かせていた呂酸の耳にも、彼の怒鳴り声は嵐を遮るように轟いて聞こえた。
「なんという無茶をするか!」
「だ、だって」
闇充の腕の中で全身に怒声を浴びながら、蛤は涙ながらに抗弁する。
「あんたの、あんたの口をきかんと思って。あんたの口をきかんかったら、
嵐の中のふたりに見入りながら、室内に吹き込む雨に全身が濡れ鼠になることも忘れて、呂酸はただ呆気にとられるばかりであった。
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