三之二
「こいつは南天の言葉を解さないから、名前もわからん。といって名無しのままじゃ不便だからな」
条猪が喋るのに半拍遅れて、小柄な女が闇充を仰ぎ見ながら何事か告げた。すると闇充は黒い顔を自ら指差しながら、
「浜に流れ着いた闇充を見つけて、ずっと世話してたってのが
蛤と呼ばれた女が、上目遣いのまま頭を下げる。並んで立つと、小柄な女が巨大な黒い影を背負っているようにしか見えない。
「いや、驚いた。まるで闇を纏うかのような異相だな」
呂酸が思わず口にした喩えに、条猪が膝を打った。
「うまいことを言うな、呂酸。だがこいつは見てくれだけじゃない。並外れた馬鹿力に、それに存外賢い。難があるとすれば、何につけ蛤を挟む必要があるってとこだが――」
「いや、悩むまでもない」
条猪の言葉を遮って、呂酸は既に肚を決めていた。
「闇充と蛤、ふたり揃ってこの呂酸が引き取ろう」
誰もが目を剥くであろう、漆黒の巨漢。これなら珍品奇品を見慣れた
そして彼女の傍らに澄まして控える、あの青年も驚かせるやもしれぬ。
「龍に勝る
呂酸の感嘆を、蛤が闇充に告げる。すると闇充は低い声で何事か口走った。蛤は呂酸と闇充の間で何度か視線を往復させたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「『私は変怪ではねえ。あんたらと同じ人間だ』と、闇充はそう言っとります」
ほう、と呂酸が闇充を見返す。
全身漆黒の風体は、誰の目にも変怪としか映らないだろう。だが双眸から放たれる眼差しに、思いがけず深い知性が閃いてみえたことに、呂酸は気がついた。
***
「闇充は、
漁師だった夫は何年も前に海で命を落とし、まだ子もなかった彼女は漁村という共同体に身の置き場もなく、辛うじて村の外れにひとり暮らすことを見逃されてきた。その日も人が寄らない奥の浜を、貝が潮を吹く気配を探しながら歩き回っていた彼女は、波打ち際にごろんと転がる黒い影を目の当たりにした。三年ほど前のことだ。
「
「言ってはなんだが、お前の倍もある大男を、よくまあ運べたものだな」
「なあに、
驚く
「でも闇充はあの通り目立つから、いつまでも隠し通せるもんでなさ。
「そこは見た目通りの怪力ということか」
「その騒ぎを聞きつけた
条猪にしてみれば、珍しい変怪を手に入れた程度の気紛れだろう。だが蛤には恩人に違いない。彼女が呂酸を見る目がどこかおどおどとしているのは、恩人から引き離されてこの先に不安を感じているからだろうか。
蛤の隣では闇充が巨体を伸びやかにして、しきりに周囲に目を向けている。
三人は、呂酸が所有する商船の、後部船室周りの甲板上にいた。
条猪から闇充と蛤の身を買い取った呂酸は、翌日にはもう二人を連れて船上にあった。彼の船は既に予定されていた荷を搬入済みで、後は主人の呂酸を待つのみだった。呂酸が小柄な女はともかく、漆黒の巨漢を連れて戻ったことに、水夫たちは大いに動揺したが、これもまた
かくして船は
「そんなに船が珍しいか、闇充」
闇充は船に乗り込むなり、大きな目を見開いてしきりに首を左右していた。変怪と見紛う巨人が、まるで童子のように興味を示すその様は、どこか微笑ましくさえある。
だが呂酸は、
「闇充、お前はいったいどこから来たのだ。海の底から現れたか、それとも雲の上から突き落とされたか」
呂酸の問いを、蛤が小さな早口で言い直す。すると闇充はひとしきり思案顔を見せると――そういえばこの男は、乗船して以来随分と表情が豊かになって、呂酸にも読み取れるようになった――人差し指をつと持ち上げて指し示した。
黒く太い指は、南の海の彼方をまっすぐに指差している。
「びよん※△■」
闇充が発した言葉の意味が、呂酸にはわかりかねた。首を傾げる呂酸を見て、蛤が補うように耳打ちする。
「旦那様、闇充の
「ほう、渺」
渺という国の名を、呂酸は聞いたこともない。だがこの歳になっても、まだまだ自分には見知らぬ事柄が世に満ち溢れているということを、呂酸はここ最近身をもって痛感している。
闇充が指差す先に、渺という未知の世界が広がっているのかもしれない。それはむしろ、呂酸の好奇心を焚きつける想像であった。
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